見出し画像

後輩がイケメンすぎると問題かと… 第12話

1


 「由美さん私ね、あのアメジストの指輪には本当に何か凄いパワーが潜んでいるって確信してるんだ」

 落ち込んだ私を励ます様にゆりかちゃんが、私に笑顔を向けた。

 「どうしてそう思うの? 」

 「私も稔も過去に何度か恵基さんのクルーザーに行ったけど、あの指輪が船内にあることは知らなかったのよ。だからあの船は恵基さんの『お遊び的連れ込み宿』なんだって思ってた。
 ところが由美さんがクルーザーに来た日に事件が起きて、指輪が姿を現した。
 あの指輪を知ってる私は、あの船が恵基さんがありさの面影と一緒に過ごす唯一の場所だったんだって気が付いたの。あの船に恵基さんが私達と由美さん以外の人を連れてきたことなんてないのよ。そして、あの指輪が持ち去られたことに激怒した恵基さんは中嶋社長を追い、私達もそれに巻き込まれるようにして事件を早期解決へと導くことになった」

 確かにそうだ… もし中嶋社長が恵基のクルーザーから別の物を持ち出していたなら、あそこまで恵基から執拗に追われることもなく、中嶋社長と麗子さんが描いたシナリオ通りになっていたかもしれない。

 「それからね、事件がきっかけで由美さんと恵基さんの関係も変わったでしょ? もし恵基さんが中嶋社長のアリバイ崩しに執着しなかったら由美さんと恵基さんは仲の良い先輩後輩のままだったはずだよね。こうして今、私が由美さんに指輪の話をすることだってなかったはずなんだ」

 本当だ… 事件の裏に秘めた中嶋社長と麗子さんの動機の真相、恵基とゆりかちゃんが共有する過去の悲劇、そして恵基が虚像を演じ続ける理由… まるであのファッションリングが真実の全てを明かにさせようとして動いているようだった。

 「… ねぇ由美さん、今夜これからどうするの? 」
 
 ゆりかちゃんが写真を箱に仕舞いながらそう尋ねた。
 
 「今夜って… ああ、もう結構遅い時間だもんね。そろそろお暇するね。ごめんね、遅くに押し掛けてきて辛い話させちゃって」

 そう言ってソファーから立ち上がろうとした私の腕をゆりかちゃんが引っ張った。

 「そういう意味じゃないよ、恵基さんとのこと! 私が由美さんにあの指輪の話をしたかったのは、恵基さんが抱える心の傷を由美さんなら癒せると思ってるからなの。恵基さんは過去の傷を負ったまま、別の仮面でフラフラ彷徨ってる… このままじゃ、ありさだって浮かばれないよ… だから全てを話した今夜、恵基さんに勝負かけて欲しいのっ! 
 だって由美さん今日、『恵基さんの友人』という役にピリオド打っちゃったんだよ。そして恵基さんは、あの指輪に纏わる過去の全てを私が話したことを絶対知ってる。由美さんを受け入れるのが怖くて仕方ない恵基さんは、由美さんの前から姿を消すかもしれないのっ! 」

 ゆりかちゃんの言葉は、私には天地がひっくり返るくらい衝撃的だった。

 「恵基が突然姿を消すなんて、そんなことあり得ないよ。百歩譲ってそうだとしても、私にそんな大それた勝負なんかできないよ。そもそも恵基は私に興味がないし… 片思いなんだよ」

 そう言いながら、胸の奥がズンと沈んだ。
 マリーナから東京に向かう車内で恵基にぶつけた私の感情は、彼の冷静沈着なテクニックで上手く処理されてしまった。結局私は、恵基にいいように振り回される『由美さん』でしかないんだ…
 しょんぼり俯いた私を見て、ゆりかちゃんが苦笑して呟いた。

 「由美さんが片思いって思い込んでるだけなんだけどな… 」

 「そんなことないよ。今日だって私の告白にも動じなかったし、指輪のことはゆりかちゃんに訊けってうまく丸め込まれたし… ――俺が原因で由美さんの泣き顔見るの嫌だなあ、最悪―― って、まるで私の責任みたいに言っちゃって… 何なんだろうね、アイツ! 人の気も知らないで!! 」

 喋っているうちに次第に苛立ってきた。もどかしい気分と一緒に私は啖呵まで切ってしまっていた。ゆりかちゃんはそんな私を見ながらクスクス笑い出した。彼女の目には涙が浮かんでいたけど、それが悲しみの涙なのか、私の態度が滑稽だったためか良く分からない。ピンクのマニキュアをした長い指で溢れた涙を拭いながら、ゆりかちゃんが私に言った。

