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児相一時保護所の生活2/5ーー自由と閉塞ーー外に出たときには桜は散っていたこと

「毒親がしんどい、家から出たい」「虐待があって今すぐにでも避難したい」と思う18歳未満の方々に向けても児相一時保護所の生活をお話しようと思います。私の記事が、あなたがいち早く今の状況から抜け出せるひとつの道になりますように。

みなさんこんにちは、女子高校生フェミニストのピッピちゃんです。

今回の記事は、児相一時保護所の生活の2/5。自由と閉塞についてです。

前回の記事はこちら
「児相に保護された経緯ーー生と死ーー」

今回は

①児相に保護された経緯
②ひとつめの児相
③ふたつめの児相
④みっつめの児相
⑤毒親や虐待に苦しんでいる未成年のあなたへ

の②をお話します。

ひとつめの児相

児相職員と面談した後日、また学校に呼ばれました。そこでは教頭と学年主任と担任が待ち構えていて「児相に引き渡す」と言われました。一時保護所の評判はネットで検索してみても、正直悪い。実際保護された友達にLINEで聞いてみても「酷くて一週間も耐えられなかった」とメッセージがきました。

「家にいる苦痛よりはマシだ」「助けを求めた先がどんなに酷くても耐えるんだ」と自分に叫び続けました。でも出来る限りいい場所を選びたいなんて人間なら誰しも思うはずです、私も児相より子どもシェルターを希望しました。

子どもシェルターに行くには東京弁護士会に連絡しなければならず、教員の前で電話する必要がありました。電話したい旨を伝えると「いや、とりあえず待って」の一点張り。何でですかと聞くと「教員が把握してない施設には行かせられない」と。

勝手に大粒の涙がポロポロと出てきました。なんで教員の無知で私が酷いところに行かなきゃならないんだ。なんで教員の無知で被虐児は逃げ込める先も選択させてもらえないのか。目配せをする教員を前にそう喚いて叫びたくなりました。

でもここで反発して見捨てられたらどうしよう、助けてくれなくなったらどうしよう…。必死に助けを求めた先に見放されることが怖くて怖くてたまりませんでした。

「ピッピちゃんと親と教員でお話します」と教員から告げられました。虐待をしている親と子どもを鉢合わせさせるなんて何が起こるかなぜ想像ができなかったのでしょうか。恐怖の中逃げてきた子どもを怖さの根源である親と話し合いさせるなんて正気ではありません。

「それはいやです、いやです、いやです」とボロボロ涙を流して訴えました。結局、私を抜きに教員と親が話し合いすることになります。生徒玄関の見える部屋で待たされ、親がいつ来たのか丸見えでした。もちろん親からも私が見えてしまいます。咄嗟にカーテンを閉めて逃げるように机の下にうずくまりました。「もし親がこの場所を知ったらどうしよう、どうしよう」

そんなことを考えていたら時間は刻刻とすぎ、気がついたときには一時保護所の駐車場にいました。車の中でスマホの電源を落とす際、LINEを2秒ほど開いただけで初対面の児相職員から「今そういう状況じゃないので」と冷たく言い放たれたことが記憶にこびりついています。知らない男の人2人と車中の密室で威圧的な態度を取られることの恐怖。車から出ようとしたら、開かない。ドアノブを何回ひいてもガンッ、ガンとはまらない音が車内に響くばかり。一瞬にして脂汗が額に滲みました。

「ごめんね、それかってに子どもが開けられないようになってるの」

そう児相職員に言われ、外から開けてもらいました。この10秒もたたない出来事にゾッとしました。虐待から逃げた先にどこの人かどんな人かわからない異性に、知らない場所に連れていかれる。これがどれだけ怖いことなのか。

車から降りると目の前にはが広がっていました。いくつもある南京錠を開けて敷地内に入っていく職員の後ろをじっと見つめながら歩いていきました。

ピンポンを押して出てきたのは高校生の私より背が低い白髪のおばあちゃん。バクンバクンと鳴っていた心臓も冷や汗もスっとどこかへ消えたことを今でも覚えています。ゆっくりと歩き出すおばあちゃんの後ろを早足で着いていきました。一時保護所の職員に受け渡された私に、荷物検査と聞き取りがはじまりました。

