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後輩がイケメンすぎると問題かと… 第11話

1

 東京に近くなり前の車の速度が少しずつ落ちてきた。渋滞だ。この時刻はある程度の渋滞は免れないと思ってたけど、今日はとりわけ混んでいる。車のテールランプが形作る赤ヘビのようなラインがずっと先まで続いてた。

 マリーナを出発する時、「由美さん、どんな音楽が好き? 」と恵基が聞いてきて以来、私達は殆ど会話らしい会話をしていない。ずっと車内に音楽を流したまま、恵基は疲れたような表情でただ前を見て運転してる。私は戦争を知らないけど、戦い終わった兵士達って勝者も敗者もきっと憂鬱な疲労感だけが残るのかもしれないと思った。

 中嶋社長と恵基の攻防の決着はついた。でもあのアメジストの指輪は恵基の何を秘めてるのだろう? 私の中には何かものすごく苦い思いが立ち込めたままだ。

 車内に流れるBGMの殆どが80から90年代始めの洋楽だ。スティービー・ワンダー、フィル・コリンズ、マライア・キャリー… レトロな私好みのものを選んでくれている。

 渋滞のノロノロ運転が始まり何となく手持ち無沙汰になった私は、助手席のラックに無造作に入れられていたCDケースを開いた。数は少ないけど結構いろんなジャンルがある。ショパンやモーツアールトのピアノ曲集、ディアンジェロやブランディ―など90年代のR&Bベストや『So what』、『What a wonderful world』など往年のジャズ名曲集、ロックやJ- POP… バラエティーに富んだコンピレーションばかりだ。一貫しているのは、ムード作りが出来そうな選曲。まあ、恵基が恋愛ゲームに利用するアイテムであることは明かだった。

 その中に1枚だけタイトルがないものを見つけた。活字もデザインも入っていないそれは、誰かが録音したものだ。もしかして恵基好みの音楽が入ってるのかな… と、少し興味が湧いてきた私は、そのCDを取り出して、隣の恵基に尋ねた。
 
 「ねぇ、音楽変えていい? 」

 「ああ、いいよ。好きなのかければ」

 恵基が私に振り向きもせずそう言ってくれたので、オーディオプレイヤーにそのタイトルすらわからないCDを差し込んでみた。

 最初に流れてきたのは、セリーヌ・ディオンの「マイ・ハート・ウイル・ゴーオン」だった。映画「タイタニック」の主題曲としてかなり昔に流行った歌だ。力強く、でもちょっと切なさそうな歌声が車内に響き始めると、恵基がぎょっとしたように私に顔を向けた。

 一瞬何か苦々しいものを感じたが、彼はすぐにまた前を向き直してアクセルをゆっくりと踏んだ。

 「ロマンチックなコンピレーションね。女の子とのドライブ仕様? 」

 マリーナを出発してからずっと続いていた沈黙と、ギクシャクしたこの雰囲気を変えたくて、私はいつも以上にハツラツとした声で尋ねた。以前と同じ気さくな2人のやり取りに戻りたい、そう思った。

 恵基が前を向いたままちょっと躊躇いながら答えた。

 「いや、これ1人の時しかかけないやつだ」

 「恵基の趣味? 」

 「違うよ… アメジストの指輪の持ち主が録音したCDなんだ」

 「えっ? じゃ、ゆりかちゃんの趣味なんだ」

 「いや、ゆりかちゃんが引き継ぐ前の持ち主… 」

 あの指輪の所有者は他にもいたんだ!

 そしてその持ち主こそ、恵基とゆりかちゃんを結びつけている『何か』だ。

 「その人が恵基とゆりかちゃんに共通する『痛み』の元凶なんだね? 」

 恵基は肯定も否定もしなかった。長いまつ毛をゆっくりと虚ろに下ろして無言でハンドルを握っていた。

 「ねぇ、あのアメジストの指輪のこと話してよ」

 耐えきれなくなった私は運転席の恵基に細い声で言った。恵基は私をチラリと横目で見ただけで、相変わらず何も答えない。またすぐ視線を前に向け口を閉ざしたまま運転を続けた。