 「由美さんってホント感情がクルクル変わるのね。しかも全部ストレート。由美さんの傍にいたくなる恵基さんの気持ち何となくわかるな」

 なんか私とゆりかちゃん、ちぐはぐな会話してるように感じるけど…

 「恵基は私の傍にいたいなんて思ってないよ。私は彼の周囲に置いておきたい友人の『由美さん』に過ぎないんだから」

 そう言って、私は違う違うと必死に手の平をパタパタ左右に動かしていた。私何をムキになってるんだろう? ゆりかちゃんの前で彼女の言葉を一生懸命否定してる。恵基が私の傍にいたいと思ってくれてるなら凄く嬉しいことのはずなのに…
 ゆりかちゃんが私のそんな動揺を見抜いたように笑った後で、真剣な眼差で口を開いた。

 「恵基さんが育ったあの施設の恐ろしさって、一般社会で過ごす人には伝わらないと思うけど… あそこは人間ロボット的なスパイを生み出そうとしてたんだ。恵基さんとありさには恋が芽生えたことで、ある程度の感情を保つことができたみたいだけど、それはとても偏った不完全なものなのよ… 恵基さんはあそこで教え込まれた高度な技術で、他人だけでなく自分さえも操って日常生活を送ることができるの。そこに感情なんて存在しない。
 要するに虚像の恵基さんは、あの魅力的な外見と教え込まれた言動テクニックで簡単に女の子を口説きながら恋愛ゲームができるけど、本来の恵基さんは恋愛経験が極端に少ないの。派手なイケメン仮面の素顔は、戻らない初恋にしがみついて、素直な想いを相手に伝える術を知らない思春期の青少年みたいなものなんだよ」

 中嶋社長との決戦の前、私が恵基にやんわりと感じた異変… 妙に余裕を失い小さく見えた彼の姿、あれが本当の恵基だったんだ。

 「でもさ、ゆりかちゃん、恵基が本当は不器用な男だってことが何となくわかっても、私の片思いは変りないと思うんだけどな」

 恵基の仮面の下を知ることができた今でも、私に関心を持ってくれているような素振りなんて、これまで何ひとつ思いつかない。なのにゆりかちゃんは自信たっぷりに首を横に振って反論した。

 「あのね、この前由美さんが恵基さんと2人きりで過ごした日があったでしょ? 」

 「え? うん。ゆりかちゃんと稔さんが来れなかった日だよね」

 恵基にアメジストの指輪のことを初めて突き付けた夜だ。

 「あの日、恵基さんがカクテル作ってくれたって由美さん言ってたけど、そのカクテルの名前覚えてる? 」

 「えーっと… 『サイドカー』だったかな? ブランデーのコクと甘味にレモンが調和してとても美味しいカクテルだったけど」

 「それが恵基さんのメッセージだと思うな」

 そう言って、ゆりかちゃんがにっこりと笑った。

 「私も実際に体験したから覚えているんだけど、恵基さんやありさが育ったあの施設では、暗号文の作成や解読で子供達を遊ばせてたの。象形文字に真意を潜ませて伝達するビジュアル的な会話なんかもよくやらされたな。その中で一番一般的で初歩的なのが、花言葉みたいなやつよ。石言葉もそうだけど、カクテルに託した言葉だってあるの。『サイドカー』は『いつも2人で』っていう意味があるわ」

 バイクの横に接続して一緒に走行するサイドカーから名付けられたあのカクテルは、いつまでも繋がっていたいという想いが託されているそうだ。

 「それだけじゃないの。バイクに繋がれて走行するサイドカーに乗車する人の命はバイクを運転している人よりも危険だとされている。つまり、サイドカーの人は危険を承知でバイクに命を預けなければならないっていう覚悟が必要なのよ」

 ゆりかちゃんが視線を上に向けて少し考えながら続けた。

 「日常で伝えるメッセージならとてもロマンチックだけど、恵基さんの場合はちょっと違うかな… ずっと由美さんの傍にいたいけど、由美さんに危険を負わせるのが怖いってことだと思う。まあ、捻くれた方法でしか想いを伝えられない恵基さんが、彼の本心をカクテルに託したんだと思うな」

 「でも本当にそんな意味あったのかな? ちょっと信じられないけど… 」

 「信じて、由美さん! 」

 相変わらず半信半疑の私の両手を引っ張るように強く握り、ゆりかちゃんが痺れを切らして私の言葉を遮った。

 「あの夜って、由美さんはアメジストの指輪のことを初めて恵基さんに切り出したんでしょ? これまでの穏和な関係が犠牲になることを覚悟して、そうしたんじゃない? 」

 「まあ… そうだけど… 」

 確かにあの夜、私は恵基に対して初めて真っ直ぐ体当たりした。

 「私ね、それもあの指輪の不思議な力だと思うの。
 事件当夜、あの指輪を恵基さんが自分の物と認めなかったのだって、今になって考えると、あの指輪がそうさせたんじゃないかって思っちゃう。だって、あれが発端となって由美さんは恵基さんへの想いに気が付き、ありさを失って以来ずっと演じ続けてきた恵基さんの仮面を剝がしてしまったんだもん… 」

