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児相一時保護所の生活1/5

みなさんこんにちは、女子高校生フェミニストのピッピちゃんです。

今回の記事は、児相一時保護所の生活の1/5、私の
生と死についてです。

「毒親がしんどい、家から出たい」「虐待があって今すぐにでも避難したい」と思う18歳未満の方々に向けても児相一時保護所の生活をお話しようと思います。私の記事が、あなたがいち早く今の状況から抜け出せるひとつの道になりますように。

今回は

①児相に保護された経緯
②ひとつめの児相
③ふたつめの児相
④みっつめの児相
⑤毒親や虐待に苦しんでいる未成年のあなたへ

の①をお話します。

児相に保護された経緯

幼少期から暴力や暴言を受けてきました。高校生になるまで小中の先生には黙っていたので、家庭内でのことは発覚することなく過ごしてきました。今回が初めて児相が関わったことになります。

家族の中がピリピリしていて、暴言を吐かれたり高圧的に怒鳴られることが多くなりました。幼少期からのトラウマもあり、いつ殴られるかわからなくてビクビク怯え、親が立つときには反射的に頭を守るようになっていました。そんな毎日が続いて精神的にも不安定になりどんどん死にたい、死にたいと思うようになります。

思えば昔から我慢強いほうで、学校生活でも自分に嘘をついて頑張らせてきた気がしています。成績もそこそこよく、テストの順位は1桁をキープし、教科ごとには1位があることもざらではなかった。親に褒められたいがために、帰国子女や英語を習っているような人が出るスピーチコンテストに応募してみたり、自由参加型の作文コンテストに何件も投稿してみたり、とにかく学校内でなにかイベントを知る度に参加していました。教師からも意欲がある生徒とみなされ、なにかコンテストがある度に職員室に呼ばれ「ピッピちゃん参加してみない?」と誘ってくれたり、留学全額支援型の制度に「ピッピちゃんなら」と推薦してくれたりもしました。参加する度になにかしらの評価は与えられ、結果がついてきます。期待されたら断ってはならない、とどんどん自分のスケジュールがキツキツになっていくことを承知しながらも「親に褒められたい、認められたい」という一心で自分を追い込んでいきました。原稿作りやスピーチの録音等で1ヶ月間ろくに寝ていないときもありました。それほど親に認められたいと願っていました。しかし、自分の能力が評価され賞を取ってきても、親の反応はあまりに薄いものでしたから、「もっとすごい賞をとらなきゃ」「もっとトップに立たなきゃ」「一番をとらなきゃ」とさらに自分を追い込んでいくようになりす。それが後ほど大きなツケになって回ってきました。

精神的に追い詰められ、その上家庭内での暴言など、私はどんどん逃げ場が無くなっていきました。気がついたら仲の良かったフォロワーさんに「ごめんなさい。死にます」と送って線路の前に立っていました。我に帰ったときには、フォロワーさんからめちゃくちゃ着信履歴があったのを覚えています。放心状態の中フォロワーさんから「絶対に死ぬな、絶対にだ」と言われたときに、その言葉に反して「なんで今自分は生きてるんだろう」とまた考え出し、ローファーと靴下を脱ぎ、ドブのような川に制服のままザブザブと入りました。真冬のことだったので寒かっただろうとは思いますが、放心状態のなかアドレナリンがドバドバ出ていたのかもしれません、家に帰るまで素足でドブに入って作った傷に気が付きませんでした。臭いドブはとても浅く、流れもめちゃくちゃゆっくりだったので、私は流されず溺れずただ臭くなって川から出てきました。正直に言ってしまうと、う〇ちの臭いでした。制服のスカートが濡れないよう、お姫様がお辞儀をするときのようにスカートの端を持ち上げてたのは覚えています。その日は体育があるというので足を綺麗にすべすべにしておきましたが、ドブの中の枝を容赦なく踏みつけていったので、すべすべの足は傷だらけになってしまいました。その後1週間くらいはローファーの中が汗で蒸れる度、傷に染みて痛かったです。

自殺未遂のような、ただ線路の前に立った後、ドブに臭くなりに行ってから数日後、やはり精神的にキツいということで部活の顧問に「休部します」と言いにいきました。

顧問から当然休部の理由を聞かれ「うわ…やっぱり聞かれるときがきてしまったかー」と笑って誤魔化していたのですが、次第に幼少期からのことを思い出しポロポロ大粒の涙を流しながら話しました。家庭のことを誰かに直接話したのは初めてでした。顧問は「君の担任に話してもいい?」と言ったあと、私を家に帰しました。

そのときちょうどコロナで学校が休校になりました。休校後、一週間はご飯が全く食べれませんでした。暴言を吐かれる恐怖、暴力を振るわれる恐怖でリビングに行けずに朝昼のご飯を抜きました。夜には父が仕事から帰ってきますが、それでも母親からの暴言や暴力が無くなるというわけではありません。夕飯も私だけ呼ばれませんでしたので、刻々と空腹の時間が過ぎていきました。家族がみな寝静まった夜中に抜き足で冷蔵庫に向かい、ジュースや食べれるものをバレないように持っていきました。