 くすんだ煙の塊が私の胸に滞り始めた。恵基と中嶋社長との対決を見届けた私は、彼がこの事件を追った本当の理由と、虚像を剥いだ恵基とその生い立ちを知ることができた。それは無意識に事件に巻き込んでしまった私に対して、彼がつけてくれたケジメなのかもしれない。
 でも私の中にはまだモヤモヤが残っている。私はあの謎に包まれたファッションリングそのものを知りたかったのだ。その蟠りは霧のような澱んだ空気となり私の心に漂っていた。そして未だあの指輪の真相を隠す恵基の態度が私の神経を刺激して、咎めるように彼に捲し立てた。

 「ずるいよ恵基は! 事件の解決だけさっさと終えて私にケジメつけたつもりでいる。結局あの指輪のこと、私は何もわからないままだよ。私、まだ納得してない! ちゃんと説明してよっ‼ 」

 半ばヒステリックとも言えるくらいに感情を顕わにした私の言動にも、恵基は動揺する気配を見せない。逆に駄々っ子を窘めるような呆れ果てた声で、私を制した。

 「事件の一部始終見ただろ? 真相もはっきりしたし、中嶋のお陰で俺の正体も分かっただろ? 指輪のことなんてどうでもいいじゃねぇかよ。由美さん、何でそんなにあの指輪のこと知りたいんだよ? 」

 「それは… 」

 そう言いかけて声を詰まらせた。この続きを言葉にすれば、この3年間に築き上げてきた恵基との心地よい関係が完全崩壊することを私自身が理解していたからだ。それでも心の中から吹き上げてくる混沌とした煙の塊は止まず、更に勢いを増しながらジェット噴射のように私の喉から声を押し出させてしまった。

 「それは、恵基が好きだからだよ! 」

 一瞬、恵基がハンドルを持ったまま目を見開いたのがわかった。

 … 言っちゃった… 告白しちゃったよ、私。
 
 汗がどっと流れ出し、放心的な倦怠感が私の体を襲った。たった今起こったことが、空白の頭の中でプレイバックしながら繰り返されていた。
 
 やっちゃった… つかず離れずドライでじゃれ合うような恵基との関係を私が完全に叩き潰してしまった。懐疑と後悔と熱い想いがゴチャゴチャになって、どうしていいかわかんない… でも、1つだけ確かなことがある… それは、噴き出したこの想いはもう止められないってことだ。
 私はまるで開き直った駄々っ子のように喋り続けていた。

 「私、恵基のことが好きなの! チャラくて、自信家で、気分屋で、いつも私を振り回しているあんたなのに… いつからかわかんないけど、いつのまにか大好きになっちゃってたの! 」

 恵基は渋滞の高速道路に顔を向けたまま、大きく溜息を溢した。渋滞にウンザリしているのか、かんしゃく玉が炸裂したように捲し立てた私の話繰りに呆れているのか分からない。

 「… わかってるよ、恵基が私に興味ないってこと。片思いだってことわかってるけど… 大好きなんだよ」

 目頭が少しずつ熱くなり、水中で目を開けたみたいに周囲がぼやけ始めた。私は涙を見られないように、助手席の窓へ顔を逸らした。

 そんな私の様子にチラリと目を向けた恵基は、諦めたように笑って、ウインカ―を出した。私達が乗ったメタリックシルバーのフェアレディ―Zは、明かりが照らされ始めたサービスエリアのパーキングに停車した。

2

 車のエンジンを切った車内は音楽も消え静かになった。レストランやショップがある建物からかなり離れた位置で車を止めたので、周囲に駐車された車も疎らだ。静かに開閉が繰り返される建物の自動ドアと、そこに呑み込まれ、吐き出されていく人の姿だけが見える。まるで私達だけが別世界にいるみたいな車内で、恵基が遠くに視線を向けたままポツリと言った

 「知ってたよ、由美さんの気持ち」
 
 「えっ…? 」

 「俺、小さい頃からずっと諜報社会で立ち回れるように訓練されてるからさ、人の目の動きや表情や言動でその人が何を思ってるか予想できるんだ。行動科学っていうんだけど… その理論や実践を子供の頃から教え込まれてる。由美さんはいつも一緒に行動してたし、もともと感受性が強い人だから、凄く分かりやすいんだよ」