 ゆりかちゃんは必死だ。私の手を握る力もどんどん強くなっていっていた。

 「私はスピリチュアルを感じるタイプではないけど、でも何となく… ありさが過去に囚われた恵基さんを解放して、幸せになって欲しいって言ってるような気がするの。くだらない虚像を捨てて、ありさが愛した恵基さんの姿で彼女の分までしっかり生きて欲しいって、そう語りかけているように感じるんだ… 」

 感情の高ぶりを押さえきれなくなったゆりかちゃんの目から大粒の涙が大量に流れ始めた。私はそんな彼女を思わず抱きしめていた。

 

2

 午後11 時を過ぎた頃、私は再びあのマリーナの正門の前でタクシーを降りた。

 「恵基さんは絶対にあのクルーザーに戻ったはずだよ」

 そう断言したゆりかちゃんは、車で私をここまで送ると申し出てくれたけれど、夜も遅いし彼女にこれ以上負担をかけたくなかった私は、最寄りの駅まで送ってもらい、それから電車とタクシーを乗り継いでここに辿り着いていた。

 しっかりと閉じられている正門の脇のインターフォンを押す。日曜の夜だ。マリーナに停泊している殆どの船は明かりが灯されていない。不気味なくらい静かなヨットハーバーには、桟橋へ続くぼんやりとした外灯と、門の先にある管理人室の小さな窓から漏れる明かりだけがオレンジの彩を添えていた。管理人さんは24時間対応だということだけど、こんな時間に船のオーナーでもない女性1人が訪問するのはきっと不審に思われるはずだ。
 何て自己紹介しよう?… 沢田恵基の友人で、恵基に急用があって って感じかな? でも、こんなに夜遅く私が「用事」なんて言っても、管理人さんは恵基に確認を取るはずだから、そう簡単には入れてもらえないよね。その前に、恵基がいるかどうかだってわかんないんだし… 前もって恵基に連絡したほうがいいって思ったけど、ゆりかちゃんが、

 「だめよ、由美さん! 奇襲攻撃よ! 恵基さんに準備する時間なんか与えちゃったらまた上手く丸め込まれるだけだからっ」

 って、凄い剣幕で釘刺されちゃったから…

 管理人さんの声が聞こえるまでの間、そんな事がごちゃごちゃ頭を過っていた。

 ところが、私の不安は完全に取り越し苦労に終わった。管理人さんは、いとも簡単に門を開けてくれたのだ。そして親切にも私を恵基の船まで案内してくれようとした。

 「わざわざお気遣いいただいて恐縮です。でも、船の停泊場所知ってますから、1人で大丈夫です」

 私がそう言うと管理人さんは、

 「あっ… そうですよね。気が付きませんで、こちらこそ申し訳ありません。じゃ、ごゆっくり」
 
 と、頭を下げてそそくさと管理人室に戻っていった。

 管理人さんの手を煩わせない気遣いのつもりだったんだけど、なんか逆に変な誤解されちゃったみたい…  ほんとコミュニケーションって難しいな。

 ちょっとバツの悪さを感じながら薄暗い光に照らされた埠頭を歩いて私は恵基のクルーザーへ向かった。キャビンに明かりがついている。やっぱりゆりかちゃんの言った通りだ。

 ゆらゆらと揺れる浮き桟橋に踏み入った途端、足が震え始めた。勢いに任せてここまで来てしまったけど、何故私がここにいるのか自分でも分からない。なんでこうなっちゃったんだろう… 
 戸惑いと後悔が先行して、クルーザーの入口へ続く浮き桟橋を進む足を止めた。

 私、すごく馬鹿なことしてる… やっぱり帰ろう――

 怖気づいた私が踵を返そうとしたその時、バタン―― という大きな音と共にキャビンのドアが開いた。

 「きゃっ!… 」
 
 ドアの光を遮るように立ちはだかる にゅっ とした長身のシルエットに驚いて思わず声を上げ硬直する。

 「きゃっ―― じゃねーよ。妙な足音が聞こえてきたかと思えばピタッと止まるし、怯えるのはこっちだよ」

 白いTシャツと短パン姿の恵基が呆れ果てたような声で私を見下ろした。

 「入りなよ… 」

 溜息をついてそう呟くと恵基はドアを開けっ放しにして、まだオドオドしている私を浮き桟橋に残したまま、クルーザーに引っ込んでしまった。引き返すタイミングを失ってしまった私はおずおずと彼に続いてキャビンへ入り、ドアを閉めるしかなかった。

