(第10回)ソロモン消耗戦

昭和18年2月の日本軍ガダルカナル撤退以降、ソロモン諸島からニューギニア方面での戦いが激化します。

日本は開戦当初からラバウルに陸海あわせて10万の将兵を進め、
大規模な航空基地と要塞を築いていましたが、この頃から連日、航空戦に明け暮れる事になります。

また海上でもレンネル島沖、ビスマルク海、クラ湾、コロンバガラ島沖、ベラ湾、ベララベラなど数多くの海戦が起こり、日本海軍も徐々に消耗していきます。特に駆逐艦にとってソロモン方面は「駆逐艦の墓場」と呼ばれるほど、激烈を極めるものでした。

また陸軍もニューギニアのブナ、ポートモレスビー、ブーゲンビル島において激戦を繰り広げ、徐々に物量に勝る連合国に圧迫されはじめていました。

しかしこの頃の、日本海軍の航空隊はまだベテランパイロットを多数抱えており、空戦において有利な状況は開戦以来変わっていませんでした。

例えば英国にスピットファイアという名戦闘機があります。
ドイツ軍によるイギリス本土上陸作戦時、英国本土上空でドイツ空軍を迎え撃ってイギリスを救ったと言われる名機であり、英国にスピットファイアがなければ、歴史は変わっていたかもしれません。

そんなスピットファイアも、零戦に対して一対一で勝負を仕掛けてくる事はありませんでした。日本の搭乗員の技量、練度はズバ抜けて優秀だったのです。

しかし連合国は無尽蔵に戦闘機と搭乗員を生産、補給できるだけの国力を持っています。一方日本軍には消耗した航空機、搭乗員の補給は少なく、搭乗員は連日休む間もないどころか、一日に何度も出撃するうちに一人、また一人と南方の空に命を落としていきました。

この激しい消耗戦で、日本軍は1000機以上の航空機と優秀な搭乗員、そして艦船を失う事になります。
そして、前線基地へ視察に向かった連合艦隊司令長官の山本五十六が、
ブーゲンビル島上空で待ち構えた敵戦闘機に撃墜されるという事態が起こります。

一方、日本軍の航空拠点ラバウルでは、陸軍大将 今村均の指揮のもと
大規模な築城、自給自足体制が整備され長期戦への備えが着々と進んでいました。この今村均という人に関する書籍は、なんでも良いので一度読むことをお勧めします。10万人の将兵の士気を保ち、連合国に「ヤバい、ラバウルを攻略するのはやめよう」と思わせ、自給自足で何年も戦える地下要塞と耕作地を築き上げるなんてちょっと想像できません。

結果的に、ガダルカナルを抜くのにかなりの犠牲を払った連合国にとって
10万の日本軍が拠るラバウルはかなりの脅威であり、それならばと占領する事を諦め、ラバウルを飛び越えて進む事を選択します。
(日本軍は制空・制海権がない以上、補給ができないので放置しておけば干からびるという判断です。しかし豈図らんや、ラバウルは枯渇するどころか要塞化が進みました)

なお、僕の故郷熊本に本拠を置く第六師団の主力は、ブーゲンビル(ボーゲンビル)島で戦っていました。「餓島」に対し「墓島(ボ島)」と言われたこの島での戦いも凄惨を極め、多くの方々が飢餓と病で命を落とされます。

それでも連合国は、終戦までこのブーゲンビル島を完全に抜く事は出来ませんでした。圧倒的に火器、人員ともに優勢だったにもかかわらず、です。
日本の方々は、将校は別かもしれませんが、衣服はボロボロになり、靴は腐ってしまって裸足で行動、髭も髪も伸び放題で食料は無し、軍刀を杖にしてようやく歩けるという状態でした。
そのような状況にあって、3食たべてコーヒーを飲み、戦車でガラガラやってきて一定期間戦えば後方部隊と交代できるという連合国を足止めした日本軍のことを思うと、僕は胸が締め付けられる思いです。

また、日本軍が守備隊を配置していたアリューシャン諸島のアッツ島(ものすごい北の寒冷地です)にも連合国が上陸し、日本軍は山崎大佐指揮のもと圧倒的に兵員、武器で勝る米軍を相手に激しく抵抗し、アメリカ軍の降伏勧告を拒否して、遂に全滅します。

大本営は「全滅」という言葉が国民に与える動揺は大きいと判断して「玉砕」という言葉で表現しました。

そして一方、僕の祖父である照雄さんは、ニューギニアの激戦地から横浜の海軍工機学校へと移動し、昭和18年10月1日、晴れてマーク(術章)持ちとなって即日、戦艦「榛名」乗組みを命じられました。
おそらくニューギニアに残っていたら、祖父は生きて日本へは帰れなかったでしょう。当時所属していた第七根拠地隊の方々は、ほとんどの方が玉砕されました。

こうして、祖父は連合艦隊勤務となります。
実質日本海軍が壊滅するまで、あと1年ちょっとという時期でした。



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