 恵基が私を見て苦笑した。

 「由美さんがその気持ちに気が付いてないことも知ってた。でも知らない振りしてたんだ。その方が俺にとって好都合だったから… 由美さんは直球型でホント分かりやすかったし、上手く扱えると思ったんだ。
 他愛のない事で言い合いしたり、由美さん弄ってじゃれついたり… 俺の常識外れな振る舞いを叱ってくれる度に由美さんが素直に俺に向かい合ってくれてることも感じてた。由美さんといるの楽しかったんだ。
 子供じみたことを… って思われるかもな。でも、俺の周囲にはいつも大人と敵ばかりで、子供してた時期って凄く短かったからな。警戒なしに誰かと一緒に戯れるような日常に憧れてるんだと思う。
 でも、誰かを受け入れてしまえば自分だけじゃなく相手まで傷つけてしまう… それが裏社会に関わる俺達のジンクスみたいなもんなんだよ。だからこのまま『ナルシストの問題児』として程よい距離を保って由美さんを俺の周囲に置いておきたかったんだ。
 ところがあの事件をきっかけに、これまで由美さんが気付かなかった気持ちが覚醒しちゃった。あの日、由美さんをクルーザーに誘わなかったら… って何度も後悔したよ」

 恵基が苦笑したまま、寂しそうに俯いた。そしてもう一度顔を上げて私に向き直し、諦めたように言った。

 「あの指輪のこと、由美さんに隠すつもりはないよ。ただ、俺の口からは言いたくないんだ」

 「どうして? 」

 「喋ってる途中で泣いちゃうかもしれないからな… 誰かの前でメソメソするのって、やっぱカッコ悪いだろ? 」

 「そんな理由なの?! あんたが見かけ程レアキャラじゃないことバレちゃったんだよ。いい加減、私の前で伊達男気取るのやめちゃいなさいよ。まだ演技続けるつもり? 」

 今度は私が呆れ果てて、恵基を見返した。恵基は はあ~ とまた1つ深い溜息をついて自嘲的な笑いを見せた。そして、

 「由美さん、ゆりかちゃんと仲良しになったんだろ? 」

 と、いきなりそう尋ねてきた。

 「うん。友達になったよ」

 今回の事件がきっかけで、ゆりかちゃんと私は共感し合える部分が多いことをお互いに認識できた。前から綺麗でお洒落な娘(こ)だとは思ってたけど、稔さんの奥さんという立場だし、モデルという派手そうな職業に私自身が気後れしちゃってたから、挨拶に毛が生えた程度の言葉を交わすだけだった。ゆりかちゃんという素敵な友達ができたのは、私にとっては思いがけない贈り物だった。

 そのことが話題に出たからか、私の涙も渇いてきた。恵基は私の自律神経の高ぶりが治まったことを察知すると、いつもの俺様系キャラに戻った。

 「だったらさ、あの指輪のことゆりかちゃんに聞きなよ。由美さんの友達なら知ってること全て話してくれると思うよ」

 「なによ、それ。ゆりかちゃん巻き込まなくても、あんたがここで言ってくれれば済むことじゃないの」

 「だからさあ、俺は女の前で泣きたくねぇの。女に泣かれるイケメン・ナルシストの面子なくなるだろ」

 「まだそんな事言ってるの? バカみたい! いくじなしっ! 」

 私がそう突っかかった途端、恵基がにっこり笑った。

 「ちょっと機嫌直ったみたいだね。笑ったり怒ったり、感情も表情も目まぐるしく変化するのが由美さんの魅力の一つだけどさ、泣き顔だけは見たくねぇなあ… しかも原因が俺って、最悪だよお」

 そう言うとエンジンを掛け、また渋滞の高速へ合流していった。

 カーステレオには『アメジストの指輪の人』が録音した名無しCDが入ったままだった。
 ディズニー映画『アラジン』の挿入歌のひとつ『ア・ホール・ニュー・ワールド』やマライヤ・キャリーとボーイズIIメンの名曲『ワン・スゥイート・デイ』… どれもロマンチックなラブソングばかりだ。その選曲からなんとなく『アメジストの指輪』の人物は感性豊かな女性だと感じた。

