(第16回)神風

栗田艦隊のレイテ湾突入を支援するために、海軍航空隊では遂に、一機一艦の体当り攻撃、「特攻」が企図されました。
但しこの時点での特別攻撃隊は、あくまで捷一号作戦において敵空母の飛行甲板を破壊し、一時的に敵航空戦力を削ぐことを目的としたものでした。

この悲壮な任務にあたり、関行男大尉率いる「敷島隊」、そして「朝日隊」「山桜隊」の3隊が編成されており、各隊共に捷一号作戦発動とともに会敵機会を狙っていましたが遂に10月25日早朝、栗田艦隊の突入に呼応した出撃が命じられました。零戦5機からなる敷島隊は、ついさきほどまで栗田艦隊と戦っていた護衛空母群を発見し、空母セント・ローに突入、セント・ローは沈没しました。

関大尉についてはwikipediaなどにも沢山の記録がありますが、新婚の妻と、女手一人で育ててくれた母上が郷里に一人残されていました。
「いってくれ」と上司に言われ、長い沈黙のあと、顔を上げて

「是非やらせてください」

と答えた関大尉の心中や、そしてこの特攻で命を落とされた方々の心境やどのようなものだったのでしょうか。

日本は、彼らを軍神と崇めますが、戦後は一転して戦犯扱いにし、関大尉の老いた母の住む家に投石する連中さえいました。
僕は日本人のそういうところが非常に嫌いです。

もとより栗田艦隊の支援のために発動された特攻作戦でしたが、これ以後、陸軍航空も含めて恒常的に継続されることになりますが、特攻については、また別で書くことにします。

レイテ湾突入直前で、幻の敵を求めて回頭し、ブルネイ基地に帰投した栗田艦隊でしたが、内地へ回航する際にも、戦艦金剛が敵潜水艦の雷撃を受け沈没する等、さらに被害を被りますが、照雄さんの乗る榛名含め、傷ついた栗田艦隊は、出撃時の姿とはうって変わった姿ではありましたが、遂に日本へ生還しました。

しかし栗田艦隊の戦闘艦の多くは、その後活動する為の石油なく、呉で浮き砲台として係留されるしかありませんでした。

つまりこのレイテ沖での戦いで、日本海軍の戦艦部隊も、壊滅こそ免れましたが、その後の組織的な運用ができないほどに、消耗してしまったことになります。

一方、フィリピンで死闘を繰り広げている陸軍は、圧倒的な物量で攻め込む米軍に押され、圧迫されはじめていました。リモン峠、オルモックの戦いなど、詳しく知りたい人は大著、大岡周平の「レイテ戦記」を読んでみてください。制海権、制空権を握られ一切の補給を絶たれた日本軍の、壮絶な戦いの記録です。たいへん不謹慎ながら、叙事詩のような、圧倒的な戦闘の記録です。

そしてレイテ戦含め、フィリピン戦線における生還者の方の手記は非常に少なく、昔は僕もそれが不思議だったのですが、フィリピンの戦場では多くの部隊が全滅されており、生き残られた方は非常に少ないため、フィリピンでの戦闘記録は、その多くが米軍の記録によるものなのです。

具体的には、日本軍はレイテで約85,000人の方々が戦い、約80,000名の方々が斃れられました。これはレイテ戦のみの数字です。フィリピン戦全体では、33万人以上の方々が亡くなりました。そしてここでも、飢餓と病の為に多くの命が失われたのです。

それでも生き残った方々は山中に潜み、自活を続けながらゲリラ戦を展開しました。

そのころ照雄さんは、内地へ生還し、祖母テイさんと結婚しています。
というか婚姻の許可願を出しています。
あまり詳しくないのですが海軍では、下士官以上になると結婚は所属鎮守府を経由して海軍大臣に申請しないといけなかったようです。

レイテ沖から帰ってすぐに見合いしたとか、そういう事ではないでしょうから、戦死を覚悟していた照雄さんが奇跡的に生還して、テイさんとの結婚を決めたのではないかと、僕は孫でありながら何も知りませんので、想像するしかありません。

あまりに暗い話ばかりなので少し気持ちを変えて書くと、
当時海軍では沢山の隠語が使われていました。
・チョンガー・・・独身
・エムエムケー(MMK)・・・もててもてて困る
・エス(S)・・・芸者
・エヌる・・・惚気る
・ケーエー(KA)・・・かかあ(妻)
・ビーエー(BA)・・・ばばあ
爺さん世代も女子高生みたいな言葉を使ってたのかと思うと親近感がわきます。

そして主戦場は遂に、日本本土である硫黄島へと移っていきます。


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