わたしたちはどのようにして自閉スペクトラム症の計算論的精神医学から学ぶことができるのか(2) ー予測する心ー
前回は、心理学における「認知革命」から、パーセプトロンの話までだった。ちょうど、「心」についての新しい見方が生まれつつあった時代だったと思う。こうした変化によって、どうも心は単純に鏡に映すようなやり方で外界を認知しているわけではないようだという理解が広まっていったのだ。
年代はだいぶ遡るが、ピアジェの発達心理学を振り返ってみると、人間の認知の構造がどのようにして成立するのか、その発生をたどることによって明らかにしようという試みだったといえるだろう。もしかすると誤解しているひともいるかもしれないけれど、ピアジェの発達心理学はもともとは臨床的な道具として生まれたわけではない。そうではなくて、大人の知能を理解するために赤ちゃんの知能との連続性を調べたものなのだ。結果としてピアジェは、それまで誰もやったことがないような、幼児や児童の知的な行動を詳細に観察する研究をすることになったわけだが、彼自身はその仕事を「発生的認識論」として考えていた。そしてそのような発生的認識論の立場に立てば、認識は「発生的に構成されるもの」なのだ。そう考えることがもし正しいならば、「ものは見たままにそこに”存在”している」というような、ごく単純な”素朴実在論”が認識論的にいって成立しないことは明らかだろう。実際に、ピアジェの「同化と調節」という考え方を学んでみれば、認識が対象を構成しつつ対象に拘束されていること、そのことによって認識にたいしてある構造が強制されているという事情がよく理解できる。
大学病院を離れて、都立松沢病院の病棟勤務に移ったあとも、ピアジェについて勉強しながら、精神科小児部での太田昌孝先生の文献抄読会には通っていた。いつも色々な文献を交代で紹介しあうのだが、あるときこの抄読会でグスタフソンの1997年の論文について報告した。題名を日本語にすると、「不適切な皮質特徴マップ: 自閉症の神経回路理論」という論文なのだが、大脳皮質内の抑制性側方結合の過剰さがあることで、過剰な感覚弁別がおこるのではないかというのだ。この仮説は非常に魅力的に思えたし、そのあとにも自閉症の抑制性介在ニューロンの問題について続報もいろいろあったが、しかし、このような可能性を臨床レベルで確認するような神経心理学的パラダイムを組み立てることができず、そのとき自分ではそれについてさらに研究を進めることはできなかった。
2001年から明神下診療所の診療所長になって、医療と療育の実務に没頭するようになったが、自閉症の本質は何かという問いはずっと頭を離れなかった。師の太田昌孝は、「表象機能障害」という独自の仮説を追求していたが、フリスらの「弱い中心性統合」仮説にも早くから興味を持っていた。それで太田グループは、多くの要素を含む場面の絵カードを提示して、それにたいする被検児の説明のようすを分析して言語的/意味的統合の程度をアセスメントするという研究方法を試していたが、たしか論文にはならなかったと思う。そのころ、わたしの方は2005年からデイケアによる自閉スペクトラム症における青年期の治療を試みていて、松沢の時に安西信雄先生に習ったソーシャルスキルトレーニング(SST)や認知行動療法をやってみたり、発達性協調運動障害への介入として体操や太極拳の基本功を患者さんといっしょにやってみたり、あまり学問的とはいえない実践的なことばかりしていた。それでも、その経験を通じて、やはり神経回路レベルでの特徴を理解しなければ、自閉スペクトラム症(その頃は自閉症およびアスペルガー症候群と呼んでいた)の医療は適切なものにならないだろうという確信が深まっていった。
たぶん2014年頃に明神下デイケア部門を経済的不採算のために閉じてからだったと思う。この頃から患者さん達と一緒に勉強会をするようになって、マービン・ミンスキーだとか、フレッド・ドレツキだとか、行動経済学のサミュエル・ボウルズだとかだいぶいろいろな本を読んだ。もちろんフリスの自閉症の本もやったし、発達認知神経科学の教科書を読んだり、たしかヤスパースやピアジェもやったと思う。社会学のゴッフマンやルーマンなどもみんなで読んだ。わたしの仕事や研修が忙しくなったことや、新型コロナウイルスの流行が始まったこともあって勉強会はなくなったけれど、あるときにクリス・フリスの「心をつくる: 脳が生みだす心の世界」を読んだことや、ホーヴィの「予測する心」が出たことがきっかけで、これは自閉スペクトラム症の計算論的精神医学をやらなければしょうがないだろうと思うようになった。
さて、ここからが本題である。(前振りが長すぎる)
簡単に言うと、「上記の2冊をこの順番で読んでね😉」ということなのだが、それでは「はい解散!👏」ということになってしまって記事を読んでもらった意味がないので、ここからしばらくホーヴィの「予測する心」について解説しようと思う。かなり難しいので、うまくできるかわからない。まあ読者のうちの10人にひとりでも、「こんな連載ちんたら読んでるより本読んだ方が早いわ #゚Д゚)·;’.ヴォケ 」などと思って、上記の本を読む気になってくれたらめでたいと思うことにしよう。
はなしは、そもそも知覚とはどういうことなのかという所からはじまる。おそらく多少とも予備知識のあるあなただったら、”それはつまり、モノに反射した光が目に入って網膜の錘体細胞が・・・それで一次視覚野が興奮してですね・・・” などと言いたいだろうが、そう話が簡単だったら苦労はしない。
