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8月10日から31日までに考えた事

お疲れ様です。お笑い芸人のレッドブルつばさです。

8月10日から31日まで考えた事をただ書いていく記事です。

日記ほどラフでは無いけど本にして販売するほど考え尽くしたものでもなく、ただ考えた事になります。

何回かこういう事をやっているのですが、今回はこのページに毎日更新していくという事をしていきます。

毎日でもたまにでも覗いてくれると嬉しいです。

公式LINEをやっているので感想とかあったらこちらにお願いします。



8月10日「また考える日々」

お久しぶりです。7月10日から31日まで毎日考えたことを書いて結局5万字越えのnoteが完成したのですが、その反動で8月に入ってから何も書けなくなる日々が続いていました。

「まあ、何か書きたくなったら書けばいいか」と思っていたのですが、何日経っても何も書きたくならない。もう自分が一生に書ける文量を超えてしまったのか?と思った瞬間もありましたが、「書かないから書きたくならない」のかもしれないと思って、また文章を書く日々を始めることにしました。やる気というのは、何かをやり始めてから出てくるものらしいです。「やる気が出ないから何もしない」というものはそもそも間違っていると聞いたので、多少無理やりでも始めます。

そもそも、この考えた事を書くnoteというのは、自分の事を知ってほしいという事以上に、自分が日々考えた事を風化させずに放出させることでより強固にしたいという思いがあり、実際にこの2か月は色々な事をずっと一人で考え続けていました。その軌跡はこちらにあります。↓

そして、8月1日からは何も考えない生活をしていたのですが、そうなると本当に何も考えられなくなってしまいました。これは自分でも吃驚しているというか、「じゃあ今まで自分はどうやって考えていたんだろう」と不思議に思えてきました。

おそらくそれ以前は何か考えてもよっぽどの事では無ければメモをすることもなく、日々の中で薄れていって段々と忘れていったのだと思います。

その中にもしかしたら人生の指針になるような考えや、とても面白いコントの核になるものがあったのかもしれないのに、それを忘れてしまうのはあまりにも勿体ない。

ただでさえ忘れやすい人間なので、できる限り自分の事を記録していきます。強制になると途端にやる気がなくなるので、8月末まであまり頑張らないように頑張ります。


8月11日「強クールキャラじゃないなら素直になれ」

今までは有料記事にしていたので「購入してくれた人に有益な事を書かなければいけない」と思っていて、それがモチベーションにもなっていたし、自分を苦しめてもいたので、今はかなり楽な気持ちで書けています。

僕ぐらいの人生で得たものを有益なものとして出すためには、いくらか身を削らなければいけない部分もあって、それが少し嫌になってきたという事もあります。

身を削ることは別にいいけど、「ここまでやってしまってはダメ」みたいなラインを超えそうになってしまっていて、これ以上続けると確実に超えそうになってしまっていました。それもこういう事を始めてみないと分からなかったので勉強になりました。


本題IN

マセキ所属の徳原旅行さんと先日ツーマンライブを行いました。

(その時の映像を販売していて、まだアーカイブが残っているので購入可能です)

その後ネイキッドロフトさんにお誘い頂いて、公開打ち上げという形でトークライブも行いました。

(この時の映像もアーカイブが残っているのでまだ購入可能です)

その内容は、まあ実際に見ていただければありがたいな、と思うのですが、チケット購入特典としてお客さんに「お互いに関して書いたエッセイ」というものをプレゼントしました。

僕は徳原旅行について書いて徳原旅行は僕について書いて。

で、別に僕は徳原さんが書いた文章を読むつもりは無かったんですけど(恥ずかしいので)、酔っぱらった勢いで読んでしまいました。結果的にすごく恥ずかしくなってしまいました。

僕はよく主催ライブに出てくれる人を紹介するという名目で、その人の好きな所や面白いと思う所をnoteに書いていて、それを読んだ何人かは「あれ嬉しかった」みたいな事を言ってくれたりしていたので、「喜んでくれる事を書けて良かった」と浮かれていたのですが、いざ自分に降りかかるとすごく恥ずかしかったです。

嫌悪感は全くなく、むしろとても嬉しいのに直視できないというこの感覚。なんかここ数年で一番恥ずかしかった。


〈1 自分の欠点・過失などを自覚して体裁悪く感じるさま。面目ない。「成績が悪くて―・い」「字が下手で―・い」

2 人目につきたくない思いである。気詰まりである。てれくさい。「人前に出るのが―・い」「そんなにほめられると―・い」

3 相手がすぐれていて気おくれするさま。立派である。〉


2、ですね。

この「恥ずかしい≒照れくさい」という感情に今までの人生であまりなった事が無いので(褒められてこなかった)、大人になった今「照れそうなシチュエーション」からかなり逃げ回っているのですが、それを逃げずに正面から受け止める事こそが大人なのではないか、とも思うようになってきました。

褒められたら「ありがとう」

祝われたら「ありがとう」

それでいいのに。それをしないとむしろ反感を買うというか「褒めてるのに何その態度?」となって悪影響しか及ぼしません。

「別にアンタに褒められるためにやったんじゃない」という強クールキャラで行くには顔面の造りと若さが足りてない。

強クールキャラ以外の人間が生きていくには素直になるのが一番なのです。

それはわかっているのですが、いまだに誕生日を祝われる事に怯えているし褒められても「へ、へへ・・・」としか言えない。

今までは謙遜がマナーなのかも知れないと思っていたけど、マジで謙遜っていらないかもしれないですね。会話のラリーが一つ無駄に多くなるだけな気もしてきました。

褒められたら恥ずかしいかもしれないけど素直に感謝を述べる、が一番のマナーだと思います。


しかし、打ち合わせでもしたのか?と思うぐらい二人のエッセイの内容がリンクする箇所があってそこが一番恥ずかしかったです。


8月12日「エンタメのスピードと持続性」

「MIU404」というドラマを熱心に見ている。

僕はとにかくドラマを見ることが苦手で、一番最後に見た日本の連続ドラマは「ごめんね青春」だった。(今調べたら6年前!)しかもずっと録画していたものを何とか時間をかけて見たので1年ぐらいかかってしまった。

リアルタイムでドラマを完走したのは「喰いタン2」だと思う。(しかも最終回が「ライアーゲーム」と時間が被っていて、その時「ライアーゲーム」を一回も見たことが無いのに、友達が面白いと言っていたから気になっていて、最終回だけ見た。なので正確に言うと「喰いタン2」は最後まで見ていない)

ドラマが苦手な理由はいくつかあるけれど、一番は「長い」という事である。

一話が60分(CMを除けば48分ほど)で、それが10話続く。最終回スペシャルなどでもっと延びる可能性もある。最低480分だとしたら、8時間である。

アニメだと30分(OP,ED、CMを除けば20分)で1クール13話。260分で、4時間40分。

映画は長くても3時間。短いものは60分程度である。ちなみに僕が一番好きなのは90分。ポンポさんもそう言っていました。


ドラマ:8時間

アニメ:4時間40分

映画:1時間~3時間


単純な比較だが、こう並べると映像作品でドラマは断トツに長い。長すぎる。これがまた海外ドラマなどになるともっと莫大な時間がかかる事になる。

長すぎて最後まで集中力が持続できない、という事もあるが、「今見ているものがつまらなかったらどうしよう」という恐怖がとても大きい。

人生における無駄な時間という事をとても怖れるがあまり、とにかく失敗をしたくないのだ。8時間拘束されて全く何も自分の中に残らない場合を考えると怖くなる。その恐怖のため「つまらないものを見て無駄な時間を過ごさないでおこう」と何にも手を付けずずっと部屋の隅を眺めるという、この世で最も無駄な時間を過ごしていた時期もある。