 車の流れが早くなった。やっと渋滞から抜け出られそうだ。

 「由美さん送るの会社でいい? それとも他にどこか降りたい場所があるなら言ってよ」
 ジョン・レノンの『イマジン』の途中でステレオのスイッチをオフにした恵基が、私に尋ねた。

 「あ、えっと… 」

 そういえば私と恵基って、お互い何処に住んでるかすら知らないんだった。この3年間いつも一緒にいながら何も知ろうとしなかった私達の冷たい友人関係を私は改めて痛感していた。

 「日比谷線の茅場町駅の近くで降ろしてくれないかな? 」

 私の言葉に恵基が反応した。横目で私を見やって やっぱり、そうくるかっていうように頷いた。

 茅場町は稔さんとゆりかちゃんが住むアパートの最寄り駅だ。

3


「恵基さんがそんな事言ったんだ」

 ゆりかちゃんが、冷えたウーロン茶の缶を正面のソファーに座った私に手渡ししながらクスッと笑った。 

 地下鉄日比谷線の茅場町駅で恵基と別れた私は、そのままゆりかちゃんにLINEした。よく考えたら夜8時近かったし、お家に押し掛けるのはちょっと気が引けたので、今日の出来事を掻い摘んで話した上で、日を改めて例の指輪のことを聞きたいと思ったのだ。

 ところが、ゆりかちゃんが逆に「由美さんよかったら、これから家に来ない? 」と誘ってくれた。アメジストの指輪に潜む恵基の過去を知りたくてたまらない私は二つ返事で彼女の家へ飛び込んでしまっていた。

 「こんな時間にごめんね」

 ウーロン茶のほろ苦さが気が逸る頭を冷やしてくれたみたいで、無遠慮にここまで来てしまったことを私はちょっと後悔した。

 「あら、誘ったの私よっ。今夜、稔は帰ってこないし、私も1人で寂しかったの。由美さん来てくれて嬉しい」

 ベージュの3人掛けソファ―に座る私の隣に腰掛けて微笑むゆりかちゃんも、ウーロン茶の缶を開けた。稔さんは中嶋社長と麗子さんの事情聴取に立ち会っているらしい。遅くなるからそのまま県警本部に残り仮眠をとるんだそうだ。

 「それにしても、男の人って弱虫ね。体当たりする由美さんを受け止めてあげることもできないなんて… 」

 マリーナからの帰り道に起こった出来事の一部始終を知ったゆりかちゃんは、可愛らしい小さな口を尖らせてちょっと不満そうに言葉を続けた。

 「私もね、あの指輪のこと由美さんにちゃんと話してあげるべきだって稔に言ったの。そうするように恵基さんを説得して欲しいって… でも稔は『孰れその時期が来れば恵基が自分から話すさ』って、取り合ってくれなかったの。稔って他人を丸ごと受け入れるタイプなのよね。まあ、そこが彼のいい所なんだけど… だから恵基さんが心を開くのを何も言わないでただ待ってるの。親友っていうようり殆ど父親的な心情なんじゃないかって思うこともあるわよ」

 ゆりかちゃんが、呆れ果てたように笑いを溢した。そういえば、恵基も稔さんのことそんな風に言ってたな… 稔は呆れるほど懐が深い奴だ って。

 「ねぇ由美さん、やっぱりお酒飲もうよ。指輪の話ね、結構重くなっちゃうんだ。楽しい話じゃないから、ちょっとお酒が入ったほうが気持ちも楽になると思う」

 そう言ってゆりかちゃんがサロンと一続きになった壁際のキッチンに向かい、てきぱきとお盆を取り出し、ビール瓶を手にして私に振り向いた。

 「ビールでいいでしょ? 」

 「あ、うん… 」

 本当はそんな気分じゃないけど、私よりゆりかちゃんがお酒を必要としていたみたいに感じたから、黙って付き合うことにした。きっと、ゆりかちゃんもあまり話したくない事なんだと思った。
 ビールの大瓶1本と冷えたグラスが2つ、そして枝豆とスライストマトがテーブルに運ばれてきた。

