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気ままに読書録「勿忘草の咲く町で 安曇野診療記(夏川草介)」

「神様のカルテ」は私が最も敬愛する小説である。
その作者は、夏川草介さんという現役の長野県の医師だ。

神様のカルテのイメージが強い夏川草介さんだけれど、他の小説も書いているそうで。
この「勿忘草の咲く町で 安曇野診療記」もその一つだ。

この本の舞台も「神様のカルテ」と同じ長野県の病院である。
登場人物は違えども、同じ小説家が同じ舞台で書いた小説。
「神様のカルテ」は本当に傑作で、この上にさらにどんな物語があるというのか。
本心を言えば、若干期待を下げつつ読み始めたのも事実だ。

でも、これを綺麗に裏切ってくれるのが、この夏川草介という作家らしい。

地域医療。

これだけ聞いて私が持っていたイメージは、「神様のカルテ」の松本市、本庄病院に近い。
とにかく医師不足で激務。
人口に対する病院の数が少なくて、たくさんの患者が押し寄せる。

けれど、この「勿忘草の咲く町で」を読むと、このイメージはとても短絡的なものであることがわかる。
と同時に、自分がいかに何も知らず、綺麗なものだけを見て生きているということを痛感した。

「勿忘草の咲く町で」の舞台は、安曇野の梓川病院である。
この病院の患者は、ほとんどが高齢者である。

この高齢者を正確に表すのに、後期高齢者という表現はぬるい。

内科の入院患者は、特に、80歳、90歳以上がほとんど。
脳梗塞の後遺症や認知症を発症している人がほとんどで、病棟でまともに会話のできる入院患者はほとんどいない。
通常食どころか流動食でも誤飲をする可能性が高い患者が多くて、食事は常に誤嚥性肺炎の危険性をはらんでいる。
ほとんどの患者が治療をしても治らない、心筋梗塞やら何やらの持病がある。
それでも何とか退院したとして、でも、その行き先が自宅ではなく元々いた施設であることもざらだ。
そして、しばらくするとまた肺炎などになって病院に戻ってくる。

何とも言葉にできない衝撃があった。
地域医療、というよりは、高齢者医療。
これが、この本のテーマである。

この本には様々な印象的な場面があるが、最もわが身のものとして感じられたのは、桂先生による田々井さんへのICのところだ。

「田々井さんはもう、根が切れてしまっていると僕は思うんです」

桂先生のこの一言は、端的に、しかし的確に状況を表している。

田々井さんはすでに何年も会話ができない。
身動きもできない。
口からものを食べることもできない。
治療もできない。
退院して施設に戻ったとしても、またすぐに病院に戻ってくる可能性が高い。
田々井さんの子供はすでになくなっていて、孫夫婦も家に連れて帰ることができない。

そんな状況で、それでもほんの少しだけ長く生きるためだけに、胃瘻を作るのか?
退院させて施設に戻すのか?

本来、自分がどのように治療をするのか、死ぬのか、という選択は、その人自身ができれば何も問題ないのである。
けれども、高齢者医療ではそれができる人がほとんどいない。

田々井さんの孫は、「できることを全部やってくれ」と言う。
けれどそれは、田々井さんのことを思ってのことではない。
「難しいことはわからない」と言って、考えることを放棄しているだけだ。
ただただ、思考を停止して、悩みもせずに、「できることを全部やってくれ」と言っているのだ。

一方の桂先生は、悩んでいた。すごくすごく、悩んでいた。
何が正しいのかはわからない。
それでも、悩んだ上で、田々井さんの孫に「このままこの病院で看取りませんか?」と言ったのだ。
この田々井さんの孫と桂先生の違いは、重い。

医療は進歩した。
けれど、人は必ず死ぬ。
誰もが必ず、身近な人の死に直面する時が来る。
その時、何の心構えもない人間は、きちんと誰かの死と向き合うことができるのだろうか。
突然、自分の目の前に田々井さんのような人が現れた時、桂先生のようにきちんと悩むことができるのだろうか。

そんな重たい問題を、誰もが潜在的に必ず持っていることを思い知らされる本だった。

もちろん、さすがは夏川さんで、桂先生の花知識や、看護師の美琴ちゃんとの関わり、さっぱりしてる京子ちゃん、三嶋先生はじめ個性的なベテラン医師たち、大滝主任の狸っぷりは、重いテーマでも温かい気持ちで読み進めさせてくれて、読んだ後の後味は明るい。

恐らく、「神様のカルテ」ほど世の中に知られている小説ではない。
けれど、医療が進歩してほとんどの病気は治ると信じ込んでいる人が多い現代だからこそ、老若男女に関わらずたくさんの人にこの本を読んでもらいたいと思った。

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