3


 「何しに来たの? こんな夜遅くにさ… 仕事じゃねぇよな。連絡の1本も受けてねぇし」

 寝心地よかったグレーのソファーベッドに粗雑に腰掛けた恵基が、ドアの前に立ったままの私を睨むように見上げた。彼の大きな目は少し充血していて、前髪も微妙に乱れてる。ソファーの前にあるローテーブルには、携帯だけが放置されたように載せられていた。テーブルの下には3割くらい中身が残ったジャックダニエルの瓶とグラスが無造作に置かれている。どうやらソファーでお酒を飲んで居眠りしていたようだ。
 直感的に何かの危機を感じた。大ヘビの前にひょっこり姿を現した能天気な野ウサギの危険信号だ。逃げなきゃヤバいよ―― っていう警告和音が私を支配した。

 「えっと… ご免、迷惑だったよね。やっぱり帰るよ。本当にゴメンね。じゃ、また明日… 」

 そう言った私がそそくさと一旦閉めたドアに手をかけた途端、恵基が素早く立ち上がり、いきなり私の手首をロックした。ガッチリした長身の体とドアの隙間に挟まれサンドイッチ状態になった私の視界に、彫りの深い恵基の顔がどアップで入ってきた。
 これって、もしかして一昔前に流行った『壁ドン』ってやつ? いやいや、壁じゃないからそうじゃないな…『ドアドン』されてる? つまり、追い詰められてるんじゃない?… 突然の出来事に私の頭は真っ白になり、そんなくだらないことがノロノロと浮かんでしまうだけだ。
 動くことすら忘れてしまった私の耳元に口を寄せて恵基が囁いた。

 「由美さん、俺に抱かれに来たんだろ? 」

 ゾクリとする妖艶な低い声が、私の体に落雷のような強い衝撃を与えた。

 「いやっ、あの… そういう訳じゃないんだけど… 」

 思わず理性でそう否定してしまったけど、実際にはどうして自分がここに来たかよく把握していないのだ。その後に続ける説得力ある言い訳なんて思いつくわけもない。ゆりかちゃんに発破かけられて弾丸のように恵基の元へ飛び込んできた自分の愚かで軽率な行動と恵基への強い想いと欲望がぐるんぐるんと渦を巻いていた。
 耳元に感じる恵基の生暖かい体温と呼吸が頬を伝い、唇の近くに移動してくるのがわかる。私はぎゅっと目を閉じてそれに備えた。いつものコロンの香りと吐息に混じった甘いバーボンの匂いが鼻を掠め始めた。
 ところが鼻腔を満たすお酒の香りと吐息だけが聞こえる時間が継続するだけで、いつまでたっても唇への感触は訪れない。少し不安になった私はゆっくりと目を開けた。
 私の顔先から指3本くらいの至近距離で意地悪な笑みを浮かべながら私を見下ろす恵基と目が合った。

 「なにマジで構えてるの? 冗談に決まってるだろ… 」
 
 完全に固まった私を面白そうに眺める恵基が先程と同じ艶っぽい声色でそう言った。
 
 さっきのは彼が遊び慣れた似非恋愛の台詞だったんだ。ほんの僅かの間だったけど、そんな陳腐な遊び言葉に私は溶けるように身も心も任せようとしていた。

 「ひどいよっ…! 」

 真っ白だった私の頭の中がM7クラスの地震が起きたようにグラグラと揺れた。自由が利く方の手を使い、海底火山が噴出して隆起するような勢いで正面の恵基を思いっきり突き飛ばした。長身の恵基がバランスを崩し、ふくらはぎと膝裏あたりをローテーブルにぶつけたけど、「… いってーなー」と言っただけですぐに体勢を整えた。
 
 再びソファーに凭れかかるように座り直した恵基は、いつもの流し目で私を見上げると、ニヤリと嘲弄したように冷たい言葉を続けた。

 「由美さんの自業自得だよ。ゆりかちゃんに何吹き込まれたか知らないけど、考えもなくここまで突っ走ってくるなんてさ… ホント、危機管理力ゼロだよな。いくら由美さんが産業関係専門で危険度が低いにしても、よくそれで諜報畑で生きていけてるなって逆に感心するよ」

 恵基はまだ『虚しい俺様男』を演じ続けていた。ゆりかちゃんがあの指輪に纏わる全てを私に喋ったことは百も承知のはずなのに、それでも仮面を手放そうとはしない。それどころか、いつもより演技がパワーアップしてる。これまで何度も弄られてきた私だけど、それはいつも子供のじゃれ合いみたいなものだった。恵基がこんな風に体を使って私を甚振ったのは初めてだ。
 
 床のグラスを掴みジャックダニエルを注いだ恵基はそれを一気に飲み干した。そして今しがた彼から受けた屈辱にショックを隠し切れない私に目を向けて、お酒で濡れた口を開いた。