最近は薄れてきて、色々なものに手を出してはいるがやはりドラマは一番距離を置いている。

「これはめちゃくちゃ面白い!」というドラマ好きが薦めるドラマを一応チェックはして、一話を見て「え!めちゃくちゃ面白い!!」と思ってそのまま続きを見ないという事をもう何十回も繰り返してきた。「半沢直樹」もそうだった。


少し話は逸れるが、近年はとにかくエンタメの消費スピードが速くなっていると感じている。面白いコンテンツが豊富すぎて、一度顧客を掴んだら最後まで離さないためにトップスピードの面白さで駆け抜けた方が、最終的に多くの恩恵を受けられるのではないだろうか。

特に顕著なのはジャンプ漫画で、かつては人気作品の引き延ばしによる弊害が叫ばれてきたが、最近は「鬼滅の刃」を筆頭に人気漫画が人気漫画のまま一番良い形で作品を終わらせて、最終的に良い評価を得ている気がする。(特に思っているのが「チェンソーマン」である。あんなに面白すぎるのは、おそらく作者が長期連載化するつもりがなく、ゴールまで一直線に進んでいるからだろう)

配信ドラマが人気を得ているのも「最終話まで配信されているものが多い」という事もあると思う。僕も梨泰院クラスを最後まで見たのだが、これは本当に奇跡的な事だと思っている。一話が60分以上あってそれが16話である。日本のドラマの倍以上もあるのに完走できたのは、「一気見できた」からだと思う。これが1話ごとに一週間空いてしまっていたら絶対に最後まで見ることが出来なかったはずである。(録画してどんどんたまっていって全部消したドラマが今までどれだけあったか)

顧客を一度掴んだら最後まで離さない、という工夫がこの大エンタメ時代には必要なのだと思う。


冒頭の話に戻るが「MIU404」は現在放送中の連続ドラマである。一話見たら一週間待たなければいけない。僕が何よりも苦手な待ちの時間が定期的に訪れている。

久しぶりに日本のドラマをリアルタイムで見よう、と決意したものの最初は「一気に全部放送されないかな」とか「また途中で挫折するかもしれない」とかなり不安だったが、今はそんな不安は全くない。

答えは簡単で「MIU404」がめちゃくちゃ面白くて、自分が好きなタイプの話だからだ。

一話ごとが面白いのは言うまでも無く、続きを気にさせるための引きの演出も完璧だ。

「本当に面白くて夢中になるものは、その面白さや興味が一週間持続するんだ」という当たり前の事に改めて気づいた。

作品自体の強度があるものはスピードが無くてもその持続性だけでも充分戦うことが出来る。週刊連載や連続ドラマが、視聴者の熱とともにうねりを上げて尻上がりに盛り上がっていく過程で「社会現象」と呼ばれるものになっていくことを考えると、そちらの方が良いパターンもありそうだ。

(ニジプロの盛り上がりを考えると、オーディションの様子を大勢の人が見守り毎週毎週一喜一憂することで盛り上がりが生まれていったと考えられる。これが例えばネットフリックスで全ての結果が出た状態で全話配信されていたらここまで盛り上がらなかっただろう。盛り上がっているコンテンツを後から追いつくための配信、という事も重要になっているので、バランスが大切なのだろうとは思うけど)


8月13日「ツイッターで音MADがバズっていた」

10日ほど前ツイッターで音MADがバズっていた。

自分が見た時点で、投稿から20時間しか経っていないのに25万再生を超えていた。(改めて今見たら55万再生だった)

内容は自分が中学生の時にのめり込んでいた音MADという感じで、2020年でもこういう音MADってバズるんだな~と思っていたら、本当に当時よく見ていた制作者が作ったらしいものだった。

懐かしいな~と思ってその作者が同じものをニコニコとYouTubeにもアップしている事を知ったので見に行ったら、ニコニコが1万再生ぐらいで、YouTubeは1000回も行っていなくてかなり怖くなった。

「全く同じクオリティーのモノでも表現する場が違えば全く違う評価を受ける事がある」という事がすごく端的に表されている気がした。(わかりやすく「再生数=評価」としています)(単純に「Twitterで見れるから他の場所で見る必要も無い」と大多数が判断した、という事でもある)

そもそも音MADがこの時代のインターネットでバズることが意外だった。

「会員登録をしなければ見ることができない」というニコニコ動画の閉鎖的な雰囲気が逆にクリエイターを尖らせて、面白い文化を生み出していた時代は終わり、今は気軽に見れるYouTubeが主流となりもう以前のように大流行りすることはないのだろうと思っていた。

しかし、単純に「クオリティーが高い」のであれば、Twitterというオープンな場に出されれば、純粋な評価を得られるのだという事に気づいた。

山奥で暮らしていて動物たちと戦っていた主人公が山を下りて武術大会で優勝するように、今までわからなかったけど大多数に向けて発表したら思った以上の実力がある事に気づいた、という事はどの世界でも起こりうるものだと思う。

そのまま外の世界でライバルたちと切磋琢磨するのか、「いや、俺は山奥で暮らす方が気楽だから」と山に戻るのかは人それぞれではあるけど、歴史に残りやすいのは前者なんだろうな。全然表舞台に出てこなくて死後何10年後かに「こんな凄い人がいたのか!」となるのもカッコいいけど。

ただ、僕は死後の評価は本当にいらないです。死んだら全部自分に関係なくなるので。


8月14日「”なるべく人と違う事を”と思うこと自体がみんなと同じ、だけど」

「なるべく人と違う事」をやろうとしている人がこの世界で溢れている現在、その考え自体が普通の事になってしまっているので、逆にみんなやっている事をやれば希少な存在になれるのでは?と思いましたが、それはみんなやっているので結局みんなと同じになってしまう。という現象に名前があったら教えてほしいです。

「これは絶対に誰もやっていない!」という事は、「やる必要がない」とか「やらない方がいい」という可能性が高いのでその線引きも難しいところではあるんですよね。それもやってみないとわかりませんが。

そう考えると「離れた場所でやっている人はいるけど、自分の周りではあまりやっていない事」という部分を突いていく方がこれからは良いような気がします。

自分の場合はちょっと前に出したエッセイ(まだ在庫あります&noteでも販売中)と

公式LINEがちょうどそれに当たると思っています。

一般的には全然普通の事だけど、周りの芸人はあまりやっていない事だとこれかな~という感じです。

(公式LINEに関してはあと何年かしたら周りの芸人もやり始めると思いますが。目的によりますが、今からYouTubeチャンネル立ち上げるよりはこっちの方が良い気がします。課金しようかかなり迷っている)

逆に、「みんな出るんなら出ないわ」と思って最初の1,2年はちゃんと出なかった賞レースも色々考えた結果、「ちゃんと出た方がいい」という結論に達してかなり力を入れてやっています。結果的にみんなと同じ状況になっているので何も言えませんが、盲目的に「みんな出てるから出よう」という理由で今やっていないので、それは必要な遠回りだったとは思っています。


今自分がやっている事が本当に意味があるのかどうかは、この時点ではわかりませんが、もし失敗したとしても「これはダメなんだ」というデータが取れるので悪い事ばかりじゃないと思うようにしています。

今一番力を入れているのが「室外機の写真を撮る」ですが、これはさすがになんの意味も無い気はしていますが、そういうのは「好きだからいいじゃん」と思うようにしています。

意味が無くても「好きだから」で肯定できれば人間最強ですからね。これで何でもできます。


8月15日「その努力は自分を安心させるため?」

人間が何かしらの作品を作る目的は「完成した一番良いものを一番良い状態で他人に見せる」がほとんどだと思います。

その先には「これを経てさらに大きな作品を作りたい」とか「自分が認められたい」などの思いがあるかもしれませんが、なんにせよ作品を他人に見せるという事は必須なはずです。

そして評価されるのは作品自体で「そこに到達するまで作者がどれだけ頑張ったか」という事は見ている人にはあまり関係ありません。(その裏側込みで物語性を感じることが出来る、という副産物はありますが)