 「はい、乾杯っ」

 ビールを注いだ片方のグラスを私に渡すと同時にそう言ったゆりかちゃんは、あっという間にグラス半分くらいの量を一気に飲んでしまった。これから始める話題の勢い付けみたいだ。それからグラスを一旦テーブルに置いてまた立ち上がると、今度はキッチンとの仕切り替わりにされているオフホワイトのリビングラックに足を運んだ。
 ちょっぴり北欧風のお洒落なラックは両側に物を置くことができるオープンシェルフタイプだ。連続するキューブ型の空間ごとに、本やDVD、そしてポトスのプランターが配置よく並べられている。モデルをやってるゆりかちゃんだけに、プロのカメラマンが撮影したと思われる彼女の写真が数枚、シンプルなフォトスタンドに入れられて飾られていた。ゆりかちゃんは一番下の空間に置かれたアルミの箱を手に取り、ソファーに戻ってきた。
 箱の蓋を開けた彼女が、そこから写真をいくつか取り出して、その中の1枚を私に見せた。

 はにかむように微笑む私の知らない女の人が、ゆりかちゃんと一緒にアップで写っていた。
 年齢はゆりかちゃんと同じか、少し上くらい。アーモンド形の大きな目元と鼻筋の通った顔立ちは恵基と同じくハーフみたいだけど、透き通るような白い肌の持ち主で、どちらかというとロシアや東欧をイメージさせるような美人だ。
 緩やかにウエーブした黒髪を無造作に纏めている。少し厚めの下唇近くに落ちた後れ毛が白い肌とコラボし、エキゾチックなコントラストを強調していた。一緒に写っているゆりかちゃんが太陽のようにキラキラした笑顔を向けているのに対して、あどけなさと妖艶さがミックスしたようなこの人の微笑みは月のように神秘的だ。
 そして私の目は、ゆりかちゃんとおでこをくっ付けて肩を組むこの東欧風美人の右手薬指を捉えた。

 あのアメジストのファッションリングだ! ――

 この不思議な色っぽさを持つ若い女性が『アメジストの指輪の持ち主』だった。
 
 「彼女は『ありさ』、私達親友だったの… あのアメジストの指輪は彼女がいつも肌身離さず嵌めていたものなんだ」

 懐かしそうに目を細めてその写真を眺めながら、ゆりかちゃんが語り始めた。

「この間、由美さんから恵基さんとの出会いを聞かれた時、知り合いのモデル仲間の紹介って言ったの覚えてるかな? それがありさのことなの。彼女は恵基さんがいた横須賀の米軍基地の施設で一緒に育った幼馴染なの」
 
 恵基が言ってたスパイ教育専門の養護施設のことだ。つまり、ありささんも諜報機関の人間なんだ。

 「実は私も子供の頃、その施設にいたことがあるんだ。でも私は虚弱体質で、わりとすぐ落ちこぼれて里子に出されたけど。あの施設での生活は思い出したくもない程過酷な日々だった。身寄りのない子供達を諜報組織のロボットに仕上げるのが目的。残酷な映像を見せたり、実践させたり…  あそこで暮らした子供にしかわからないと思うな… 地獄のような場所だった。私だって今でも時々悪夢に魘されることがあるくらいなんだから」

 施設にいた子供の多くが精神を病んで、プロジェクトは中止に追い込まれたと恵基が言っていた。恵基はその数少ない成功例らしいが、冷静沈着過ぎる彼の素振りは、そんな感情の軋みを感じなくてはいられない。

 「私が施設に入れられたのは8歳の時だったけど、その当時恵基さんは14、5歳くらいじゃなかったかな? 彼は施設で一番の古株でリーダー的な存在だった。その恵基さんと兄妹のようにいつも一緒に行動していた少女がありさだったの。たしか彼女は10歳か11歳くらいだったと思う。
 私は一般社会に解放され後も施設のトラウマが抜けず、里親とも折が合わなかったの。でも16歳の時、稔と出会って人生が変わった。モデルとして活躍を始めた19歳の時、ありさと再会したの。彼女はCIAの諜報員だったけど表向きはフリーランスのモデルとして活躍してたから。よく知らないけど、当時はアジア方面でのテロ資金ルート関連の情報収集みたいなことをしてたみたいね。
 私が一般社会にいることを、ありさはまるで自分のことのように喜んでくれた。同じ過去の傷を持つ私と彼女はすぐに打ち解けて、彼女から恵基さんも諜報員としてニューヨークにいることと、ありさと恵基さんが恋人同士だってことを知ったの。
 