そんな日々が一週間も続いた頃、担任から呼ばれ、学校に向かうことになりました。職員室に向かうとそこには学年主任と教頭がいて物々しい雰囲気の中「お家のこと話してくれる?」と。顧問に泣きながら伝えたのに、また同じことを、また今までの恐怖を思い出して伝えなきゃならないのかと疲弊しました。やんわりと伝えた結果、児相に通告しないといけないと告げられました。

学校が虐待等の話を生徒から聞いたとき、児相に通告するのは義務なので、そこは従うしかありません。図書室に呼ばれ、教員と共に児相職員を待ちました。一週間もご飯がとれていないことを知り、教頭先生がパンやコーンポタージュを買ってきてくれました。飲食禁止のはずの図書室で、優しい教頭先生の隣に座り温かいパンを少しずつ齧りました。

「なんでもっと早く言ってくれなかったの」

そう悲しそうな顔をする教頭先生をみて、我慢していた涙がポロポロと落ちました。心が締めつけられ、線路に立ったときのことやドブに入ったときのことが走馬灯のように脳を駆けました。そんなことを言う教頭先生に対して猛烈に申し訳なく感じました。もっと早く私の伝える勇気があれば何か変わったのかな、などという気持ちよりも、こんな家庭内のディープな話を受け止めてくれる人だといまさら気付いたこと、それが教頭先生に対して申し訳なく思った理由です。プレゼンの大会があれば毎回監督してくれて、朝から晩までずっとコンピュータ室に張り付いて教えてくれた教頭先生。私のプレゼン資料が終わらないからと、他の先生が帰った中1人で学校の戸締りを受け持ち、教頭先生と私の2人でプレゼンが完成する8時までいてくれたこともありました。家族関係がうまくいっていないことも薄々気付いていたんだと思います。話す時間が空けば「お母さんどうなの」という言葉をかけられました。小学生の頃から自分の家庭が他の家庭と違うことをなんとなく悟っていました。だから自分の家庭のことを誰かに話すときは脚色していい家庭を伝えました。暴力や暴言をぶつけられる自分が惨めで恥ずかしい存在だとバレたくはなかったからです。他の生徒がお弁当を持ってきてる中、私だけが持ってこれてないことに気付いてコンビニでパスタを買ってきてくれたり、コーヒーを買ってきてくれたり。何度も教頭先生にお昼をご馳走になりました。そんなに私を見てくれていて、そんなに私を気にかけてくれていた人に、なぜ騙すようなことをしてしまったのだろう。なぜ家族のことを聞かれたときも、嘘をついて「ちょっと仲が悪い程度」なんて伝えてしまったのだろう。「なんでもっと早く言ってくれなかったの」と言われたとき、ずっとそんな事ばかり考えていました。それと同時に、こんな恥ずかしいことを伝えても受け止めてくれる人がいるんだと、私の周りにはそんな人がいたんだと、嬉しくてポロポロ涙が出ました。死にたいこともドブに突っ込んだ汚い私のことも、多分受け止めてくれる存在だったと思います。

あれこれしてる間に母親からは猛電がきていました。LINEには何件も通知があり、「もう終わったはずだよね」「帰ってくる時間から20分も経ってる」「どこいるの?」「嘘ついたの?」等のメッセージ。担任に相談したところ、「英語のスピーチを練習してることにしよう」と言われました。幸い、私は校内の英語スピーチに選ばれていたのであながち嘘ではありません。送信した後も母親から「本当に?そんなのあった?」などと嘘をついているのではないかと疑われていました。スピーチの練習が追加であろうと、母親には、娘が決まった時間に帰ってこないことが許せないのであり、自分にそう思わせる娘もまた許せないのだろうなと。そうなったら学校でまた新たな用事ができようと、それも時間内に済ませられない娘が悪いという思考になっていたのだと思います。帰宅後も散々に怒られました。

児相の職員室が学校に到着しました。スーツの大人が4人ぞろぞろと図書室に入ってきました。教員と児相職員のいる前でぽつぽつと話しました。児相職員は私の言うことを全てメモをとりながら話を聞いていきました。「少し席を外してくれる?」と言われ、教員と児相職員の話し合いが長く続きます。学校での様子や人柄を聞いていたようです。話し合いの結果、一時保護は見送りでした。

理由は「ご飯が一週間食べられていないと言っても、頑張れば食べられる状況にあるから」

頑張ればってなんなのでしょうか。その言葉を聞いたとき、「やっとこれで助かる」という期待が一気に崩れていきました。せめてもの頼みの綱がブチッと切れて光の見えない暗闇の渦にズボズボとはまっていった気がしました。暴力や暴言を怖く思わなければご飯は食べられる。自分の心に蓋をすればご飯が食べられる。眠いのを我慢して夜中に冷蔵庫までバレずに歩いていけばご飯が食べられる。「頑張る」とはこのことです。この「頑張る」は明らかに普通ではありません。私の家庭がブラックゾーンなのかグレーゾーンなのかは自分で客観視することは当時は難しかったですが、児相が私をグレーゾーンだと見なしたことは理解できました。「死にはしないだろう」という程度のものはグレーゾーンとして扱われ、保護もされないのだと思うとあまりに悔しい。世間からみたらブラックゾーンの家庭でも、児相からみたらグレーゾーン。こうやってたくさんの子どもが切られてきたのだと思うと悔しくて悔しくてしかたがありませんでした。

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