朝井リョウさんはデニーロ・アプローチが好きではないようで、「傷がある人間だから深い作品が作れる」という事は間違っていると証明するために、在学中にダンスサークルで活動しながら小説を書きまくったそうです。このエピソード大好き。

また『イシューからはじめよ』という本の中で「労働時間などどうでもよく、価値のあるアウトプットを短い時間で生み出せるほうが優秀」という事が書いていて、確かに一年かけて書いたネタと一日で書いたネタが同じ面白さだったら、確実に後者の方が優秀で、残りの355日は別の事ができるので遥かにそちらの方が良いです。

という事が頭では充分にわかっているのですが、僕は努力を可視化できないと不安になってしまいます。果たして自分がやっていることは間違っていないのだろうか、と思ってもそれを確かめる術はありません。

例えば賞レースで優勝するという事を目標とした場合、そのためにネタを作り続けても結果が出るのは一年に一回しかありません。その結果がわからないため、前述の「無駄な労働時間」を過ごしてしまっている可能性があります。(すでに完成しているネタを何度も何度も必要のない修正をしてしまう、など)

合理的に考えれば間違ってしまっている事をやってしまうのは、「自分はこれだけ頑張った」という免罪符が欲しいだけのような気もしています。

昼過ぎに起きてずっとボーっとしてご飯食べて寝る日に途轍もない不安に襲われるのは、目に見えるわかりやすい結果をその日は生み出していないからだと思います。

その不安を埋め、「自分は今日何かした」という安心を得るために、本来は必要ではない労働をしてしまうのだと思います。

長期的な目で見れば必要無いのですが、その日々の安心感が自分を生かしているという事もあるので、難しいところですが、本来はやるべき事だけを短い時間で済ませ、後はボーっとしていても大丈夫なんだと自分が思えるようになることが大切な気もします。

乱雑な文章になってしまってすみません。


8月16日「昨日と真逆の事」

昨日は「その努力はあまり意味がなく自分を安心させるためにやっているんじゃないか?」という旨の文章を書きましたが、今日は全く逆の事を書きます。

結構今自分の中で「多分意味ないなあ」と思いながらやっている事がいくつかあって、その一つにお笑い時限爆弾というものがあります。教えてもらったものをやっているのですが、ランダムで選ばれた50音から始まるネタの設定を考える、というもので、何となく4日ほど前から始めてとりあえず毎日やって行こうと思っています。多分このままいけば月末に1000個になります。

ただ、これが昨日書いた「無駄な労働時間」になっている可能性は全然あって、それでも僕はこれを続けていくんだと思います。

最近気づいたんですけど、「多い」と「大きい」がめちゃくちゃ好きみたいです。ハンバーグとか大きすぎると笑っちゃいます。似たようなもので歌めちゃくちゃ上手い、も面白いです。

それで言うとノートに設定が1000個あったら見返すたびに多すぎて笑ってしまうと思うので、なんか自分を笑わせるためにやっていこうかなと思っています。

note毎日書くのも、一か月かけて50000字書いたの多すぎて笑っちゃってそれが気に入って続けている、という部分もあります。月末にまとめて読んで多すぎるのが面白いです。

昨日みたいに合理的に考えるときと、感覚でなんとなく面白そう、で進むときを交互に繰り返しながら生きています。


8月17日「8月17日という日」

とある芸人がやっているオープンチャットにお金を払って潜入していて、ただやり取りを見ているだけなのだけど声を上げるぐらい面白くて、「すごいぞ!本当に面白い芸人というのはLINE上のやりとりだけでも人を楽しませられるんだ!」と非常に感動し、さあ私も芸人の端くれとしてLINEで人々を楽しませることができないだろうか考え、普段は通知をオフにしているオープンチャットに愉快なスタンプと共に文章の羅列を送ったところ、その何倍ものツッコミを受けてあえなく終了という形になりました。

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徳原さん、もうボケていないのにまだツッコみ続けているらしい。


昨日は久しぶりにたくさん人がいるお笑いライブに出たのだけど、相変わらずあまり人と喋れず楽屋の隅っこにもいれず、ずっと外にいました。車ダ根本さんも外にいたので少し話したりもした。

「こんな人見知りな自分ダメだぞ!」とも特に思わず、これが自分スタイルと思ってずっと貫いていますが別に好きで一人になっているわけでは無いので難しいところです。話しかけた時に「こいつ喋ったぞ」と思われるのが嫌なので喋らないようにしているという部分もあります。俺は喋ります。

何も話題が無いところから無理やり会話をスタートさせるのが苦手で、興味を惹かれる事をしていたり事前に「これ話したい」という話題がある人は比較的話せるようになってきましたがそれって人間として普通な事なんですよね。主催とか最近しなくなってきたけど、緊張している後輩に「全然リラックスしていいからね!」とか言わなきゃいけない歴になってきているのに今までもこれからも一生言えない気がしています。(あと基本的にネタが好きな人を呼んでいるので「あれ面白かったから呼びました」と言う時かなり下からファン目線みたいな感じで話しかけてしまうので、それも逆に良くない気がする。「あれ面白かったよ!」と肩をバシバシ叩くぐらいの方が良いかもしれません。嘘です。初対面でいきなりそういう事してくる人は嫌い)

なんかお笑い初めてから出会った人とは全員敬語で接しているんですけど(先輩とか後輩とかで出会った瞬間いきなりため口になるのが嫌いなので)、なんかそれが良くない結果を生み出している気もします。基本的に敬語って距離が遠いですからね。さっきまでため口で別の人と話していた人がこっちを振り返って敬語になる瞬間、「ありゃりゃ」と思ってしまいます。今からため口に変える気も無いんですけど。

昨日は、今年一番笑った話を本人から聞くことに成功したのでそれだけで満足です。


8月18日「人を不快にさせる作品」

映画「来る」を観た。

ホラーは苦手なのでスルーしようと思ったけど、どうやらホラー苦手でも大丈夫っぽいという話を聞いて観たら大丈夫だった。というかこれをジャンル分けするとき「ホラー」になるのか?という事がとても疑問だ。得体の知れない霊的なものが襲ってくる、という主軸はあるもののむしろ見ていて一番心がやられてしまったのは前半の結婚式のシーンだし、終盤の大騒ぎも僕が思い描いていたホラー映画の収束のさせ方とはだいぶ違っていた。(そもそもホラー映画に関する知識もほとんど無いので全て憶測になってしまうのですが)

しかし、改めて妻夫木家が崩壊していく様子は全然見ていられなかった。単純に不快になってしまったのだが、まあ物語において必要だから仕方ないか。

と、ここまで考えた時にふと「作品における不快なシーンが入る意味とはなんだろう」と思った。

ほとんどは、「不快になる事でフラストレーションが溜まり、それを後に吹き飛ばすことで快感を得る」というスカッとジャパン方式を取っているのだと思うが、それ以外の目的で不快にさせる場合もあったりするのだろうか。

僕はスカッとジャパン方式だとしても、前半で嫌なシーンが延々と続くというものが苦手だ。後でどれだけひっくり返ったところで、その瞬間は気持ちいいかもしれないが、後々その作品振り返った時思い出してしまうのは前半の不快なシーンだけだったりするのだ。これは自分のライブが100人中99人が褒めていても1人に”つまらない”と言われればその意見だけが心に残り、落ち込んでしまう事とよく似ている。多分人間の構造的に否定的なものの方が残りやすいのだろうと思っている。

しかし、スカッとジャパン方式を全くとらずに、ただただ全編を通して不快なだけの作品もあるのではないだろうか。具体的にすぐ出すことはできないが、今まで自分が触れてきたものの中にも確実にそういうものは存在していた。