 だから、この間由美さんに話した私と恵基さんとの出会いは正確に言うと『知り合った』のではなくて『再会』したんだけど… あの時はまだ由美さんと私は、稔と恵基さんを介した付き合いだったから過去のことには触れなかったんだ。ごめんね」

 ゆりかちゃんが小さく合掌しながら謝罪し、それからもう1枚の写真を見せてくれた。陽光の下で太陽と月のように対照的な微笑みを見せるゆりかちゃんとありささんに、今より少し若い稔さんと恵基が寄り添っていた。

 「7年前、ありさと一緒にニューヨーク・コレクションを見に行った時にセントラルパークで撮影した写真よ。稔と恵基さんがニューヨークにいた頃で、まだ私と稔も恋人だった時期ね。今から思うと、この頃がありさと恵基さんにとって一番幸せな時だったかもしれないな」

 7年前の写真ということもあるけど、写真の恵基は今より随分ニヒルさに欠けてるように感じる。写真の中の彼は、時々見せるあのひな鳥のような笑顔を浮かべていた。

 「ありさは淑やかで繊細な感性の持ち主だった。ちょっと人見知りな面もあったけど、きっとそれは幼い頃からスパイとして訓練された結果だと思うな。とても我慢強い娘(こ)でね、彼女の神秘的な色っぽさって男性ウケは良かったんだけど、同僚の女性モデル達からは悪評だったの。だからよく虐められてたけど、ありさは一度たりともそれに屈したことはなかった。まあ、彼女が育った環境を考えると、モデル達の虐めくらい大したことじゃなかったのかもね。
 いつも危険と紙一重だったせいか、わりと迷信深くてね… あのアメジストの指輪も、ありさの験担ぎみたいなものだったのよ」

 「験担ぎ? このファッションリングにそんな役割があったんだ」

 私はもう一度、ありささんの右手薬指に光る淡い紫色の指輪を見詰めた。
 
 「由美さん、石言葉って知ってる? 」

 「石言葉? 」

 「花言葉みたいに、宝石にも其々意味があるの。ダイヤは『純愛』や『永遠の恋』。だからよく婚約指輪として贈られるんだって。
 私の誕生日に由美さん達がプレゼントしてくれたガーネットには『真実』や『繁栄』、それと『友愛』っていうような意味があるのよ」

 そういえば、以前パワーストーンがブームになった時にそんなこと聞いたことあるな。

 「この指輪はありさが恵基さんと付き合い始めた頃に買ったらしいの。アメジストの石言葉は『真実の愛』、『誠実』そして『平和』。愛を守って育む力があると言われて、アメジストは『愛の守護石』として知られているんだ。お互いに危険と隣り合わせだった諜報員同士だから、恵基さんとの『愛のお守り』として彼女はこの指輪を肌身離さず着けていた。あの頃って私も稔と遠距離恋愛だったからわかるんだけど、ありさにとってこの指輪は恵基さんそのものだったんだよ… 」

 そう言いながらゆりかちゃんが、私が手にしてる写真に写ったアメジストの指輪を感慨深く眺めていた。

 「でも、ニューヨークから帰国する飛行機の中でありさが私にこの指輪を譲ってくれたんだ。その日、ありさの左手の薬指に大きなダイヤの指輪が光ってた。婚約指輪だって… 昨夜、恵基さんにプロポーズされたって凄く喜んでた。
 ちょうどこの時期、私は稔との関係に悩んでいたの… 警視庁のお偉いさんのお嬢さんが稔に横恋慕しちゃって、稔の上司がそのお嬢さんとのお見合いを押し付けてたの。警察って古い縦社会でしょ? 断れば組織内でイザコザが起きるし、ひと回り以上も若い元不良の彼女がいるっていうことも絶対に上司ウケしないよね。稔が警察組織でアウトローになるかって局面だったから、私が稔を諦めるべきかなって考えていたの。その事情を知っていたありさが、あのアメジストの指輪を私にくれたの。ありさは、あの指輪が彼女と恵基さんの恋を成就させたと信じていたから、そのパワーが私を守るようにっていう気持ちであの指輪を私に譲ってくれたんだ」

