お笑い批評を拒否する当事者の気持ち

今朝、「なぜお笑い批評は当事者から拒否されるのか」というツイートを発見して、興味深かったのでその理由を当事者として考えてみました。ほぼライブしか出ていないし、ほとんど批評もされないので全部想像ですが、「全然面白くないのでネタツイッタラーを見て勉強してください」というDMが来たときは腹立ったので、その時の気持ちを思い出します。


・「自分」を批評されたような気持ちになるから

批評に対して感情で「とにかく嫌だ!」と否定してしまうのは、建設的ではないし良くないとはわかっていますが、これがかなり大きいような気がします。

お笑いのネタは、台本を考えた本人が表に立って披露するものになるので、かなり「自分」の要素が大きいです。

漫才に対しては「ニンが出たら面白くなる(≒その人の本来の人間性がネタに出たら面白くなる)」という考えがあるほど、本人の人間性と密接な関りがあります。

映画も小説も作った事がないのでよくわかりませんが、自分で考えて自分の分身とも言えるほど思い入れを込めたものでも、「作品」として成立してしまえば、批評に耐えうるぐらいの距離感を空ける事ができるから、映画批評、文芸批評は土壌が育っていったのではないかと思います。

お笑いへの攻撃的な批評はそのまま、自分への攻撃だと捉えがちになってしまうので拒否してしまう気がします。(逆にネタと自分を完全に切り離している人は気にならないかもしれません)


・お笑いは塗り替えられていくから

勿論、映画なども同じことが言えますが、お笑いは特に「新しい事をしよう」というスピードが速いです。「過去に同じようなネタを見たことがある」となってしまってはダメなので、芸人はとにかく新しい題材・切り口・システムを考えています。(テレビで観る限りのお笑いだとそこまで変わっていくスピードは感じないかもしれませんが、ライブシーンでは特に移り変わりは激しい気がします)

そうなってくると、映画のように歴史が長く、方法論が確立されたうえで批評されるのと勝手が変わってくるのではないかと思います。

例えば「これは漫才ではない」と言われても、(漫才か漫才ではないかという話は一旦置いておいて)新しい、誰も見たことが無い事をやりたい、という気持ちで作ったものだから、それを否定的に捉えられてしまうとやるせない気持ちになるはずです。


・そもそも批評できる余地が少ない

文芸批評などは、読者がその作品を読んでわからなかった部分を、理解しやすいように価値を提示するという部分に意味があるのだと思いますが、お笑いは端的に言えば「笑うか笑わないか」しか無いので、見た本人が簡単にジャッジできるので、観客側もあまり求めていないのではないかと思います。それを演者側もわかっているから拒否をするのかも知れません。

本当はもっと入り組んではいるのですが、一番の指針はウケたかウケてないか、なので。


とりあえず思った事をバーッと書きました。もちろんこれは芸人側の意見の総意でもなんでもなく、一個人としての意見になります。

個人的にはどんな事であれお笑いが「良い方向に」盛り上がっていく事を望んでいるので、そのきっかけになるのであれば、お笑いの批評が進んでもいいのかと思います。何にせよお笑いがもっと面白くなればなんでもいいです。

頂いたサポートでドトールに行って文章を書きます