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発達障害の精神医学から了解を再考する

精神医学は、応用科学としての医学におけるひとつの分野であると同時に、その現実の医療としての実践ゆえに人間についての学であることも求められている。この二つのことの関係が整理されないままに、自然科学としての精神医学と、人文学としての精神医学とが、水と油のように溶け合うことなく併存しているという状況が長く続いてきた。しかし、神経発達障害という精神医学の分野においては、患者の生活を理解しようとすれば、生物学的な水準での神経発達の障害と、そのひとの社会生活における出来事の有意味性との双方を統一的に認識することが要求される。それゆえに、発達障害医療においては、このような二元論的な分離は、発達障害概念の理解の拡がりに対して大きな妨げとなっている。このことは、一般の精神科医が発達障害医療に踏み出すのをためらう要因のひとつとして、精神医療の実践の中ですでに切実な問題となっているように思われる。そこで、今回はこのことについて、”了解”という考え方を通じて検討してみようと思う。(問題の性質上、今回はやや専門的な内容にわたることになるので、一般の読者の方には理解しづらいところがあるかも知れない。その点については予めお詫びしておきたい)

「生物ー心理ー社会」という図式は、DSM的な精神医学とともに大変流行しているので、最近の精神医学・心理学関係の読み物には、よく3つの円が部分的に重なり合ったベン図のような挿絵がついていて、それぞれの円に「生物」「心理」「社会」などと書いてあることを見かけることがあると思う。発達障害の専門家として、このような図解を見るたびに、”それは何かおかしいのではないか? ” という気分にさせられる。たとえば、このような疑問がありうるだろう。
”はたして、それらのカテゴリーは、そのように並列したり部分的に重なり合ったりできるような性質の論理関係にあるのだろうか? ” 
”それらのカテゴリーは、観察可能な具体的現象としては、それぞれどのような生活の中の出来事あるいは経験を意味して使われているのだろうか? ” 
”人間に関することで、これらのどれかひとつだけが関与して他が関与しないような現実の事象が、ただひとつでも存在するのだろうか? ” 
このように、「生物ー心理ー社会」モデルは、単に抽象的に考えるとわかりやすく思えてしまうので、なんだかスマートな考え方のように見えてしまうのだが、実際に具体的なケースに即して検討してみると、さまざまな疑問が生じる。それどころか、よく考えてみると、むしろ非常に奇妙な考え方であるようにも思えてくる。「さまざまな要因を見落とさない」使い方が本来なのであろうが、むしろ機械的に図式が運用されることによって、心理的なもののうちにある生物学的な側面を考えない結果になったり、生物としての身体をもつ人間存在の本源的な社会性を見落とす結果になったりというようなことも少なくないように思う。どうやら、それらのものの統一として人間が考えられるのではなくて、それらのもののバラバラな寄せ集めとして人間を考え、どれかひとつ以外の側面を無視するための枠組みとして活用されてしまっているのではないかという懸念がある。まして、医者が薬を出し、心理職が話を聞き、ソーシャルワーカーが社会資源をあてがうというような機械的分業がイメージされているのだとしたら、それは精神医療にとって非常に不幸なことだ。そのようなバラバラのやり方で人間とその病態とを把握しようとしたら、何一つ上手くいかないことは明らかなのだから。

人間について理解しようとして、生物としての人間と、有意味性の世界を生きるものとしての人間とのあいだに、どのような関係があるのかということについて記述しようとするとき、平板で折衷的な「生物ー心理ー社会」モデルで考えるよりも、何かより本質的な記述が求められるとすれば、ナシア・ガミーも指摘しているように、随分と昔に、カール・ヤスパースが「説明」と「了解」について区別しようとしたことに遡った方がよいのかもしれない。いま読み物としてのわかりやすさを重視して、非常に簡略に言えば説明 Erklären とは自然科学的認識の対象としての因果関係による理解であり、了解 Verstehen というのは社会的に共有された意味の世界の中で、他者の行為の意味や動機が”わかる”ことによる理解であると、さしあたって考えておけばよいだろう。ヤスパースは、この考え方を師であり友であるマックス・ウェーバーから引き継いでおり、両者はディルタイの影響下でその思想を生み出した。(社会学系の文脈での日本語訳の場合には、了解 Verstehen は「理解」と翻訳されることが多いので注意されたい)

ある種の精神医学的症状に関して、”了解ができない”という特徴を持つとしてヤスパースが記述したことについて、特に非ドイツ語圏において、本来の文脈から切り離されたことによる誤解が続いてきた。了解ができないということは、その体験の意味を他の人が容易に追体験できないということを示してはいるが、それは、全く理解の手掛かりが絶たれているということではない。むしろ、ヤスパースにとっては、そこから個別的で一度きりの人間存在の本質が開かれていく入り口という意味を持っていた。しかし、了解不可能性というものを、一切の理解を拒絶する超えることのできない壁のように誤って考えてしまう、そんなうっかりした間違いが以前には多かったのである。