 ゆりかちゃんの表情が少しずつ曇ってきていた。初めて話を聞く誰もがこの後に悲惨な結果が待っていることを予想できるくらい、彼女の声が細くなっていた。

4


 「日本に帰国してからのありさは、恵基さんとの結婚の準備を始めてた。諜報稼業もモデルもやめて家庭に入りたいって言ってた。彼女も孤児だから、家族というものに夢を抱いていたんだと思うな。CIAと縁を切るには苦労したみたいだけど、我慢強い彼女はコツコツと1年以上かけて承諾を得たみたい。
 マイアミで船上ウエディング、その後はハネムーン・クルーズをする予定だったの。私と稔もウエディングに参列するために、飛行機も予約した。ちょうど今から5年くらい前のことかな?
 そんな時、ありさが急遽アフガニスタンに赴くことになったんだ。現地に駐屯する米国軍の活動をテーマにしたビデオ撮影だって言ってたけど。

 私の最後の任務よ。これが終わればニューヨークで恵基と合流するんだ―― 
って元気に旅立って行ったわ。とても幸せそうだった。
 でも、それから1週間もしないうちに恵基さんから稔に連絡が入ったの。アフガニスタンからドバイに向かう米軍の輸送機が墜落して、その乗員10名の中にありさも含まれてるって… 私達がありさと恵基さんのウエディングのために予約した飛行機は、彼女の葬儀へ向かうためのものになってしまったの… 」

 「そんな… 」
 
 アメジストの指輪の真相が悲しい結果に終わることは覚悟していた。それでも夢の1歩手前で全てを失った恵基とありささんの運命に私はショックを隠し切れなかった。
 ゆりかちゃんと稔さんは、バージニア州のラングレー近くで行われた犠牲者の合同葬儀に参加したそうだ。ニューヨークで合流した恵基と一緒にラングレーに向かう車内で、乗員10名全員がCIA関係者ということ、そしてタリバン政権が犯行声明を出したにも拘わらず、遺体捜索も行われないまま事故として処理され、個々に葬儀を行うことも禁じられたと恵基が語ったそうだ。

 「犠牲者の合同葬儀は異様な風景だったわ。空っぽの棺だけが並んだ殺風景な会場で、お決まりのセレモニーがてきぱきと進行された。亡骸も遺留品もない葬儀を無理強いして体面だけ整えた感じよ。大切な人を失った遺族達に悲しむ場所も時間も与えようとしていないみたいだった… 職業柄、葬儀に出席する機会が多い稔さえも こんな酷い葬儀は初めてだ―― って溢したくらい冷たいものだったの。涙を流していたのは私くらいで、その場にいた関係者の殆どが無表情だった。恵基さんも肩を落としたまま、まるで抜け殻のようにつっ立ってた」
 無理もないよ… 愛する人が突然姿も形も残さずに消えてしまったんだ。何が起こってるのか把握はできても、何もわからない… 私達人間は何かに縋って、誰かに触れあって初めて感情を溢れさせることができる生き物だ… 遺体も遺留品もない空の棺で泣くことなんかできないよ。

 ゆりかちゃんが悲しいため息をついて、残りのビールに口をつけた。ビールと一緒に涙も呑み込んでいたようだった。

 「ゆりかちゃん、ごめんね。こんな話させちゃって… 」

 恵基の過去が知りたい一心でズカズカやってきて、ゆりかちゃんの心の痛みを掘り返させている私は自分の身勝手さを恥じて俯いた。
 ゆりかちゃんは私の肩に手を置いて、私の顔を下から覗き込みながら、健気に笑顔を見せて首を横に振った。

 「ううん、大丈夫。由美さんにはこの話知って欲しいの」
 
 そう言って、また続けてくれた。

 「葬儀を終えてニューヨークに戻った夜、稔が突然私にプロポーズしてきたの。私はまだ若いし、モデルの仕事も楽しそうだったから、しばらくそっとしておくつもりだったけど、考えが変わったんだって…。稔も刑事だから、いつ何が起きるか分からないってことを痛感したみたいで、これからの人生を少しでも長く一緒に過ごしたいから結婚しようって言ってくれた。
 