 「さっきまで稔と電話してたんだよ。真由美さんの指から消えたダイヤは中嶋が会社の金庫に保管していることを自白したってさ。それから凶器のロープは犯行後、この埠頭に投げ捨てたらしくて、明日ヨット周辺の海底捜索が行われる予定だって言ってた。取り調べの経緯を知らせてくれた連絡だったんだけど、話の最後にちょっと稔にカマかけてみたんだ。あいつのことだから1人で家にいるゆりかちゃんと連絡取り合ってるはずだし、由美さんがゆりかちゃんと一緒かどうか一応俺も確認取っておきたかったんだよ。勿論あいつは嫁さんの手前、直接の答えは避けたけどさ、
 お前も腹を括る時期なんじゃないのか? ―― って、言ってくれたんだ。俺にはそれで十分な回答だった」

 なるほど、それで虚像の仮面を鎧にパワーアップさせた訳だ… 私の奇襲はすでに迎え撃たれる準備がされていたんだ。管理人さんが、いとも簡単に門を開けてくれたのだって、偶然じゃなかったんだ。恵基が私の訪問を管理人さんにも仄めかしていたんだろう。そして、ここまで突き進んできた私と私の想いを踏み躙って、今後私が恵基の前に姿を現して心をぶつける勇気を捥ぎ取るつもりだ。ゆりかちゃんが言ってた様に、彼は本当に私の前から姿を消すつもりだったのかもしれない。なんて臆病な奴なんだろう! 
 私の心の中に激しい憤りと遣る瀬無い想いが押し寄せ、恵基に傷つけられた悲しみと衝撃をあっという間に呑み込んでしまった。
 不運な境遇と過去のトラウマを抱えた彼は他人を拒否し続けるつもりだ。人目を惹く外見と幼い頃から培った技術で自らの虚像を作りあげ、出口のない真っ暗なトンネルに籠るつもりだ。稔さんもゆりかちゃんも、以前のような恵基本人に戻ってくれるのを待ち望んでるのに… 
 私だって、光を求めて闇から這い出る勇気を持って欲しいって思う。だって、私は… このイケメン過ぎる問題児が大好きなんだから!――
 喪失感と恐怖の暗闇から彼を引きずり出し、一緒に太陽を浴びて歩きたい! だから、今夜ここへやってきたんだ。私は間違ってない!
怖気づいた態度を正し、今度は私が恵基を上から見下ろして言葉を放った。 


「あんた本当に弱虫ね。周囲にチヤホヤされて、友人に甘やかされたままずっと『偽物劇場』するつもり? そんなの人生ナメてるよ。あんたの命救ってくれて、あんたを信じてただ見守ってくれてる稔さんに申し訳ないと思わないの? 」

 「稔が俺の命救った? どういう事だよ? 」

 恵基は自分が東京にやってきた背後に稔さんが深く関係していたことを知らないようだった。彼が日本に召喚された本当の経緯を、今夜ゆりかちゃんが話してくれたままに説明すると、驚きを隠せず顔を凍ばらせていた。

 「… これ以上俺があの事故の真相を掘り起こさないように、組織の上層部が下らねぇ任務をこじ付けて日本に飛ばしやがったんだろうって思ってたけど… まさか稔が手ぇ回してたとはな… 余計な事しやがって!」

 恵基が吐き捨てるようにそう言った。そして虚しい溜息をついて再びバーボンを呷り、肩を落として呟いた。

 「アメリカに残っていれば、あの事故の全容だって暴くことができたんだ… あんな殺され方されたありさに対して俺がしてやれるせめてもの罪滅ぼしだったのに… 」

 恵基の顔が悲しみと悔しさで歪んでいた。

 「殺されたって… 事故じゃなかったの? 」

 「殺されたんだよ、組織に。『捨て駒』ってやつだ」
 
 恵基がCIAの警告を無視して独自で調査した事故の真相は、日常で暮らす私達には信じられないような内容だった。

 中央情報局(CIA)は、アフガニスタンの政府高官と現地に駐屯する米軍の有力者が結託して米軍が使用する中古武器の闇売買を計画しているという事実を掴んでいた。密輸の販売ルートを突き止めることにも成功したが、アメリカ政府はこのスキャンダルが明るみに出ることを恐れた。そこで密輸される武器を搭載してドバイに向かう米軍輸送機の情報を敵側に流し、反政府軍が輸送機を攻撃できるような体勢を整えたのだという。武器の密輸途中で飛行機ごと破壊すれば、取引は成立することなく密輸の事実は隠蔽される。現アフガン政府も、アメリカ政府も体裁が保たれるわけだ。