僕は基本的にハッピーエンドが好きだし、前述の通りストレスがたまるものも好まないので、そういう不快指数が高い作品を見ると「人を不快にさせるだけで何の意味ないだろ!!」と思いがちなのだけど、単純に「見ている人を不快にさせる」事が目的だとしたら、この上ない成功なのではないだろうか。

僕には理解できないほど、世界は色々な趣味嗜好に溢れているので、そのような「単純に不快になる作品」が大好きな人も一定数いて、その人たちを喜ばせる作品を作っただけなのに、蚊帳の外の自分が無理やり入り込んで文句を言っているだけだったのかも知れない。

仲間内で楽しんでいるだけなのに、勝手に入り込んで「つまんなwww」という人間と本質的には変わらない事を考えていてしまったのかも知れない。

「自分に理解できないもの=価値が無いもの」と短絡的にならないように気を付けていたつもりだけど、こういうふとした瞬間にブレそうになるので、改めなければいけないなと思う。


「来る」は岡田准一のビジュアルがとても良かったです。15年後はああいう感じになりたいのだけど、ただ汚いだけの人間になりそうで怖い。


8月19日「賞レースの話」

キングオブコントの準決勝進出者が発表されたり、M-1の結果がどんどん出たりしている中、関係ない僕はボーっとそれらを見ています。

もともと賞レースを見ることは好きなのでツイッターで色んな人の感想を調べるし掲示板も覗いたりするけど、「結局自分には関係ないんだよな」と疎外感を感じてしまいます。出ていないので

毎年思うけど、M-1もキングオブコントも出れる人はずるいです。年に2つも大きな大会に出れるという事は凄いことです。こちらは年に1回しかないのでいつもいいなーと思っています。

早くこちら側の季節にならないかな~という思いと、まだ準備の時間が必要なのでもうちょっと待って、という気持ちが半々です。ただシャワーを浴びている時にぼんやりとその時の事を考えています。∞ホール以上の舞台には立ったことがないので全部想像ですが、想像上の大きい舞台はとても大きいので現実を見た時にどうなるか楽しみです。本当に東京ドームぐらいの規模で想像しています。

ちょっと話変わるのですが、そのようなわかりやすい目標があって、その目標のために生きる、という事はとても楽だと思います。

「これで決勝に行けば何か変わるかもしれない」と盲目的に信じていて、目指してさえいれば、もっと言えば周囲から「目指している」と思われてさえすれば(本人はとっくに諦めているとしても)、毎日をある程度は健康的に生きる事ができます。

今年もちょっと思ったけど、そのような大会が一斉に全部中止になってしまったら、半分ぐらいの芸人は辞めてしまうんじゃないか?とも思っています。自分が何のためにお笑いをやっているのかわからずに、ただ大きな大会があるからそこに向けてやっているけど、無くなってから自分が空っぽだと気づいてしまうのか、それともそこから本当にやりたい事が見つかるのかわかりませんが、願わくはすべての芸人が後者だといいなあと思っています。みんな賞レースとか関係なくお笑いが好きだからお笑いをやっている、という幻想を僕はずっと無垢な少年のように抱いています。


8月20日「信じすぎんなよ、などと」

東京で考え中さんの企画で寺田寛明さんと徳原旅行さんと3人で座談会をやらせて頂きました。たくさんお喋りして楽しかった✋

内容自体は良かったんですけど、こういうインタビューという訳でもないけど「自分の考えを話す」という場は大きな危険性を孕んでいると感じました。インタビュー的なものを今まで何回か受けた事があるんですけど、どれだけ準備をして言葉を尽くしてもうまく伝われていない気がするし、他人が編集しているので意図せず自分の考えとは違う感じに扱われる可能性もある。

なので、こういう座談会などは編集も無いので自分の考えをしっかりと伝えられる貴重な機会、だと思いきや、「収まりのいい結論」や「わかりやすいオチ」に向かって行ってしまうので結構難しかったりします。

本当は自分の考えはこうだけど周りから「つまりこういうこと?」と言われて、完全ではないけど半分ぐらい一致していたら、場の流れを良くするためにも「そういう事です!」と言ってしまう事がよくあるんですけど、その掬われなかった半分こそが自分にとってより重要な場合もあるので、それを無視してしまってはダメだろ。

しかも厄介な事に「その半分が重要だった」という事がだいぶ後になってから気づいたりするんですよね。その時はGOサイン出したけど、冷静になったら違うな~という事がよくある。

しかし、その場でしか僕の発言を聞いていない人は、その後僕が「重要な半分」を別の場所で語っても知る由がないので、「そういう人」だと完全に認識してしまう。それによってめちゃくちゃ嫌われたりしてしまったらあまりにも勿体ないし、多分今までもそういう事あったし。

それを防ぐために表舞台に出るときはすべて「真実の瞬間」

だと思ってやっているのですが、ムムム~という現状です。

で、果たしてこれは能力や経験などで克服できることなのか、という事にとても興味があります。

というのも僕はインタビューやエッセイなどでその人の考えや、作品に対する姿勢などを知ることが本当に大好きで、それらの中で出た言葉を「これは逃しちゃならん」と大切に抱えながら生きていたりしています。

そんな大切な言葉が「あんまり思ってないけど勢いで言っただけ」だったらあまりにもショックすぎません??

憧れの人に会った時「あのインタビューで言っていたあの言葉に救われました」と言って「そんな事言ったっけ笑」と返されたらその場で泣き崩れる自信があります。

だから、まあそういう言葉を大切にするのは良いけど、あまり信じすぎんなよ、などと自分に言い聞かせる事にします。信じるというより託しすぎんなよ、と。

その人の100%の考えから生まれた言葉で無いとしても、「その言葉に自分が救われた」という事実だけが本当ならそれでもいいかなと思います。

なるべくきちんと自分の気持ちを伝えたいのでこういうnoteやってて良かったです。この文章でも100%伝えきれてる自信は無いのですが。なんかあったら連絡ください。多分一人一人と膝をつきあわせて会話をしないと伝えきれないんだと思う。コミュニケーションってむずいね。


8月21日「文章における決意表明らしきもの」

いつも太陽が昇ってからでないと眠れないほど生活リズムが崩れていたのですが、昨日はいっちょ早めに寝てやろうかという気持ちになって、2時には寝る準備を整えて少し本を読んでから寝ようと思ったら、その本が面白すぎて1時間ぐらい読んでしまったけど、結果的にはいつもより早く寝る事に成功しました。

で、なぜか何時に寝てもいつも7時ごろに一回目が覚めてしまうのですが、例によって今日も目覚めていつもならすぐ二度寝をするけど、今日は起きてやろうかという気持ちになって、今日の配信イベントで必要になる企画案をいくつか考えていたら完全に起き始めて、「今だ!」とばかりにシャワーを浴びて「生活」をスタートする事に成功。

その後ドキュメンタルを見ながら洗濯を済ませ、今9時の時点で近所のドトールに来てこの文章を書いています。店員さんもこの時間に来るはずがない僕が来て驚いていた気がします。

この時間のドトールってサラリーマンらしき人が多いんですね。



ここまで読んでどう思いました?

「どうでもいい」とか「知らないよ」って思いました?

読んでいる人の時間を頂いているわけだから、せめて、何か有益な情報を届けたり、心を震わせる文章を書きたいのに「早起きをした」という文章を長々と続けてしまいました・・・

落ち込んでいるという訳では無いけど、自分が文章を書く理由というものを少し考え始めました。

というのも今読んでいる『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』が面白すぎて、「世の中の人はこのように面白い本をもっと読むべきで、世の中にはこのように面白い文章が沢山あるのだから、自分の駄文を読ませる事で時間を奪ってしまうのは勿体ない」と思うようになってきたからです。

「レッドブルつばさの文章を面白いと思っている人もたくさんいるよ!」

ありがとう!