 その時私は初めて、このアメジストの指輪が持つパワーを感じたの。ありさ自身がこの指輪に宿って、私と稔を後押ししてくれたような気がした。
 だから、この指輪を恵基さんの手に委ねようと思ったの。何となく、ありさを恵基さんの傍に戻してあげられるような気がして… でも恵基さんは指輪の受け取りを拒否した。恵基さんからすると、まだありさが何処かで生き延びていると信じたかったんだと思うの。遺体もないのに形見なんて欲しくないよね… 」

 それでゆりかちゃんは「落ち着くまで預かっておいてほしい」っていう理由を着けてあの指輪を恵基に託したんだそうだ。勿論、ありささんが戻って来ることはないけど、ありささんが宿るあの指輪を恵基の元に置いてあげるためにそう言って恵基に受け取らせたということだった。

 「ニューヨークから帰ってすぐに私と稔は籍を入れたの。結婚式をしなかったのは、セレモニーの全てに不信を通り越した嫌悪を感じていたから… そのくらいありさの葬儀はショッキングなものだったんだ。
 それから2年くらい、私と恵基さんは疎遠だった。時々連絡を取り合っていた稔は、ありさの事故を恵基さんが組織の警告を無視して個人的に調査していて、それがCIA幹部達の逆鱗に触れつつあるって危惧していた。このままだと恵基さんの生命が危険に晒されるんじゃないかって… そして、恵基さん自身もそれを望んでるんじゃないかって心配してた」

 恵基の絶望的な暴走を察知した稔さんは、内閣情報調査室(CIRO)にいる知人を通じてCIAと協力提携を結ぶ諜報活動のメンバーに恵基を指名してもらうよう働きかけ、彼を日本に呼び寄せたのだそうだ。

 「それが、私の会社に恵基が入ってきた経緯だったんだ… 」

 「私も詳しくは知らないけど、実際に恵基さんは由美さんの会社にいるから、由美さんの会社もCIROに関連してるんだと思うよ。きっと産業界だけじゃなくて国政や外交に関わる案件も取引しているんじゃないかな? 」

 私のボスが恵基に寛容なのは、恵基がただ優秀だからではないんだろうな…。
 
 ゆりかちゃんが3枚目の写真を見せてくれた。日比谷公園で撮影したものらしい。稔さんとゆりかちゃん、そして私が知っている『虚像』の恵基の姿だった。

 「日本で再会した恵基さんは、まるで別人だった。ありさといた頃の恵基さんってイケメンで存在感はあったけど、わりと無口でシンプルだったの。今みたいにあのビジュアルを最大限に利用して、派手に遊びまくる人じゃなかったから、ちょっと驚いちゃった。
 稔はいつものように そのうち傷が癒えれば元に戻るさ―― って凄く簡単にクリアしちゃってたけどね… 」

 私は恵基の言葉を思い出していた。
 俺は人と深い付き合いができない人間なんだ―― 誰かを受け入れると、自分だけじゃなく相手まで傷つけてしまう、それが裏社会に関わる俺達のジンクスなんだよ―― 

 「… 私、恵基のこと何も知らないのに勝手に『モラルの物差し』を彼の頭上に翳していたのかもしれないな」
 
 私達の生活がお芝居の表舞台だとすれば、恵基やありささんはそれを支えて維持する舞台裏に押しやられた人達だ。裏方がありのままの姿で舞台上に登場し、表舞台で動く人々と関われば、芝居はメチャクチャになってしまうかもしれない。それが恵基の恐れる『ジンクス』なんだ。だから彼は『破天荒なナルシスト』という『役』を演じることで表舞台に立っていたのに、私は他人を拒絶するような彼の態度をこれまでずっと非難してきたんだ。本当の恵基を知らないまま…
 幸せの一歩手前で人生を終焉したありささん、その悲しみを心に秘めて未来を紡いでいくゆりかちゃん、突然噛みつかれた運命の痛みに苦しみ続ける恵基… あのアメジストの指輪にはこんなに激しい『人』と『想い』の連鎖が宿っていたんだ。

第12話: https://note.com/mysteryreosan/n/n9aa9830607be


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