このはなしは、感覚信号で駆動されるボトムアップの計算だけでは説明が付かないのだ。むかしギブソンというひとがいて、生態学的視覚論という本を書いた。わたしたちの視覚には、わたしたちがそのように想定している3次元の奥行きのある世界を認識するために充分な情報が、そもそも最初から与えられていないというのだ。このことを、「視覚問題は不良設定問題だ」と表現する。つまり小学校算数の問題のようには、一つの答えがちゃんと決まるようにはなっていないのだ。
それなのに、わたしたちはちゃんと生活空間を『見ている』。混雑した駅でも他人をよけることができるし、多少酔っ払っていてもごちゃごちゃした机の上のグラスにまっすぐ手を伸ばしてを掴める。だが、機械に同じことをさせようとしてみたら、これが思うほど簡単でないことはすぐわかる。
そういうわけなので、時々はバグることもある。2015年頃にネットで流行った写真があって、このドレスは何色かというのだが(下の図)
どうでしょうか? 白/金(薄茶)に見えるひとと、青/黒にみえるひとがいるはずだが、もう一方の見え方に切り替えるのはけっこう難しい。ちなみに、これをイラスト動画で作ったひとがいて記事になっている(下の図)
人間の視覚は、感覚器官に与えられた色光の配置を手掛かりとして、そこにあると想定された「物体」の色相を想定するようにできている。しかし、これは不良設定問題なので、そもそそも最初から、一つの答えだけが与えられるような保証は与えられていないのだ。人間の脳は、単純に鏡のように外界を映しているのではなく、能動的に「推論的に予想する」方法で色や形を決めて視覚表象を構成している。わたしたちは、そのように脳の低次の情報処理が推論的に構成してくれた視覚表象を経験しているのだが、この「推論」過程は意識的な反省によっては到達できない自動的・無意識な情報処理なので、わたしたちはそのことに気づかない。(ホーヴィは、上記の本の中で「両眼視野闘争」というさらに面白い例を挙げてこのことを説明してくれている)
さて、「無意識の推論」などと言い出した時点で、(特に真面目な心理学寄りの方面から来たひとだたらたぶん)、そっと閉じたくなるか、またはフロイト的無意識のことを思い出すかしそうな気配だが、いやちょっと待ってほしい。
確かにその通りで、文字通りに言えば無意識は推論などしない。とりあえず、これはいわゆる「ことばのあや」だと思ってほしい。ここで実質的に主張していることは、「神経回路は、ある種の推論に相当する計算を行うことができる装置である」「言語的な意識による反省は、自動的に行っている自分の行動の隅々まで全てを把握できるわけではない」という程度のことである。
後者の、自分の行動に対する意識的反省の限界は、自分がどうやって自転車を走らせているか考えてみればわかる。イメージすることはできるが、実際に走るときにはハンドルの傾けかたや手足の位置をいちいち意識しているわけではない。ましてや、上腕二頭筋、上腕三頭筋、三角筋など一つ一つの筋肉にどれだけの力を入れて、それをどう素早く変化させているのか、仮にいちいち意識して考えていたとしたら動くことも困難になってしまう。このことは容易に同意してもらえるだろう。
おそらく問題は、前者の「神経回路はある種の推論に相当する計算をする」という所だろう。ホーヴィがフリストンらに依拠して主張するところでは、この推論に相当する計算は、ベイズ推論である。(はいそこのあなた、いま「出たよベイズだよ ハア┐(´д`)┌ヤレヤレ」と思ったでしょう? 正直に。)
ベイズ推論と聞いただけで、萎縮したり退屈してしまうひとがいるかもしれないが、これもそれほど難しい話ではない。単なる「条件付き確率」による予測のことだ。
条件付き確率というのは、52枚のトランプから一枚引いてもらってスペードのエースが出る確率は何も事前情報がなければ1/52だが、被験者には隠してカードを引いてくれた友達が、「これは黒のカード」とヒントをくれたら確率は1/26に変化するという話だ。この条件付き確率を数式で表して変形すると、ベイズの定理が導かれる。
数式を使わないように言えば、「事象”乙”が起こったという条件のもとで事象”甲”が起こる確率(甲の事後確率)を知りたかったら、”事象甲が起こったという条件のもとで事象乙が起こる確率”に、事前情報なしのときに事象甲が起きる確率(甲の事前確率)を掛けた値を、事象乙が起きる確率で割る」である。つまり、「引いたカードが黒(乙)の時にスペードのエース(甲)である確率は、(1掛ける1/52)割ることの1/2である」したがって答えは1/26、落ち着いて考えれば小学校算数ぐらいでなんとかなる話で、何の神秘も手品もない。
ベイズの定理を使うのがなぜ便利かというと、”ある前提”となる事象が考えられるときに、結果として起きてきた別の事象の確率を測定することで、その”ある前提”に関する不確かな可能性がどれほどあるかについて考えられるような構造になっているからだ。そして、そのことによって、自分自身の確信度を調整するためにベイズの定理に相当する計算が利用できるのだ。
最近なにかと揉めやすい「偽陽性・偽陰性」の問題も、昔はオッズ比で説明したが、いまならベイズ推論で説明した方がより一般性があって都合がいいので、たぶん今は医学部でもそう教えていると思う。(ちょうどよいネット記事を見つけたので、数式で計算してみたいひとは参照してみて下さい)
やっと、「脳は感覚入力を推論的に予測する」をベイズ推論的に考えるというところまで来た。だいぶ長い話なので、今回はここまで。
それでは次号予告。
”次回、「予測誤差最小化」 明後日? そんな先のことはわからない”
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