(第20回)スターリン、シベリア

ソ連は、といいますかスターリンは欧州戦線が片付いたら日本との戦いに参戦する、という連合国との裏打合せは既にできていました。

なぜ日ソ不可侵条約を一方的に破棄してまで日本との戦争に加わるかと言えば、それは戦勝の果実が欲しいからでした。そしてスターリンは戦後の青写真をはっきりと頭の中に描いていたのです。

日本は長年、ソ連を仮想敵国としてきました。ですからソ連との国境に接する地帯に配置されていた「関東軍」というのが、日本最強の陸軍部隊とされてきました。いわゆる「無敵関東軍」というやつです。

戦時中も関東軍は数十万人、満蒙に配置されており、中国と戦争している「支那派遣軍」は、最終的に100万人以上の規模になります。そして、太平洋でアメリカを中心とした連合国と戦争したわけですから、これはなんというか、一般に言われている陸軍が暴走して戦争になったとか、そういう次元の話ではなく、日本の追い詰められ方は、開戦前に永野大将が言った
戦うも亡国、戦わざるもまた亡国
という状態だったのではないでしょうか。

もともと太平洋での戦争は海軍が引き受けるという取り決めでしたが、ガダルカナル戦以降、南方戦線が苛烈になるにつれて関東軍からは師団単位で戦力が引き抜かれ南方に投入されましたので、関東軍の戦力低下は否めない状況でした。

しかしそれをソ連に悟られないように人数だけは補充し、無敵関東軍の威容を保っていましたが、昭和20年の段階では小銃すら全員分いきわたらないという状況でした。そんな関東軍にソ連が攻め込んだのです。

ソ連は、アメリカの原爆開発チームにスパイを潜入させていましたから、原爆実験が成功したという報を聞いて「急がねば日本が降伏して戦争が終わってしまう」と、スターリンは急いで参戦しました。要するに弱体化した降伏寸前の日本を叩いて最小のコストで領土を取ろうという、そういうことです。

ですからスターリンは、欧州戦線から復帰した兵力に、ものすごい無理を強いて日本との戦争準備を進めさせました。ソ連兵は、
「俺たち欧州で命がけで戦ってきたのに、休み無しでこんどは日本と戦争かい!」
と非常に殺気立っている状態での戦闘開始でした。

苛烈な戦闘を経て8月下旬に日ソ間で停戦協定が結ばれ、在留邦人の保護について合意を得ましたが、一部の極東ソ連軍は協定を無視して多くの日本人の命と尊厳を奪いました。
日本が連合国に降伏した後もソ連が攻撃をやめなかったのは普通に考えて酷いわけですが、その行為が戦後問われることはありませんでした。

そしてソ連は、北海道の半分を、ソ連領にする事を主張しました。
この戦争でものすごい犠牲を払ったアメリカはソ連の虫の良い要求に怒ってそれを許しませんでしたが、所謂北方領土はその時ソ連に取られました。

そして「これが日本へ帰る列車だ」と武装解除された日本軍の方々を騙して日本とは真逆に列車を走らせ、70万人以上をシベリアに送って厳寒のシベリアで強制労働をさせました。

ソ連はドイツとの戦争で国力が疲弊しきっていたため、その復興を、日本人(とドイツ人)を使ってやらせようというのがスターリンの腹だったのです。それだけでなく収容所の方々を赤化させることで、日本人同士を監視させ合い、憎ませ合い、管理しただけでなく、共産主義に洗脳した方々を優先して帰国させ、日本本国の共産主義化を加速させようと目論みました。

結果、昭和24年までの4年間に六万人から七万人の方々がシベリアの凍土に命を落とされました。

展治さんの話によるとウンコをすれば凍り、オシッコをすれば放物線を描いたまま凍り、−35度が、外で作業するか室内作業かの判断基準になっていたと聞きました。−33度だったら、外で強制労働なのです。
4年間の拘留中、服は1着のみの着たきり雀、飢餓のためネズミを取って食べていたと聞きました。

僕は10年ほど前、県庁に掛け合って「展治さんの軍歴証明をくれ」と頼んだところ「満州の部隊だから、書類は焼けてなんも残ってない。が、お爺さんの復員証明書のコピーを送ってあげよう」という話のわかる職員と出会い、復員証明書を手に入れました。

昭和24年、展治さんが4年ぶりに解放されてナホトカの港から出港し、日本の地(上陸地は舞鶴でした)を踏んだ時に書いた書類なのですが、僕は軽い気持ちで展治さんに見せてしまいました。

そこには戦時中の部隊長の氏名(奥村大尉)が書いてあったんですが、展治さんは

「そうたい、そうたい、奥村だいい。隊長たい。このひとは壕から首だけ出して、双眼鏡で偵察ばしよらしたら、ロスケのやっどんが大砲ば打ったもんだけん、首から上ばもっていかれらしたもん」

と言っていて、僕は展治さんの辛い記憶を呼び起こしてしまい、後悔しました。

でも展治さんは僕と妻に、シベリアから復員した時に身に着けていた水筒と飯盒をみせてくれました。

その水筒にはガムテープが巻かれて「昭和24年○月○日 展治 帰郷」と書いてありました。僕はこの水筒と飯盒をいるかと聞かれ「いらないよー」と答えましたが、本当は僕の家で保管していくつもりです。

展治さんは
「ロスケの馬鹿やっどんが日本軍の飯盒は上等だけんちいうち、
すぐおっ盗るし、ドイツの捕虜やっどんもすぐ盗すじいくけん、こがんボロば持って帰ったばってん、日本軍の飯盒はよかつやったばってんなぁ」

と言っていました。

日本を復興させたのはこの展治さんとか照雄さんとか、要するに戦って、負けて、生き残って焼け野原から復興させた世代であって、今の僕らはその延長線に、彼らが築き上げた繁栄と平和を享受して生きています。

そして彼等の世代は、口をつぐんで生きてきた人が殆どです。
僕の父は、照雄さんが機関兵だったこと、連合艦隊勤務だったこと、ニューギニアで戦っていたことなど知りませんし、僕の母は、シベリアがどこにあるか、勿論関東軍も、満州も知りません。

それはあまりにも残酷なことなんじゃないかと、思っています。

(あと2回ほど、続く予定です。)

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