「学校はどこ行ってるの?」
「あ〜あの女子校ねぇ〜。結構いいところ行ってるのね〜」

「お財布はね、貴重品だからね。ごめんね〜中のお金も全部確認して記録しなくちゃいけないのよ〜」
「うんうん、ゆっくりでいいからね」

「月のものははいつからはじまってる?お風呂の順番とかあるからねぇ、ごめんねぇこんなこと聞くのもねぇ」

「身体に傷はないかい?」
「ご飯は食べれてるかい?」

初めてあったはずの知らないおばあちゃんが優しい優しい目をしてるのをみて、涙が止まりませんでした。家にいるときも学校にいるときも車に乗ってるときも、ずっと張ってた糸がプツンと切れてやっと安心できるんだと。やっとあったかいところにこれたんだと。

そのおばあちゃんに連れられ部屋に行き、その日は枕を濡らしながらいつの間にか眠りに落ちていました。

次の朝、7時にチャイムが部屋の中に響きました。すごく異様なチャイムと共に、自分が外の世界と一切切り離されてしまったことが容赦なく突きつけられました。自分の安心して生活できる家で毎日毎日同じ時間にチャイムがなり、そのチャイムに従って行動しなければならないとしたら、その異様さをわかってもらうことはできるでしょうか。

トントン
「入るよー」

しばらくすると一時保護所の職員が挨拶にきました。引き戸の前で座っている私と同じ目線になるように膝をつき「ここの職員の佐藤(仮名)です。よろしくね、ピッピちゃんは来たばっかりだから他の子と合流できないから、今ご飯を持ってくるね。それまで寝ててもいいからね」と。

朝ごはんがきました。
うっすら湯気のたつお味噌汁、ほうれん草の和え物、サバの塩焼き、海苔の佃煮とご飯。

こんな栄養のあるご飯を何日ぶりに食べたかわかりません。ご飯が食べれなかった1週間、私の命を繋いだのは少しの水と、もう残りのないミンティアだけでした。あったかいご飯はこんなに美味しかったのかと目に涙が滲みました。お味噌汁の中に涙が落ちないように、時々上を向いて、あったかい汁をゆっくり飲み込みました。

普段から朝ご飯のない習慣にプラスして1週間ろくに食べていない私の胃は少量のご飯しか受け付けませんでした。目の前に食べたくて食べたくてたまらなかったご飯があるのに、胃に入っていきません。残してしまったサバとほうれん草にごめんなさいを言いました。

ここから地獄の3日間がはじまります。静養期間といって、児相職員が許可を出すまで私は部屋を出ることができません。唯一部屋を出られるのはトイレのときだけ。エアコンしかないまっさらな部屋で72時間の苦痛がはじまりました。

無音の時間がひたすら無機質な部屋に流れていきます。ジーーーーーという本当に鳴っているのか鳴っていないのかわからない耳鳴りが感じるものの全てでした。耳障りな音が永遠と流れるような気がする。部屋に時計はないため、秒針の音で紛らわすこともできない。

尿意は感じませんでしたが、この空間に耐えられずにトイレへ向かいました。トイレにある時計をチラッと確認したら、まだ30分も経っていない。私の感覚では2時間は過ごしたんじゃないかと思ったほどです。私は次の昼食までの4時間を、16時間の体感を持って過ごしました。

やることもなく、時折聞こえてくる他の児童の笑い声に耳をすませます。部屋の小さな窓からは柵が見えます。保護所の児童が逃げないための柵、逃がさないための柵。自分の背より高い柵の中の施設で、何重にもロックがかけられる施設の中の鍵のついた部屋で、私は1人座っていました。

唯一心が動かされるのが1日3回の食事と3時のおやつだけ。そんな地獄の3日間が過ぎました。

平日になり、私は他の子どもと合流することになります。列をなして体育座りをする幼稚園生から高校生の前でぽつんと一人立ち、自己紹介をしました。名字を他の人に教えるのは厳禁、言っていいのは下の名前と年齢だけ。そう職員には伝えられました。

保護所では男子と女子がわかれており、さらに幼児もわかれています。男子とは接触禁止でした。

そしてチャイムで目覚めて保護所のスケジュールに沿って行動する毎日。スケジュールに例外はなく、決まった時間に決まった行動をすることが絶対でした。

7:00 起床
ラジオ体操
朝食
8:40 読書の時間
9:20 学習
11:45 昼食
13:00 グループ活動(レク)
15:00 おやつ
洗濯物/布団しき
運動
17:00 夕食
お風呂
21:00 就寝