 しかしテロ行為に対し敏感に反応する現代で、米軍機が撃墜されたとなれば世間に大きな衝撃を与えることは必至だ。派手に動くジャーナリスト達が真相を掴む危険もあった。そこで、正規の輸送途中に発生した航空事故として処理されたというのだ。
 反政府軍に撃墜されたのか、CIAによって自爆させられたのかは未だ闇の中だ。それを探っていた最中に恵基は、彼から言わせるところの『くだらない』任務を言い渡されて突然私達の会社に勤務することになったそうだ。

 「密輸を計画している有力者連中に気付かれず、世間に衝撃を与えないよう米軍兵士を犠牲にすることを避けて輸送機を離陸させる必要があったらしい。だからあの輸送機の乗員は全員『捨て駒』として選ばれたCIA関係者だったんだよ。
 合同葬儀の妙な冷たさが気になって俺はあの後、あの事故の犠牲者を調べてみたんだ。そしたら犠牲になったメンバー全てが、世界各国に存在した俺と同じ施設出身で、近々CIAを離脱する予定だった工作員達だったんだよ」

 「そんな… 」

 あまりの衝撃に言葉が出ない。社会の調和を保つために、その裏では人命が簡単に駒として使われる… 私が暮らす平和な社会では想像もつかないことだった。

 「CIAは失敗した極秘プロジェクトを極端に嫌うんだ。その生き証人達が工作員として組織内で活躍している限りは多額の報酬と自由な社会生活の保証を与えて、ある程度の秩序を保つことができる。でもそういう連中が組織を離れてしまえば情報が漏れてしまう可能性は無限に広がってしまうだろ?    
 僅かの期間しか施設にいなかったゆりかちゃんも、実際に組織内にいる俺でさえも、日常の裏に存在する別社会を今こうして由美さんに話してるんだ。でもそれは余り問題にされない。表世界で生きる由美さんが俺達の話を聞いても夢物語くらいにしか語れないだろ? だからCIAにとって由美さんがそれを耳にしたくらい大した問題じゃないんだよ。物的証拠は完璧に隠滅されてるんだから、ただの噂として簡単にスルーできる。

 ありさはそうじゃない… あいつは幼い頃からずっと俺達側の人間だったんだ。組織から離れて普通の社会生活を送ることになれば、プロジェクトの失敗だけでなく多くの裏実情をいつでも立証できる生き証人だ。出世欲に駆られたCIAの幹部連中にとっては煩わしい目の上のタンコブなんだよ。だから組織を離れて無用になれば、いつ始末されてもおかしくない状況だったんだ。
 そんな事俺も分かっていたはずなのに、ありさを俺1人のものにしたいって気持ちが勝ってプロポーズしてしまった。そして彼女は殺された… 俺がプロポーズしなかったら、あいつは死ななくて済んでたかもしれないんだ… 最悪な少女時代を生き延びて、我慢を重ねて成長したあいつが、亡骸も残されずに始末されたんだよ。俺がありさを自分だけのものにしたかったせいでさ… 」

 そんなこと考えてたんだ… 恵基のトラウマは『恋人の喪失』という単純なものじゃなかった。恵基は、ありささんの死の責任が自分にあるって思っている。誰にも言えない複雑な状況下で、自らに責苦を負わせながらありささんの面影と一緒に彷徨っていたんだ。

 「幸せにしてやりたかったのに… 逆に不幸な死に方をさせてしまったんだよな。そういう意味では俺も中嶋と同類だよ」

 空になったグラスを握りしめ、苦しそうに目を閉じた恵基は奥歯をグッ嚙み合わせて涙を堪えているみたいだった。広いはずの肩幅が僅かに震えて小さく見える。

 私はミニキッチンに置かれたグラスを手にして恵基のいるソファーに向かい彼の隣にそっと腰掛けた。

 「私にもお酒飲ませて」

 恵基は充血して赤くなった目で私を見て寂しそうに微笑むと、床に置いたジャックダニエルの瓶を掴んで私が差し出したグラスに注いだ。心地よい甘い芳香がグラスから立ち込めている。子供の時に大好きだったバニラアイスに似た香りを放つキャラメル色の液体を口に含むと、円やかなアルコールの熱が痺れるように喉を通過していった。
 喉から胸の辺りでゆっくり広がる熱の感触を感じながら、私は隣の恵基に出来る限りの装飾や脚色を除いた素直な言葉を伝えたいと思っていた。

「ありささんは、幸せだったと思うよ。大好きな恵基から求められたんだもん… それって、女の子みんなが夢見る人生最高の出来事なんだよ。その瞬間に一生を賭けても悔いが残らないくらい素敵な事なんだから… 」
 
 恵基が戸惑いがちに眉を上げて私を見た。多分、これまで女性から真面目に意見されたことがないのだろう。彼にとっては想像できない言葉だったみたいだ。私は構わずそのまま続けた。

