(第11回)絶対国防圏

そして迎えた昭和19年、クェゼリン島の日本軍玉砕、2月には連合艦隊の本拠地ともいえるトラック島が空襲を受け、航空機270機、艦船も数十隻失うという大損害を出します。

迫りくる連合国の包囲網に対し、日本はマリアナ諸島、カロリン諸島、ゲールビング湾、ニューギニア以西を範囲とした「絶対国防圏」を設定し、最重要拠点であるサイパンの要塞化を進め、時の首相東条英機はサイパンの防衛に絶対の自信を表明します。

しかし、この「絶対国防圏」の外側でも、例えばニューギニア、ブーゲンビル、ラバウルなどでは日本軍が死力を尽くして戦っていました。それらの地域はどうなったか。補給を打ち切られ、現地にて自活しながら戦えという通達でした。僕は小さいながら会社を経営していますが、戦争指導というものがいかに困難で、このときの判断がいかに冷酷なものであったのかを思うとき、僕のような人間にその是非を論じることは出来ないと思います。

一方、泥沼の日中戦争においては、何とか蒋介石への支援ルートを断ちたいという焦燥からビルマ方面でインパール作戦を実施しますが、この作戦はそもそも無謀でした。ビルマから進軍してインドに至り、インパールを攻略しようという長大な作戦の補給計画は杜撰で、失敗は目に見えていました。その結果、一時はインパール目前まで迫った日本軍でしたが、補給がなくては戦うことはできません。日本軍は死屍累々、後に「白骨街道」と呼ばれた壮絶陰惨な撤退戦を強いられることになります。白骨街道とは、文字通りの意味です。どんな気持ちで退却されたことでしょうか。

また、中国大陸においては「大陸打通作戦」が実施され、約50万人の日本軍が投入、日本陸軍健軍以来、最大規模の作戦でした。
2400kmに及ぶ大攻勢作戦(しかも徒歩です)が展開され、日本軍は多くの犠牲を出しながらも一定の成功を収めます。

つまり南方で戦い、中国においても戦い、ビルマ方面でも戦い、満州では対ソ連の関東軍を張り付けておく必要がある。二正面作戦どころではありません。ヨーロッパ大陸を除けば、日本軍は世界中で戦っていました。

そして昭和19年6月、築城準備の整わないサイパンに米軍が上陸します。東条首相はサイパン防衛に絶対の自信を表明していたはずですが、内閣、軍中央の予想を遥かに超える物量で攻め込まれ、勇戦奮闘した3万人の日本軍守備隊も遂に玉砕、内地への引き上げが間に合わなかった民間人約1万人の方々も運命を共にされました。
今でこそサイパンはリゾートとして知られていますが、当時は普通に日本人がたくさんいて、日本企業の支店や料亭もあれば、勿論日本人の学校だってあったのですから、いわば内地と同じです。
つまり絶対国防兼の一端は、たやすく破られてしまったのです。

東條内閣は引責総辞職、小磯国昭を首相とした新内閣が組閣されました。
そしてサイパンを攻略した連合国は大型爆撃機、つまりB29を多数配置、
米機動部隊はなおも飛び石伝いに日本本土へ向けて進撃し、9月、米国海兵師団がパラオ諸島のペリリュー島に上陸しました。
このペリリューを守っていたのは、熊本出身の中川州男大佐率いる守備隊約11,000人。この島で米軍は、地獄の戦いを強いられます。

サイパンでの戦訓から、日本軍はペリリュー島の地下深くに地下陣地を構築し、徹底持久戦を覚悟の上で待ち構えていました。
一方の米軍は艦砲射撃の援護も勘案すると数百倍の火力であり、海上からの準備砲撃で島の形が変わるほどの砲弾を撃ち込んだ後、「3日で攻略する」と宣言してペリリューに上陸しましたが、一か月半経ってもペリリニューは抜けず、壊滅したのは米国第1海兵師団の方でした。海兵隊司令官は心労から心臓病を発病したという記録があります。

しかしながら第一海兵師団と交代で新手の米陸軍第81師団が投入され、
武器、食料ともに一切の補給が無い日本軍はジリジリと包囲されていきます。そして兵力弾薬ほとんど底をついた11月24日、司令部は玉砕を決意。このとき米軍上陸から二か月半が過ぎていました。

この間、天皇からの嘉賞11度、感状3度が与えられ、島内で死闘を続ける将兵の方々を勇気づけました。

そして玉砕前日、司令部は大本営へ向けて、ざっくりこういう意味の電文を飛ばします。

「俺たちぺリリューの日本軍は、明日一切の暗号書、重要書類を焼却して軍旗奉焼の後、司令部ごと最後の突撃を行う。ついては準備が整い次第、『サクラ』を連送するよ」

大本営ではその通り翌日、

「サクラサクラ」

という電信を受信し、以後ペリリューからの通信は途絶えました。
ここにペリリューの日本軍は玉砕したのです。

現在のペリリュー島には慰霊施設として神社があり、
そこの記念碑にはこう書かれています。

諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ

米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ

ぺリリューの戦いから75年。リゾートとしてのパラオ諸島は知られていても、この戦いを知る日本人は多くありません。そういうこともあって、数年前天皇皇后両陛下がペリリューを慰霊に訪れられたニュースに、目頭が熱くなりました。僕はペリリューだけでなく、世界中の戦地にて散華された英霊を慰霊する気持ち、これが日本人には圧倒的に足りていないと思います。

一方、太平洋上では、米軍のペリリュー島上陸から遡ること3か月前の昭和19年6月、サイパン戦に伴い「あ号作戦」が発動され、日本海軍の総力を挙げたマリアナ沖海戦が起こり、祖父である照雄さんは戦艦榛名で生死を賭けて戦っていました。

ここから戦争の趨勢はめまぐるしく動き、僕のこのメモも立体的に経過を書いていくことにします。



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