きゅうくらりん

「空っぽが埋まらないこと 全部ばれてたらどうしよう」

この歌詞を見た時にいわゆる「人間失格を読んだ時に自分の事が書かれていると思った」的な現象が起きました。本当は『人間失格』ではなく自分にとっては梶井基次郎の『檸檬』なのですがそれは置いといて。
様々な要素からこの曲が人気になっているとは思いますが、その大きな一因になっているのはやはり歌詞だと思います。

私もとっくに学生時代を終え、大人として生きていますが「あの時の感覚」というものが即座に呼び起こされ、そしてそれが実は今も続いているという事を思い出しました。普段は無意識のうちに隠して生きているけど、やっぱりまだここにあったのか。

先日「人間が感じる一番大きな刺激は15歳ぐらいまで」という話を聞きました。ピークが過ぎた後は「あの時の刺激」を思い出して脳を活性化しているだけに過ぎないという事。
中高生の時に好きになったものは一生好きになる、という話は確かに聞いたことがあります。実際にその時に好きになったものによって、今の私の人生も成り立っています。今、自分が好きになって熱を持って語れるもののほとんどはその時期に出会いました。

という事は中高生の時に「感じた事」というのも、一生そのままになってしまう可能性があります。人間は根っこの性格は絶対に変わらないと思っていますが、その根っこが形成されるのは中高生まで。

私の考えでは、あの時に「空っぽが埋まらないこと 全部ばれてたらどうしよう」と感じていたら一生そう感じます。
ここまで言語化はできていなかったけど、自分の中に空っぽな部分はあり、それに対する疑問などはありました。ばれるのが怖い、というよりは「みんなもこれぐらい空っぽなの?」という感覚です。

ここからは『きゅうくらりん』の「空っぽ」とは違う意味合いになるかも知れませんが、私にとっての「空っぽ」は「自分の中から生成されるもの、自分の中に楽しみを見出せるものが無い」という事に近いです。

今も根幹は変わりませんが、昔の私は自分から「何かしたい」と言う事が全くありませんでした。
野球を始めたのも兄の影響で、友達と遊ぶ時も全部後ろから付いていくだけ。その時に本当に心の底から楽しいと思っていたかどうかは疑問が残ります(野球に関しては辞めたがっていた気もするけど、その時の自分は”野球をしている自分”を手放してしまえば何も無くなってしまう恐怖がありました)。

なんとなくの感覚ですが、率先して外を走り回って元気に遊べる人は空っぽではない気がします。それが既存の遊びであれなんであれ、遊びのルールを自分で作り出せる人は、自分の中から楽しいものを生み出せる人です。
そういう人を今までの人生で沢山見てきて、そういう人はなんだか毎日楽しそうだなと思っていました。

では、そうではない人は全く楽しく無くて、それ以降の人生も楽しくないのか?と言われればそうではありません。
少なくとも今までの私の人生を振り返って「マジで最悪でした!!!!!!!!!!良いとこ0!!!!!!」と言い切る事はありません。最悪な事の方が多いけど、それでも楽しいものは見つけられた。

小学生の頃に一番好きだったのは本を読むことで、中学生ではそれに加えてアニメとお笑いが好きになり、それらに触れている時は本当に楽しかったです。
これらの共通点は「外側から楽しみを受け取っている」という事です。
自分の中から楽しみを作りあげなくても、外側にはこんなにも素晴らしいものがあるんだ、という事を知りながら成長していきました。
そして、むしろ自分は空っぽだと思っている人が、空っぽで容量が多い分、それらの楽しみを享受しやすいのではないか、とも思います。

エンタメが溢れている今の世の中では、自分が空っぽであればあるほど楽しむ事ができます。

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