 「その後のありささんには悲運が襲ってしまったけど、あの時期彼女は人生で一番の幸せを感じていたんじゃないかな? その幸せは恵基が彼女に与えたものなんだよ」

 そう言って私は再びグラスに口をつけた。柔らかいバニラのような香りが再度私の嗅覚を包み、アルコールの熱が体内に浸透していく。やがてそれが私の心までゆったりと落ち着かせていた。並んで座った私達のソファーのすぐ後はキャビンの窓だ。何気なく目をやった窓のサッシ近くには、アメジストの指輪が入れられていた丸っこいキャンドルホルダーが空のままポツンと置かれていた。
 事件当日と同じ位置にあるキャンドルホルダーをぼんやりと見詰めていた私に、ひとつの小さな疑問が生まれた。

 「ねぇ恵基、あの指輪を入れてたキャンドルホルダーだけど、いつもあそこに置いてたの? 」

 何度かこの船に来ていたはずのゆりかちゃんと稔さんは、あの指輪がここにあったことを知らなかったと言っていた。透明色のキャンドルホルダーは、狭くて殺風景なこのキャビンで目立つオブジェだ。その中に例の指輪が入っていたなら、2人とも気が付かないなんて変だ。

 恵基は突然の私の問いに訝し気な表情でキャンドルホルダーをちらりと見て答えた。

 「いや、普段はこのソファーの下に置いてたよ。だからあの日、由美さんがキャンドルホルダーを手にしてたのにちょっと驚いた。窓下とソファーの後ろの目につかない狭い空間に置いてたから… 多分あの朝、西さんが窓を開けてくれた時にソファーの下に置いてあったのを見つけて、気を利かしたつもりで窓際に乗っけてくれたんじゃないかな? あの人、元船乗りでキャビンの整頓には拘りを持ってたし… とにかく俺はあの窓に置いたことはなかったんだけど」

 やっぱりそうだ。アメジストの指輪はこのクルーザーで誰にも気付かれることなく恵基と一緒にいたんだ。そしてあの事件の日、様々な偶然が結びついて私達の前に姿を現した。そしてその指輪に秘められた恵基の過去が浮上し、私は今、恵基が纏う虚像の鎧を愛情の塊で突きながら、暗黒のトンネルから押し出そうとして彼の前にいる。
 
 あの指輪には本当に凄いパワーが潜んでいると思うの ――

 ゆりかちゃんが言った言葉を、たった今私も真剣に信じ始めていた。全ての連鎖にあのアメジストの指輪が関わっている。まるであの指輪が何かを導いているように…

 体全体で感じるその不思議な思いを纏める術も時間もなかった。でも今、自分の心でその気持ちを言葉にするべきだと思った。

 「恵基、これから言うことは単に私が今感じていることで、何の根拠もないけど… でも聞いて欲しい。あのアメジストの指輪には、恵基に伝えたいありささんの強い想いが宿っていると思うんだ」

 私がそう言った瞬間、恵基は訝しい表情を更に強くした。整った口元が何かを言いたげに少し開いたが、すぐにそのままキュッと両サイドに結ばれる。私が切り出した言葉の根底を探り、心理的な揺さぶりを冷静に捉えようとするテクニックのひとつだ。 
 それでも、何言ってんだよ―― ってオーラをメラメラと感じとれるくらい複雑な表情をしていた。その姿は少し威圧的で、普段の私なら一瞬声が止まるはずなのに、飲み慣れない強いお酒のせいか不思議に言葉だけは流れ出た。

 「事件の日、私達の前で恵基はあの指輪が自分のものじゃないって言ったよね。だからあの指輪はもう二度とあんたの元に戻ってこない。私はそれが、ありささんがあんたに送ったメッセージなんだと思うんだ… 」 

 恵基がしらけた偽の薄笑いを浮かべて私と視線を絡めた。

 「へぇー面白れぇなあ… どういうメッセージか聞いてやるよ」

 そう言って、馬鹿にした表情で私を見た。魅了されてしまいそうな虚像の眼中に、背筋がゾクリとするような恐ろしい光があった。彼がハッタリをかましているとわかっていても、思わず私の声は詰まりかけた。
 恵基は質(たち)の悪い『二重人格者』だ。無意識の病気ならいざ知らず、彼は意識的に別人を装うことができる。私をコケにしたような彼の態度は、恵基の心の傷に触れようとしている私を払い除けてしまうためのパフォーマンスだ。
 恵基に伝わる言い回しを選んでいた私の思考回路が次第にぼやけ始め、体も怠く力が入らなくなってきた。慣れないバーボンで少し酔っぱらい始めたみたいだ。それでもなぜか口だけはしっかりと言葉を繋ごうとしている。言語中枢が自分以外の『誰か』に支配されているような感覚のまま喋り続けてた。