グループ活動では塗り絵をしたり、粘土消しゴムを作ったり。

洗濯は自分のパンツや下着や衣類等は自分で洗濯機に入れて、自分で干し、取り込みます。

運動では小さな体育館とグラウンドとは呼べないほどの敷地があり、バドミントンやバスケや野球を楽しめます。面積が狭いので喧嘩が起きることもしょっちゅうでした。

学習の時間は約3時間。正直言って十分な学びを提供してもらえるかと言ったらそうではありません。

保護所は子どもシェルターより比較的行動制限がキツく、学校に通うことはできません。受験や試験を除き、全く学校には行けません。

親の虐待から逃れてきた先でも子どもは十分な教育を受けることができない。こんな制度のもと、全ての子どもが幸せになるなんてありえるのでしょうか?いや、もしかしたら「全ての子どもを幸せにする」のが目的ではなく「子どもを不幸でないところまで押し上げる」なのではないかと毎日思ってしまいます。

不全機能家庭に生まれた子どもは満足に教育さえ受けれてこなかった。その上逃げた先でも満足な教育は保証されていない。私は悔しくて悔しくて仕方がありませんでした。

学習は基本的に教材が揃っている男女一緒の学習室で行います。しかし、男子と女子の接触を避けるため、女子だけ学習室を使わせてもらえませんでした。

本来勉強するはずの場所ではない食堂で女子は勉強をしていました。食堂の使い古されたボコボコの机の上でノートをとると、文字もボコボコになります。毎回そんなことにイライラしながらも数少ない教材で勉強をしていました。

女子からも「これは差別ではないか」という声が上がりました。毎日一緒に寝食を共にする同士ですから、お互いの連帯感はすごく強いものです。施設の係長と次長に児童の意見が届く意見箱に、私たちは抗議の声を入れました。

「男子との接触を避けるために、なぜ女子の勉強の機会を奪うのか」
「教材が揃っている学習室に、なんで男子だけいけるのか」
「なぜ私たちは食堂のボコボコの机で勉強しなきゃならないのか」

その声が届いたのか学習室を解放することができました。初めてみた学習室は、一人一人に綺麗な机があり、教材も本棚に入っていました。あのときに抗議したみんなで喜びあったことは忘れられません。

ところで…
一時保護所にきてどのくらいか経つとみんなおかしくなっていくのです。私は3週間を目処におかしくなりました。自他境界が無くなり他人のどうでもいい行動にさえイラついてきます。

癇癪を起こす小学生を目の前にした中学生が「うるせえよブス!」と吐いたり、テレビの録画を消しただけで殴りあいが起きたり。入所当時こんな事が起こってるのをみて心の中で「ありえない、何か彼女にもイライラする理由があったんだろう、周りも刺激せずにほっとけばいいのに」と感じていました。

しかし3週間を過ぎたころ、勉強中の笑い声さえも騒音に感じます。目の前で足を椅子に乗せて食事をしている年下を見るだけでも無意識に怪訝な顔をしていました。

そんなとき、幼児棟から幼児が女子棟にきました。これがどれだけストレスになるのか、その時は想像すら出来ませんでした。

心に余裕があるときは赤ちゃんはとても可愛らしいものでした。タッタッタッとおぼつかない足で駆け寄ってきて、すんっとあぐらをかく私の上に座ります。まるで「おまえはぼくのいす」と言わんばかりに当たり前のように座ってくるねこのようでした。

しかし心に余裕ができるのはほんの少ししかありません。ただでさえ心に傷を負い、施設に来ている児童たち。集団生活というストレスの溜まる中でさらに追い打ちをかけられます。

朝起きるのは幼児の泣き声。時刻を見にいくとまだ6時にもなっていません。ドタドタと廊下を走り回る足音と「こらっ、まってまって」と騒ぐ職員の声。

朝ごはんを食べるときに、ハンバーグを床に落として「ギャーーーーー!!!」叫ぶ幼児、その隣でお味噌汁をひっくり返す赤ちゃん。

勉強中にノートの上を転がり回り、消しゴムを投げて遊ぶ幼児。

これだけ聞くととても愛らしく、許してしまいたくなりますよね。でもここは虐待で精神不安定になったり、心に傷を負った子どもが来る場所でもあるんです。自分がこんな状態のときに叫ばれ泣かれ邪魔されたらストレスでしかありません。暗い階段下のスペースで友達と泣きあったことは今でも覚えています。

うるさい、うるさい、邪魔しないで、やめて、やめて。そんなこと私たちは赤ちゃんに言えません。だからこそこのやり場のないストレスを一人で抱え込み涙を流すしかありませんでした。