いや、こんなことしてる場合じゃないんですよ


ブログを本格的に始めた理由は、何回も書いていますが先輩芸人が心の内を晒している文章にとても感銘を受けて、「自分の気持ちを正直に書ける場所が欲しい」という、自分を救うためという側面が大きかったです。

それがやがて「文章を通して自分の事を知ってもらう」という、芸人の活動の一環として外側に向けたものに変わっていって、今は自分の為と人の為という二つの軸で文章を書いています。

ですが、最近はもう少し欲が出てきたというあ、端的に言うと「文章だけで人を刺したい」という気持ちが湧いてきました。

そういう気持ちで書いた文章が、以前文学フリマで販売したエッセイ2冊なのですが、その時に知り合った方の本を読んだり、その後「この人は文章で俺を刺そうとしている」という本を読んだりするなかで、

「ぜんっっっっっぜん!!!!!!!足りない!!!!!!!!!!!」

という気持ちが湧き上がってきました。

書いている時はもちろん本気なのですが、心のどこかで「まあ本業は芸人だから」と逃げている部分もあったのかも知れない、と思いました。(そもそも実力が足りない、という事もありますが)

「まず芸人として頑張らなきゃ」という気持ちはまず絶対的にあるけど、それを自分の文章の不甲斐なさの理由にするのは違うだろと。

読んでいる人と刺し違えるつもりで書かなきゃ失礼だろ、と。

いや、そのつもりで書いているけど、何かが足りない気がするんですよね。本当にそれが何かわかりません。「覚悟」なんて抽象的な言葉で表現できるかもしれないけど、もっと具体的にコレ!というものもある気がします。

もっと考えると「書く」っていったいなんだろう、などと考えたりもするし、一度本気で小説などの創作に向き合ってみれば何か変わるのだろうか、などとも考えています。

ただ一つはっきりとしているのは、本気で文章に向き合わないと自分が望むステージにはたどり着けないという事です。「早起きしてドトールに来ました✌」という事を、脳を通さずに指の反射だけで書いている場合では無いのです。いや、そういう文章を書きたい時もあるけど、それを「書く」という経験値に数えるのは違う、という話です。

何をもって本気なのか、とか、文章で刺すとは何なのか、とか、色々ありますが、今後は「書く」という事に全身でぶつかっているような文章を書いていけるように精進します。


今後「今日の夕飯はハンバーグ✋」みたいな文章を書いていたら、「ああ、今日は”書く”事ができなかったんだな」と思ってください。


8月22日「頭がおかしい人」

褒め言葉としての「頭がおかしい」の話です。

僕が芸人を好きな理由は「頭がおかしい」人が多いからで、テレビで活躍している芸人は「テレビで活躍ができる」という時点で頭がおかしいのですが、テレビで活躍していない、自分の周りにいる芸人でも「マジで頭がおかしいんじゃないか?」と思うような人が何人かいてその人をじっと見つめていたりします。見つめているだけで特に近づいたりはしません。頭がおかしい人に不用意に近づいてはいけません。

当然僕も芸人をやっているので、そういう頭のおかしさに憧れているのですが、どう考えてもザ・普通(ザ・武道さんみたい)な自分には頭おかし具合い(頭がおかしい具合い)が足りていません。

それが理由で一度就職をしたのですが、「頭がおかしくなくてもお笑いがやりたい!」という気持ちでこの”笑道”に飛び込んだので、もうそこに関しては少し諦めています。

そういう人に憧れてちょっと変なことしようとしたところで、本物には適いません。本当に頭がおかしい人は目の奥が本当に怖いです。僕の目はとても優しいので目優男(めやさメン)の時点で太刀打ちできないのです。

なんて事をずっと考えていて、「人間はみんなどこか変な部分がある」という事もわかってはいるけど、僕が言う頭がおかしいは本当に頭がおかしい人なんです。そういう人に私はなりたいと思っても、「そういう人になりたい」と思っている時点でなる事はできません。

普通な自分が普通だからこそ勝てる術を探して戦っている毎日で、それはそれで何の才能も無い主人公が少しずつ成長している少年漫画みたいで良いのですが、たまに圧倒的な頭おかし力を目の前にして戦々恐々としてしまいます。

みたいな事を書くと「いやあなたも変だよ」と気を遣ってくれて、僕の変エピソード(自分では全く変だと思っていない)「ライブで滑りすぎて駅と逆方向に歩きながらTwitterアカウントに鍵をかけた」や「単独ライブ終わりに一人でびっくりドンキーに行って、あまりのハンバーグの大きさに泣いてしまった」などを紹介してもらえるのですが、「おしっこをペットボトルにして部屋に置いておく」人の方が明らかに頭がおかしいし、語弊がありそうですが、僕はそうなりたかったんです。でも僕はペットボトルにおしっこを入れる発想すらありません。とても悔しいです。

人間のおかしさは十人十色、ベクトルはそれぞれ違うという事もわかっているのですが、僕が好きな方たちは皆ほぼ同じ方向に頭がおかしいように見えるのです。僕が周りに言われているおかしさはそちらでは無いのがあまりにももどかしい。だからと言って僕がペットボトルにおしっこをした所で、そんな人工的なおかしさに何の意味もありません。

結局自分は自分でできる事しかできない、と理解しつつも「本当は奥底にもっとおかしい自分がいるんじゃないか?」と期待して裏切られるという事を繰り返しています。他人だけではなく自分でも「レッドブルつばさはここまでしか出来ない」と見切りをつけて、その範囲でしか動けていないように感じます。「それを飛び越えてやる!」と思う事自体がその範囲でしか動けていない事の証明なんです。


松ちゃんに「アホやこいつ」と言われたい。

今の僕を見ても松ちゃんは「アホやこいつ」と言わないと思います。

「毛量凄いな」と言うだけです。

毛量凄いことが気にならないぐらいアホやこいつと思って欲しい。


8月23日「新宿道中」

「ガンジーでカレーを食べる」「紀伊国屋書店に行く」という明確な目標を掲げて、新宿に向かおうとしたのだけど、時刻が15時に迫っている、かつ、自分があの狭い階段を上り店の入り口のドアを開けるところを想像しただけで、ひどい疲労感を覚えたので昼食はカップ麺だけで済ませ、「紀伊国屋書店に行く」という目的だけを果たすために電車に乗り込んだ。

例によってリュックの中はパソコンといくつかの本とその他必要としているものが入っていて非常に重いうえに、コジコジのトートバッグも持っていて新宿に着いたときには満身創痍になっていた。やはりガンジーに行かなくて良かった。あの階段の途中で力尽きて転がり落ちてしまい、隣の四文屋から出てくる酔っ払いに蹴り飛ばされる未来を回避できただけでも良しとする。

紀伊国屋書店は混んでいた。土日はいつも人が多い。本離れが叫ばれている現状でこんなにも多くの人が本屋にいる事を喜ぶべきなのかもしれないが、僕は書店側の人間では無いので、正直どちらでもよかった。背負っているリュックの膨らみが平積みされた本を倒してしまわないか心配ばかりしてしまうので、混んでいる時に嬉しいとは思わない。

まず一階の雑誌コーナーに直行し『POPEYE』と『ケトル』の特集をチェックしたら、どちらも本に関する特集をしていて、どちらも買ってしまおうかと思い手に取ったが、手に取った時の大きさ(持った部分の反対側が空にベロンと垂れるあの感じ)が嫌になって結局元に戻した。本屋に来たくせに荷物が増えるのがとても嫌だと感じた。外が暑すぎる事も関係しているのだと思う。ずっと体調が悪い。

二階に向かった。特に何か目当てがあったわけではないが、こういう時の方が目についたものを思わず買ってしまう事があり、「明確に何か目的がある」以外の出会いという自分の外側から急にやってくるものは、当然自分が意識しない選択肢を与えてくれるし、それが新しい道になったりするので良い事だと思っている。

