見出し画像

学校へ行けなくても、普通の大人への道は続いている!

noteを書き始めて約一ヶ月ちょっと。

当初、「スキ」をもらうことなんて全く無いと思ってましたが、ちらほら頂いています。ただ、自分の闇を吐き出しているだけなので、「スキ」を頂いて恐縮するばかりです・・・。

さて、「スキ」を頂いている方の中で、少し気になるハンドルネームの方がいらっしゃいました。

こちらの方です。

棚園正一さん。お名前は知らなかったですが、「学校へ行けなかった僕と9人の先生」という本は、本屋や広告で何度も見かけて知っていました。

ただ、タイトルから何となく不登校の本と分かったので、本屋で堂々と見る勇気がありませんでした。(これも昇華しきれていないトラウマの一つだと思います)

棚園さんのnote記事をみてみると、マンガへのリンクがあったので、タブレットで一通り読ませていただきました。

その中でも、最近投稿された「学校へ行けなかった僕と9人の友達」の最終回、ここにとても印象に残る二文がありました。

「"フツウ"になれない僕はみんなとは違う」
「大人になんてなれないんだって・・・」

たったの二文。
何でもない二文。
きっと多くの人がそのまま読み飛ばしてしまう二文。

だけど、私が学校へ行けなかった時に思っていたこと。
それが凝縮された二文。

みんなとは違う。自分は変なんだ。
この先の人生なんて真っ暗でもう先はない。
きちんと大人になれない。
ここで人生の終わりだ。

そう思い苦しんだ日々。そして、その思いは、きちんと大人になったにも関わらず、ほんの数年前まで引きずってきました。
(もしかすると、今もここにこんなことを書いてる自体、完全に昇華しきれていないのかもしれないです)

学校へ行けなくなった子供が「自分は普通ではない」と思うのは、昔も今の時代も普遍なんでしょうか・・・?

ちなみに、棚園さんのプロフィールをネットで調べさせてもらうと、私と5歳違うだけでした。おそらく「登校拒否」という言葉がまだまだ使われている時代で、今と比較して不登校がまだまだ珍しかった時代だと思います。

以前、こちらの記事で紹介した、漫画家・脚本家の岡田麿里さん。

この方もほぼ同じ年代で、「登校拒否」と呼ばれていた時代の不登校児。自伝ドラマの中で、こう語ってらっしゃいます。

「なにしろ当時、田舎では登校拒否児は本当に珍しかったので、ちょっとした珍獣扱いだった」

珍獣、つまり、「普通ではない」ということです。

昔は、今と比べれば、不登校が珍しかったと思います。アラフォーを迎えた元不登校児は、誰しもが世間から奇異な目で見られ、「自分は普通ではない」と思っていたと思います。

それに今のように、ネットがない時代。今のように不登校から立ち直って大人になった人の話を聞く機会もほとんど無かったと思います。つまり、自分の将来を示すモデルがいなかった。だからこそ、「きちんとした大人になれない」と思いこんでいたんだと思います。

だけど、棚園さんも、岡田さんも、きちんとした大人になっている。お二人ほど立派ではないけど、私も普通に就職して、結婚して、子供を持って、大人になることができている。

棚園さんの漫画でも、こう語られています。

「でも、そうじゃなかったんだ」
「ずっと道は続いていたんだ」

そう、学校へ行かなくたって、大人になる道は、はじめから続いている。

先が切れているわけではない。だから、そんな心配をする必要なんて無かったんだ。今になってそう思います。

ここからは、私の願いです。

今から三十年前と比べれば、不登校児は一般的になり、もしかしたら学年で複数人いるのかもしれません。そして、ニュースや新聞でも色々取り上げられ、世の中の理解も進み、だいぶん一般化しました。

私は単なる会社員なので、たった今も苦しんでいる不登校の子と接する機会はありません。だから、最近の学校へ行けない子の実態や気持ちは分かりません。

ただ、昔よりも「自分は普通ではない」と思っている不登校児が減っているのではないかと思っています。いや、減っていると信じたいです

願わくは、学校へ行けなくても、それが"フツウ"であって、それでもきちんと大人になれると思える社会。そんな社会であって欲しいなと思います。