赤ちゃんは悪くない。そうわかっているのにどうしてもイライラして泣いてしまう。そんな毎日が続きました。「女子は面倒見がいいから」と女子棟に幼児を押しつけられ、男子棟にはいままでと同じ時間が流れている。私たちに幼児をケアする義務はありません。なのになぜ、「女だから」という理由で赤ちゃんの世話を押しつけられなければならないのでしょうか。

外界からプッツリと切られて3週間、私は何に対してもイライラして夜にはストレスで何度も枕を濡らしました。そして、「もうどうでもいい、どうでもいいんだ」と自暴自棄になって友達に聞いた反社会的な行動もすんなり受け入れてしまうようになりました。

「お酒飲んだんだけどね…」と話しはじめる友達に対して「え、これは流石にまずいんじゃないか…」という気持ちが一切なく、「へーおいしかった?」と返しました。保護所から出た今頃、再度考えるとありえない思考でした。いや、もはや考える力すら閉塞感のある無機質な生活に奪われていたのかもしれません。外界と切り離された独自ルールの中で同じことを何回も繰り返させられ、楽しいも嬉しいも感じなくなっていた私には当たり前の反応だったかもしれません。施設の中の話ではなく外界の話を聞くだけで心が落ち着きました。だから未成年飲酒の話も「外の世界だから出来たこと」と思って聞いていたのだと思います。

施設の中で恐怖を覚えたことがありました。
それは女子棟のバイトに男性がくること。

保護所のバイトでは、お風呂掃除と消灯後の見回りがあります。性被害を受けた私にとって、プライベートスペースに男性がいることが怖くて怖くてたまりませんでした。

お風呂に入って自分の衣類を洗濯機に入れます。下着類を干しているときにわざわざ隠すためのカーテンをめくられ「大丈夫?」と聞かれました。そんなに長く洗濯物を干していたわけでもなく、ただみんなと同じように干していただけのに、わざわざめくられて確認をされました。身体が固まって頭が真っ白になりました。「どうしよう怖いどうしようどうしよう」汗がツーっと額を流れたのを感じました。

消灯後、バイトのかたが見回りにくるのは1時間に1回のはずです。しかしその日は違いました。みんなが寝静まってから廊下を何回も行ったり来たりする足音が聞こえます。布団に隠れながら小窓を見ると、その男性バイトの人が何回も女子部屋の前を行ったりきたり。自分の寝る姿を男性に見られるのも怖かったですし、無防備な状態で男性がプライベートに侵入してくるのもすごく怖かったです。

保護所にくる子どもの中には、家庭内で性的虐待を受けて男性恐怖症の子どももいます。女子のプライベートに介入するわけですから、そこは配慮がしてほしいかったです。怖くて怖くてたまりませんでした。

他の施設の職員のかたはとても優しくしてくれました。「ちょっと悩みがあるんだよね…」とボソッと呟いていただけなのに、デスクワークを放り出して話を聞いてくれました。

運動の時間に外でシロツメクサを摘んで髪飾りにしていると、ポツポツ自分の高校生時代を話してくれた職員のかたもいました。私がフェミニストだということを知ってか「先生のね、おばあちゃんはすごく大変だったんだよねー。私のお母さんも父親から猛烈に反対されて大学に行かせてもらえなくて悔しい思いをしたの。だから先生のお母さんは私を絶対そんな風にはさせたくなくて、大学のお金も出してくれて。ピッピちゃんも女性だからって諦めさせられる社会本当嫌になると思う。でも先生は本当に応援してるから、ピッピちゃんみたいな子に出会えて本当に感動してるよー」と。今でもこの職員のかたのことは忘れられません。

その他、バイトが禁止されてる高校だけどどうやって大学のお金を貯めていくかを一緒に考えてくれたり、日記に上野千鶴子先生のことをチョロっと書いた日には「上野さん知ってるの?私もねーあの人好きなんだよね」と話を振ってくれたり。本当にいい人ばかりでした。

閉塞感のある何重にも鍵のかかった施設で過ごしていく暗くどんよりとした気持ちになっていくのと対照的に、あったかい職員のかたたち。この施設から去ることになった私は、あたたかい職員だけを失い、鍵のかかった部屋のトラウマと感情のなくなった心だけが残されることになりました。やっと外に出れたときには、友達とお花見行こうねと約束していた桜は散っていました。

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