(おそらく疲れすぎてるのだと思うが、紀伊国屋書店を出て駅まで歩く途中で思考が完全に止まり吐きそうになっていて、小田急西口のドトールに初めて行ってみようと思ったが見つからず、その過程で非常に身体がむず痒くなり、結局最寄りのドトールでこの文章を書いているのだけど、ずっとイライラしている。イライラというかむず痒さと言った方が正しいかもしれないが、とにかくすべてに腹が立つ。その状態のまま文章を書き始めたので、この前の段落など何か良い事をかいているようで何も書いていない。かといって書き直すつもりもないが、とにかく腹が立っているという事をわかってほしい。何に、とかではなく、ただ”腹が立つ”という状態が僕にはよく訪れる)

サリンジャーを読んでみようかと思って、置いてある場所を探すために検索機を使ってみたが、何かよくわからないバージョンアップをしていて使い辛くなっていた。反応が遅く、「タッチペンを使ってください」と書いてあるがそのタッチペンの先が、この世にあるすべてのタッチペンの先の中で一番広がっていた。

僕にとっては明らかにバージョンダウンなのだけど、天下の紀伊国屋書店がそんな事をするわけがないのだから、絶対に使い勝手は良くなっているのだろう。こういう、「自分にとっては悪い事」はただ自分が使い方をよくわかっていないだけで、全部自分が悪いのだろうと思うと悲しくなる。結局『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』を買った。

その後は『惑星の風景』を買おうと思って3階に上がり(検索機ではなく自分のスマホを使って場所を調べた)少し中身を見てみたが、完全に理解できる自信が無く「ぎゃ」と言って棚に戻した。対談相手が細野晴臣しか知らなかった事も大きい。あまり手に取らないジャンルの本を手に取って、あまり手に取らないジャンルゆえに読み切れないという経験を何回かしているので、こういう時には慎重になっている。どこかの図書館にあると良いのだけど。あと、普段2階までしか行かないので3階のラインナップにはかなり心惹かれたが、この時点でかなり体調が悪くなっていたので、別館に漫画を買いに行った。

目当ての『CITY』『月刊少女野崎くん』はすぐ見つかったが、『君は放課後インソムニア』が中々見つからず、またスマホを使ってようやく発見することが出来た。既刊を買った時もこれぐらい苦労した記憶がある。ここにしかない、という本棚をくまなく探していたつもりだったが、全然目に入っていなかった。こういう現象には名前があるのだと思うけど、何でもかんでも名前をつければいいというものでもない。『スキップとローファー』を買おうか迷ったけど、以前に妹から薦められていたことを思い出して『アンデッドアンラック』を手に取った。「決して次にくるマンガ大賞1位になったからではなく妹に薦められたから買おうとしているのですよ」という表情を作っていたが、マスクをしていたので周囲の人にきちんと伝わっていないかも知れない。ここで再度伝えておこうと思う。


(文章はここで一度途切れる)


実はこの文章は「自分が今日体験した事実を描写する練習」のために書いたものだが、笑ってしまうほど自分の心情しか書けていない。僕はそもそも小説などでも、情景描写の重要性をさほど理解しておらず、おそらくそういう側面が自身が作るコントの舞台設定が雑になってしまう事にかかわっているのだと思う。(見ている人から何度「どこにいるのかわからない」と言われたことか。どこにいるのかが重要な場合においても!)

僕は風景をほとんど見ていない。両耳にはいつもラジオが流れていて、視線も基本的に下を向いている。周りに注意を向ける事が無く、視界に人がいるという事を怖れている。今まで書いた文章を確認してほしいのだけど、ずっと自分の「気持ち」を書いている。人と話すときもずっと気持ちの話ばかりしている。一度広い公園に佇んで情景描写の練習をしてみようと思う。


8月24日「チェンソーマン、止まらず」

※この記事は「チェンソーマン」本誌最新話(81話)までを読んで書いているので、そのつもりは無いのですが、意図せずネタバレが含まれる場合があります。「何話してもネタバレになっちゃうんだよな」という言葉は、ネタバレを避けている言葉だと思いきや、それだけで「叙述トリックを用いている」など作品の構造に関するネタバレを匂わせてしまう事もあるので慎重になっている、という感覚です。(チェンソーマンに構造的なトリックがあるというわけではありません)

この作品は本当にネタバレが厳禁なので、Twitterで「〇〇(キャラ名)が・・・」と言っただけでもネタバレになってしまう気がして、「チェンソーマンを読んだ」という事しか呟けません。

そんな状態なので、充分に気を付けたうえで「チェンソーマン」の感想を書くのですが、それでもノイズになりそうだと思う方は読まないでください。

「8巻まで読んだし大丈夫♪」という方もお気を付けください。詳しくは言えませんが、僕も「8巻まで読んだし大丈夫♪」と思ってそれ以降の感想をツイッターで見ていたら、何となくのTLの雰囲気でネタバレを察知してしまい驚きが半減してしまいました。ネタバレをあまり気にしないタイプではあるのですが、この作品に関しては別です。(今週に関しては致命的な場面の画像をアップしている奴がいて本当にどういうつもりなんだ?チェンソーマンの話がしたければ僕の公式LINEまで送ってください)

ご了承いただけた方のみどうぞ。前振りがかなり大きくなりましたが「チェンソーマン面白い」という話しかしません。







「チェンソーマン」が止まらない。

8巻の時点で「うおおおおお」となって、それ以降の話が読みたすぎて本誌のバックナンバーを即購入、その後の話を読んで更に「うおおおおおおおおお」となって早20日。最新話の展開にさらにやられてしまって、これは「今」の感情を残しておかなければいけないという使命感で筆をとっています。

その魅力を挙げれば本当にキリがありません。

「斬新なストーリーや魅力的なキャラクター」なんて判を押したような言葉で述べる事すら間違っています。確かにそれもあるのだけど、もっと本質を言い表すような言葉がある気がします。それを探しているが中々見つからない。

おそらく映画にも多大な影響を受けているであろう演出は、他のマンガ的演出と一線を画すものだと思うし、8巻後半に登場する絶対的強者のデザインや、その異様さを表す表現は、続きが気になるのに思わずページを繰る手を止めてしまうほど目を奪われてしまいました。

かと思えば、ねじが吹き飛んだキャラクターが織りなす「シリアスな笑い」が随所に差し込まれる事で、作品のテーマが持つ陰鬱さを軽減し、バカ笑いもできる。

しかし、ここ最近はシリアス度がグッと増し、毎回辛くて泣きそうになってしまう。

人間が持つすべての感情がこの漫画によって巻き起こされているのではないか?と思うほど振り回されています。あとバトルシーンもめちゃくちゃカッコいい。頭空っぽにしてボーっと読んでいても楽しめます。7巻ラストのあのキャラクターのとんでもないアレが一番好きです。


そんな中、一つ自分が思う魅力を挙げるなら「裏切りが無いという裏切り」というものがあると思います。

物語的には裏切りの連続で「え!?」「え!??」となっているのですが、キャラクターの死に関しては裏切りが無い、というものが逆に裏切りになっているように感じます。

いわゆる死亡フラグが立てられたら、どんなキャラクターだろうとちゃんと死ぬ。

「こいつ死にそうだな」とか「死なないでほしいな」と思ったら死ぬ。

作中で「お前は死ぬ」と言われたらちゃんと死ぬ。

魅力的なキャラだろうとどんどん死んでいく。

こんなに殺すんなら、なんであんな魅力的に描くんだよ・・・と作者に恨み言をぶつけたくもなるが、それが作品の面白さを加速させていっている。

人気キャラクターが「お前は死ぬ」と言われたら、それを回避するために主人公たちが奮闘してその未来を回避するというのが、従来の少年漫画の在り方であったように思います。人気キャラクターって普通死にませんよね?だって人気なんだから。