 「… 過去に囚われた道化師で終わらないで。シゲ…(キ)の人生はまだ終わってないんだよ。前を向いて、擦り切れるまでしっかり生きて欲しい。新しいぺージを捲る勇気を持って―― っていうメッセージのような気がするっ」

 ヤバい、ちょっと酔っぱらった。私ったら、肝心な所でコケちゃった… 呂律が回らなくて『恵基』ってちゃんと言えなかったし… また突っ込まれる要素作っちゃった。自分の不甲斐なさに情けなく思いながら隣の恵基に目をやった。絶対に馬鹿にされるな… そんな諦めの境地だった。

 ところが、私の目に映った恵基は完全に硬直していた。何故だかわからないけど、呂律が回らなかった私の拙い言葉に強いショックを受けてる。酔っ払いの戯言と嗤笑されるのを覚悟していた私も戸惑うくらいの反応だ。そして私は喋り続けてる… 思考より言葉が先行してた妙な気分だった。

 「… あの指輪と一緒にこのクルーザーで恵基と過ごしたありささんはあの日、恵基の元から旅立って行ったんだと思うよ。恵基が悲しみに縛られない人生を築き上げられるために、過去の苦痛から恵基を解放して、虹の橋を渡って行ったんじゃないかな? ありささんはきっと、本物のあんたが幸せや喜びを感じて暮らしてくれるのを願ってるんだと… 」
 
 「由美さん、何言ってんだよ… 」

 凍りついたままの恵基が弱弱しく言葉を遮った。アーモンド形の赤い目はかなり動揺している。

 「心が宿るとか、魂が宿るとか… 酔っぱらって言ってるんだろうけどさ、そんな事あるわけねぇだろ。 ありさが指輪に宿って、自分からいなくなるなんて、そんな事信じられるかよ! そんなの… 」

 両手で頭を抱えて俯いた恵基は、その手を目元に持っていきしっかり顔を覆って独り言のように呟いた。

 「… そんなの、嫌だ… 」

 自身たっぷりに周囲を魅了させてきたイケメン顔を隠した姿は、初めての恋に敗れ、駄々を捏ねる少年のように頼りなかった。

 私は暫く彼の肩に手をやり、ぼんやりとした頭で話し続けた。恵基に伝えたい、受け止めてほしい…… その思いだけが強く私を支配していた。

 「あんたは中嶋社長に ――あれは指輪じゃない、人そのものだ―― って言ってた。本当は恵基だって、あの指輪がありささんだと感じていたんだよね? ゆりかちゃんから聞いたよ。ありささんとハネムーン・クルーズする予定だったって…。恵基がこのクルーザーを買ったのは、あの指輪をここに置くためだった。ここはあんたとありささんが育った横須賀の基地からもそう遠くない。ありささんと過ごした時間が一番長かった場所だよね。だからこの船で彼女の面影にしがみついていた… 彼女の悲運に責任を感じながら。そうでしょ? 」

 虚像の鎧で辛うじて堰き止めていた恵基の涙腺が崩壊していった。顔を覆った両手から涙が溢れ始めると、ガッチリとした腕に水滴のように伝わり落ちていく。

 「ありささんがいなくなったのは恵基のせいじゃない。ありささんは恵基にそう伝えたいんだよ。それから、幸せをありがとうって… そう言いたかったんだと思う。私がありささんなら、きっとそうしたはずだから… 」

 何処に生まれるか、どのように育つか… 私達の人生全てが偶然の連鎖だ。いつどうなるかなんて、誰も予想することなんかできない。それは世の中を動かす権力者も、動かされている私達も同じだ。だから私達の力でどうしようもない部分を信仰に縋ったり、運命という名前で片づけたりしているんだ。人生の気まぐれで出会う人達を愛し、敬い、傷付けて… そうやってみんな互いに感情をぶつけ合いながら必死で生きていくんだ。

 「女の前でメソメソするの、カッコ悪いって言ってたよね… でもね、感じるままに心の内側を表現するのは時として必要なことなんだよ。そんな自然な感情表現をあんたはずっと取り上げられて育ったから、それが苦手なだけなんだよ。本当のあんたには感情がある。だから今、泣いてるんだよ… 」

 感情を持たないロボットのような生き方だけを教え込まれ、大切な人を取り上げられ、殺伐とした舞台裏に繋がれた恵基、そんな彼を私は慈しみながら抱きしめた。そして、エキゾチックな顔を覆った彼の大きな両手に触れ、手首を掴んでそれを外させると、涙の道筋が残る彼の頬に優しく唇を寄せた。恵基は何も抵抗せず、黙って私の成すがままに抱擁を受け止めていた。

第13話: https://note.com/mysteryreosan/n/n98740f59f76d

サポート自体に拘りはありませんが、皆様の温かいご声援の証としてありがたく拝受させていただきます。 いただいたサポートはnoteので活躍されるクリエーター仲間の皆様に還元させていただきます。