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五井先生の文

本当の神様はどういうところにあるかというと、いのちのびのびと自由に生きている。この中(自分をさして)に生きている。いのちの中に神様があるんだから、いのちを縮めるようなこと、しぼめるようなことをするのは、神様に対する反逆なんです。神に対して不孝なんです。不忠なんですね。それがわからなかったんです。

それで私に働いている神様は、何を教えたかというと、みんな消えてゆく姿なんだ、と教えている。

消えてゆく姿というのを、はじめ自分で説きながら、そんなにすごい、素晴らしいものじゃないと思った。だんだんやっていると、消えてゆく姿という一言が、大変なことだということがわかった。

何故、大変なのか。

あなた方は本来、神の分霊であって、神の子であって、光り輝いて生きているものなんだ。それを光り輝かせないのは何かというと、あなた方の業想念なんだ。

好きだ嫌いだ、ああじゃないこうじゃない、という業想念を掴まえていなければ、あなた方のいのちは、神と同じように光り輝いて、自由自在に生きるんだ、ということが自分でやってみてわかったんです。

私が全部放して神様の中に入っていったら、業想念がスウーッと切れ、澄み通ったようにみんなが見えてきた。山を登る時は一生懸命で、脇目もふらずだからわからないけれど、富士山の頂上に登ってみたら、ああなるほど、下界というものはこういうものか、とわかった。それと同じように、みんなわかってきた。

業想念から離れたからね。それを解脱というんですね。解脱してわかったことを、私は皆さんに、易しくわからせようとした。

昨日失敗したっていいじゃないか。たった今失敗したっていいじゃないか。しまった!と思ったら、ああごめんなさい、神様すみません。もう再び致しませんと言って神様の中に入りなさい、世界平和の祈りの中に入ってしまいなさい。そうすれば、昨日やったことは消えてゆく。

「あたしは若い時に、こういう失敗しまして、私はもうダメなんです」

「何を言っているんだ。もう若い時のあなたと今のあなたは全然違うんだ。若い時のあなたなんかいやしないんだ。それはみんな消えてゆく姿」と言っている。

想いというのは波なんです。波が出てきた時に自分で執われていれば、自分にかえってくる。しまった、という想いを出した時は、それを再びやろうと思っているわけじゃない。間違った、しまった、悪かった、と思いますね。思った時にはもう再びやろうとは誰も思わないでしょう。

拾った場合はしまったと思わない。しめたというんですよ(笑)。もうやらない、と言う時に、しまった!と言うんですよ。 

そういう簡単なことがわからない。それでしまったしまったしまったと何度も言い、閉めている。それで自分の心にしまっちゃうんです。これではいつまでたってもなくなりゃしませんよ。しまったきり、出さないようにしている。それは消えてゆく姿なんです。

あっしまった、しかし過去世の因縁が消えてゆくんだ、中にしまっていた業想念がそれだけ消えたんだから、神様有難うございます。世界人類が平和でありますように、と言って、守護霊様守護神様有難うございます、と言って、守護の神霊の中に入っちゃう。神様のみ心の中に入っちゃう。そうすると災転じて福となすで、災が出たために、応援が神様からよけい深く入るわけです。

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