仮に死ぬとしても、「ワンピース」のあのキャラクターのように、死までの道のりを丁寧に描く事で、他のキャラクターや読者の心情を揺さぶっていく事が当たり前でした。

しかし「チェンソーマン」は本当にあっさりと死ぬ。人気投票上位のキャラクターだろうとサラッと死ぬ。さりげなさ過ぎて自分の読み間違いだと思って何度も読み返すが、ちゃんと死んでいる。

エンタメが飽和している現在、インターネットの普及により作り手と受け取りての境界も曖昧になり、ほとんどの人が「物語の定石」を理解していると思います。

ピンチになったり死にそうになったら、隠された力が現れたり予想外の仲間によって助けられる。というパターンを理解しています。

漫画において「死にそう」=「死なない」なんです。

その定石が物凄いスピードで覆されていく。そりゃ「今まで見たことない漫画」と言われるわけです。今まである程度の漫画を読んできて予定調和に飽きている人は殊更夢中になると思います。


僕は2700さんの「右ひじ左ひじ交互に見て」がオールザッツ漫才で披露された時の映像が大好きなんですけど、「チェンソーマン」を読んでいるとあの時客席にいる芸人が爆笑している様子が頭に浮かびます。

当時の2700さんのネタも「裏切らないという裏切り」が主軸になっているものが多く、「右ひじ~」も終盤のオチ手前で、靴から段々と視線をひじに誘導していって「とんとんとんとん・・・さあ来たよ」と言って右ひじと左ひじを交互に突き出します。

それまで散々突き出していたのにも関わらず、です。

お笑いの基本は裏切りです。「〇〇かと思ったら××」というそのギャップによって笑いが生まれます。特に2700さんのように同じフレーズを繰り返すネタはそのギャップが特に重要で大切なオチ前だと絶対に「ズラす」事が全芸人の頭にあると思います。

それを分かったうえで「さあ来たよ」と今までと全く変わらないという裏切りを繰り広げる姿に、定石とは違う笑いを繰り出す姿に、芸人は爆笑したのだと思います。

それと同じことが「チェンソーマン」にも起こっています。もしかしたら10年前に連載していたら早熟すぎて受け入れられていなかったかも知れません。本当に連載していたのが「今」で良かったと勝手に思っています。


もう一つ言いたいのは、内容ではなく本当に今リアルタイムで追い続けるべき、という話です。

僕は基本的に漫画は単行本派で、どんな漫画もいつ読んでも面白さは変わらないと思っているのですが、「チェンソーマン」に関しては「毎週読むべきだ」と思ってジャンプ本誌を買っています。他の作品は読んでいません。「チェンソーマン」1話を読むためだけに購入しています。

さすがに出費が多くなってきて「1話ずつじゃなくてチェンソーマンがまとめて読めるサービスとか無いかな~」と考えるようになりましたが、それが単行本でした。頭が悪くなってきた気がします。

もはや僕は内容ではなく「この漫画を毎週読む」という「体験」を楽しんでいます。

映画に関しても「後で配信されたら見ればいいじゃん」と思いがちですが、「これはスクリーンで見るからこそ価値がある」という映画は劇場に足を運びます。それは作品ではなく「大きなスクリーンで見る」という体験にお金を払っています。

ジャンプを毎週買っているのは、それと全く同じ気持ちです。

いつか伝説と言われるかもしれない作品を毎週楽しめるという幸運はもう二度と訪れないかもしれません。

あなたが「チェンソーマン」を読んでくれる事を祈ります。面白い作品を多くの人に共有して世界を少しでも素晴らしくしたいです。


「チェンソーマン」の感想を言い合うサービスもやっています。


8月25日「睡眠に挑む」

これがTwitterでバズっていて「これこれ~👍」と思ったので昨日さっそく試してみました。Twitterって基本的に嫌な事しか起こらないけど、たま~にこういう有益な情報が入ってくるから完全に削除できないというのが困るポイントだったりするんですよね。

本当は僕の事を理解している人が、僕が喜びそうな情報をLINEで送ってくれるのが一番良いのですが、僕の事を完璧に理解している人など誰もいないので難しいところです。(好きそうな音楽、映画、小説、マンガ、お笑い、チェンソーマンの感想、僕が好きな人のインタビュー記事、経済などに関する新しいシステム、哲学、などお待ちしています。そのために公式LINEをやっていたりもします)


ちょくちょく書いているんですけど、もともと眠るのが嫌いで、というか夢が嫌いすぎて、「なんでわざわざ嫌いな夢を自分から見に行かなきゃいけないんだ」とか思っていたら、ベッドに入っても眠れない大人になってしまいました。

社会人になってからが特に顕著で、芸人になって生活リズムが狂いがちになってから留まるところを知らず、という感じです。3月ごろからはとんでもない事になってきたので、霜降り明星せいやさんが言っているように「気絶するように眠る」という事を実践しようとしているのですが、そうなると必然的に寝落ちのような体勢になってしまい、疲れが取れない可能性があるので、やはりベッドで眠るという事は徹底したいところではあります。

あと、眠るのが嫌いな割に寝具はきちんとしていて、良い枕と良いマットレスを使用しています。そういう仕事をしていたので、そういう知識が増えた結果、寝具をきちんとするのは本当に大切、という事を知ったのでそれらは買いました。

で、今まで睡眠に対して色々なアプローチを試してきて、最低でもベッドに入る30分前は部屋の照明をギリギリまで暗くする、刺激があまり強くない本を読む。などはやるようにしていましたが、まだ足りず、好きなラジオを流す(なるべく内容が真面目ではないもの。真面目なものなどは自分も真剣に考え始めてしまう)、好きな曲を流す(もう口ずさめるぐらい何回も聴いたもの。初めて聴く曲が良かったら興奮してしまうのでダメ)なども試していまして、最初は良かったけどだんだん飽きてきて八方ふさがりになっていた時に、↑の情報を見つけたのでとても嬉しかったです。

記事を読んで、身体をリラックスさせた後に心をリラックスさせることが重要という事を知って、そういえば今まではあまりできていなかったかもしれません。特に横になってから今後の自分に関して考え始める事もあり、そういう時は目がバチバチになってしまうので、良くなかったんですね。何となく自分で思っていたことをきちんと他人に言ってもらえると安心します。

身体をリラックスさせる方法はこれで合ってるのかな?と思いつつも完遂させ、さあ次はいよいよ頭にイメージを浮かべよう。

自然が好きなので「あなたは穏やかな湖に浮かぶ小舟の上で横になり、視界には澄み切った青空が広がっている。」

をやってみたのですが、何回やってみてもうまく行かない。

どうやっても小舟の上で横になっている自分を上から見下ろしている視点、しか思い浮かべる事が出来ませんでした。

(ここで眠るとかではなく、僕はずっと昔から俯瞰でしか物事を見ていなかったかも知れないと思いました。俯瞰で見る、って本当に「俯瞰で見る」ってことだったんだ、とか。主観の想像をすることもできないんだ、とか。周りから与えられたイメージをそのまま演じる事しかしていなかったのか?自分は無いのか?そもそも”自分”ってなんだ?周りに影響されやすいとは言うけど、誰からも何からも影響されていない人間などいるのか?インプットが大切だとよく言うのだからインプットは良い事なんじゃないのか?吸収してそれをどう表現するかはその人次第だというけど、それが”その人らしさ”だと判断する基準はどこにある?個性というのはどこからやってくる?他の人と同じことをやっていても生じてしまう歪みのようなものが個性なのではないか?個性的な部分を出そうとしすぎるがあまりに普遍的になってしまう事はなぜなんだろう?そのままでいいんだよと言われてもそのままでいいわけなんかあるのか?僕は、人間ってなんだ?今僕が考えていることは本当に自分が考えていることなのか?自分?自分ってなんだ?宇宙が考えている事を僕と言う肉塊が受信して”考えているフリ”をしているだけなのではないだろうか?僕の肉体を精神を動かしているものが自分だと証明する術がどこにある?僕は、僕は、人間とは、人間、、。。。。。





ぐらいで眠りました。

2分とはいかないけど多分10分ぐらいだったと思います。そもそも昨日は「睡眠時間4時間7時起きそこからずっと活動を続け2時に寝るday」だったので、そもそも何もしなくてもすぐに眠れていたのかもしれません。

今日が本番だと思って挑みます。


8月28日「26日と27日更新できませんでしたが」

見てもらえればわかるのですが、26日と27日のnote更新できませんでした。別にラスゴレだったという訳でもなく、むしろ逆で、26日は昼から新宿に行って「ブックスマート」を見て、バイトの時間までネタ考えて、バイト終わった後は銭湯に行って、本当に久しぶりの銭湯&サウナだったのでかなりテンションが上がってしまい、そのまま家で大暴れをして気が付いたら寝ていました。

27日は「若者のすべて」というかなり出たかったライブにユニットという形ではあるけれど出させてもらって、久しぶりの僕の好きな「お笑いライブ」の空気にずっと興奮しっぱなしで、そのまま家に帰ってから大暴れをして気が付いたら寝ていました。

「あ~note書かなきゃな」とは思っていたものの、現実が楽しすぎてパソコンに向かうという事ができませんでした。すみません。

前も書いた気がするけど、めちゃくちゃ文章を書きたくなるのは、現実が全然楽しくないときで、満たされていない心を文章を書くことで積極的に満たしていくという側面があります。

この文章を楽しみにしている方がいたら申し訳ないのですが(この形式にしてから”読まれている”という感覚が本当に0になりました。数字にも表れないし。数字に振り回されない、という事を求めて試行錯誤していたのですが、これはちょっと極端すぎたかもという印象です。有料記事にして15人ぐらいが読んでくれる、ぐらいが一番健康的だった気がします)

「note書きたくないってことは今自分楽しんでるんだな」という指針になってきたので、書けなくて落ち込んだりする事も無くなりました。

逆に「今文章を書くことでしか自分を救うことが出来ない」という状態は、良くも悪くもあるな~という感じです。

感情がグワーっとなって、ダーッと書く文章は書いていて楽しいし読んでいて楽しい人も多いと思いますが、書いたところで根本的な解決になっていない事が多く、だとしたらその根本的な解決に時間をかけた方がいいのでは?と思う時もあります。


芸人になって、特に今年の6月ごろから毎日noteを書くという事を始めてから「自分」という輪郭が曖昧になってきて、今これを考えているのは誰か?とか、これをやると決めたのは自分なのか?誰かに決められているのではないか?などと考えてきて、よくわからない感じになってきました。

それを解決するために本を読んで「そういう事か」とわかっても、その「わかった」という理解が外側からやって来たという事は「理解させられた」という事になってしまい、結局「自分」というものがわからないままになってしまうのではないか?というような事を考えたりします。

かと思えば見るものが溜まっているのに「アイカツ!」を見始めたり、Twitterで「あきりあ」と検索してイラストに片っ端からいいねしていく、という事をしている時は「自分」と言うものがとても強固に存在しているという感覚もあります。

あとはお笑いをしている時。

最近は舞台に立つことも少なくなってきたからか、コントをしている時も俯瞰で自分を見つめている瞬間が多く、他人が自分のネタを代わりにやってくれているような感覚だったのですが、昨日久々に二人でネタをした時は、後半のある所でスイッチが入り気が付いたら台本にない場所で床に倒れこんで足をバタバタさせていました。その瞬間本当に生きている気がしました。

基本的に人の目ばかり気にしてきて、自分よりも他人の事を優先させてきた自分が「その瞬間」に入る事が何よりも好きで楽しくて生きている気がしたからお笑いを続けているという事を久しぶりに思い出しました。

お笑いを、お笑いをやりたいです。


8月30日「芸歴に関して」

僕は普段から芸歴というものに懐疑的で、自己紹介をするときに自ら芸歴などを打ち明ける必要なども無いと思っているのですが、そういえば色々な事を芸歴で区切っているのってお笑いだけなんじゃないのか?という事にも思い当たりました。

賞レースで「〇年以下」というものに始まり、普通にテレビでネタを披露する際も事務所と芸歴を表記するのが当たり前のように感じます。(だからこそ「第7世代」という言い方が広まったという事もあると思いますが)

ミュージシャンや役者がテレビに出るときに、話の流れで芸歴の話になる事はありますが、最初から「〇年目」という話にはあまりなっていない気がしたので、芸歴によって対応が変わるというのはお笑い独自のものなのかなと思いました。

当初は、お笑いの縦社会から「挨拶するときは芸歴をちゃんと言えよ」みたいなところから始まったお笑い芸歴明かし問題が、全体的に広まっているという印象を受けます。

かといって、今から芸歴を無しにしろ、と言いたいわけでもないのですがあんまり言いたくないというだけです。



画像2

あと、芸歴をはっきりTwitterなどに書いている人はこういうプロフィールを書きがちな気がします。なぜかはわかりませんが。昨日一瞬だけふざけてこれにしたんですが、恥ずかしくてすぐ戻しました。こういう事をよくするのでたまに覗いてみてください。


8月31日「浴衣を着たカップル、世にはびこる」

下北沢の喫茶店で諸々の連絡を済ませ、このnoteを書き始めた時、隣の席に浴衣を着たカップルが座った。

「なぜここに浴衣を着たカップルが?」と思ったが、今日は8月31日。夏の終わりの日。

むしろ町に浴衣を着ているカップルがいない方が不自然だろう。そうか、今日は浴衣を着たカップルが堂々と闊歩する日だった。気が付いたらもうそんな日付になっていたのか。と思い周りを見渡したら浴衣を着ているカップルはその一組しかいなかった。もっと町には浴衣を着たカップルが溢れるべきなのに、完全に浴衣を着たカップルが足りていない。

ただ現在の時刻は16時30分。夜が深まり、浴衣が本格化するのはこれからだろう。もう少し時間が経てば、洋服を着ている周りの人たちもいそいそと浴衣に着替え始める事だろう。

しかし、浴衣をカバンの中に入れて時間になった時に一斉にトイレに入って着替え始めたら混雑してしまうのではないだろうか。本当の意味で用を足したい人の迷惑になってしまう事を考えたらよい行動とは言わない。

一度家に帰ってから浴衣に着替えて、再度町に繰り出すのだろうか。面倒じゃないか?それだったら最初から浴衣を着た状態で家を出た方が絶対にいいだろう。着替えるためだけに家に帰るなんて考えただけでため息が出る。家が近ければ問題無いけど、今自分の目に映る人たちが全員下北沢に住んでいるとは思えない。

と考えると、もしかしたらみんな浴衣を着ないつもりなのかもしれない。

夏、最終日。なのに浴衣を着ないで、別に明日から着てもいい服を着て町に繰り出している。そういう僕も別に明日からも着るつもりのアロハシャツを着ている。浴衣は9月からは着てはいけないのに、「急いで着なければ!」という気持ちにもなっていない。

いつからか、自分にとって8月31日は夏の終わりの大切な日ではなく、ただの月末になっていた。ただの月末になってからもう何年も経つが、ふとした拍子にかつて大切にしていた夏の終わりの日を思い出す。

中学生の時、夏の終わりのお祭りに、行くのか行かないのか決めかねて、行ったら好きな子の浴衣姿が見れるかもしれないと思って意を決して行ってみたら、別に浴衣を着ていないし、体育館でバレーボールをしていて、それを外の窓から眺めていたことが、僕にとっての夏の終わりの日。

今、夏祭りに行ってみても、僕の好きな子が浴衣を着ずに体育館でバレーボールをしていないんだと思うと、行っても意味がない気がする。

これを書き終わったらゲームセンターに寄ってご飯を食べて家に帰る。





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