実際には、ヤスパースの盟友であるウェーバーが考えたことの文脈からみても、了解というのは個人が任意に肯定したり否定したりできるような恣意的な判断ではない。それは、了解者にとって主観的な明証性を伴うと同時に、その所属する文化において、社会的に共有できるものとして期待されている。しかも、「了解しうるものと、そうでないものとの境界は、経験諸科学にとって流動的なのである」(M・ウェーバー:理解社会学のカテゴリー)。ここでは、了解できるかできないかという二分法が問題なのではなく、了解という考え方では、「他者の行為に主観的な意味の上で関係づけられているもの」(同上)を問題にするのである。すなわち、了解の観点からは、行為者自身にとって、そして観察を行っている了解の主体にとって、主観的な意味の上で関係づけられるものを取り扱うことになるので、単に客体的な対象を機械的に観測する場合のような観察とは異なる。有意味性の理解を前提とする了解という方法の場合には、主観というものを行為者と観察者の二重の意味で排除することができない。だから、このような方法による理解のあり方を、自然科学的認識における因果的説明と混同しないために、了解 Verstehen という別の用語が用いられてきた。

他者の行為(発話を含む)の主観的な有意味性について、もう少し別の角度から考えてみよう。仮に、あるひとにとって、誰ともまだ共有されていない全く新しい概念がもし存在したとしても、そのような概念は非常に不安定で、一晩寝ただけで翌朝には永遠に忘却されてしまうかも知れない。もしも、そのような概念を安定化させて、実践的に有用なものとしようとしたら、それを誰にでも(したがって、時間を隔てた未来の自分であっても)理解できる形式に記述しておくしかない。そのような記述は、その社会で使われる日常言語によっておこなわれるか、あるいはそれ以外の方法によって行われたとしても、いずれにせよ社会的に共有可能な形式を持った表現にならざるを得ない。それゆえ安定的に利用できるような、わたしたちの概念や思考は全て、社会的に共有された集合的認識の上に成立していると言える。それゆえ、他者の行為や発話の主観にとっての有意味性というのは、決して空虚なものではなく高い蓋然性において共有されているといえる。それと同時に、そのような有意味性は、自然科学的認識の対象のように単に客体として措定されているのではなく、つねにお互いにとって不確定な相互作用の中で、必ずしも完全には意味を確定できないような形でそのつど開かれたままにある。

さまざまな認識の中で、それを原理的には繰り返し確証できることが実際的にも制度的にも保証されている知識のうちで一部だけが、自然科学的認識としてわたしたちに知られている。少なくとも、ある知識が自然科学的な法則として成立するためには、どのような時にも、あらゆるひとにとって妥当するような形式をもつだけではなく、自然科学者のコミュニティによって承認されているか、または承認されるべき充分な説得力を備えている必要があるだろう。しかし、当然のこととして、わたしたちの日常的な認識の大部分は、必ずしも自然科学的認識としての資格が充分ではないことは明らかだ。もちろん、前述の了解による認識も、わたしたちの集合的認識の一部として社会的に共有可能ではあるが、自然科学的認識に該当しない。なぜなら、ヤスパースもウェーバーも認めるように、了解による認識は、たとえ主観的な明証性をともなうとしても、決して客観的に証明できるとは限らず、認識の内容そのものは客観的な事実としては成立しないか誤っている可能性を常に含んでいる。それにもかかわらず、社会科学や精神病理学がある種の科学として成立しうる根拠は、理念型においてはそのように了解しうるという論理的判断そのものは成立するからであり、また、ある場合にそのような了解が生じたという事実は了解内容の事実性とは別に成立するからでもある。そして、そのようにして理解された事柄は、経験的に検証されることによって、自然科学の場合とは異なったやりかたではあるけれども、科学的認識の対象となることができる。

自然科学的な文脈で素朴に物事を見る習慣が強いと、事実として誤っている可能性のある了解などという方法を用いる必要などないのではないかという疑問が生じるかも知れない。しかし、ひとはそのような、現実との関係においては誤っている可能性を含む、そのときどきの了解によって、自分の社会的判断を導き出し、それによって現実の行動の可否を検討するという事実がある。このことゆえに、この客観的現実としては不確実であるような意味の了解というものを無視すると、人間の社会的行動のほぼ全てが理解不可能になってしまう。そのことは、かつて流行した厳格な行動主義が行き着いた限界が証明しているところでもある。

以上で、ものごとを理解する場合における、主観的なものによる了解と、自然科学的因果関係による説明との区別ということについては理解いただけたと思う。それでは、次の問題として、了解に基づく有意味性の理解の世界と、認知神経心理学的な因果的説明による理解の世界とを、どのように実践的に結びつけて考えることができるだろうか。別の言い方をすると、他者の行為の意味や動機の有意味性に関する主観的な理解に関して、どのように客体化可能な事象についての自然科学と両立可能な理論を成立させることが可能なのだろうか。もしも、そのような理論が成立しうるとしたら、それは自然化された表象理解の理論によって支えられる必要があるだろう(たとえばダン・スペルベルの場合のように)。すなわち、自然化された有意味性の認識論においては、神経機構の作動として説明できる客観的に観察可能な生物存在の世界と、社会的に了解できる有意味な表象の世界は、全く同じ対象の異なった二つの記述法である。このような立場は、非還元主義的な重層的一元論といえるかもしれない。

たとえば、こういうことがイメージできるかも知れない。必ずしも正確な喩えではないが、たとえばあなたがこれを読むのに使っているデバイスのなかには、あなたには読めそうもないデジタル信号が行き交っているにすぎないが、あなたはディスプレイの光点として表示された図形から言語を読み取って意味を理解している。同じように、神経機構の物質的な作動そのものと、その作動によって支えられた意味作用とは、物質的には同一の機能的な働きに対する別の解釈の仕方でしかない。

了解という立場から、したがって社会的に共有された集合的な有意味性の世界である日常生活の立場からみると、神経機構は不可視であって生物としての人間の体のなかに隠蔽されている。だから、他者へ向かう視線が、相手の言葉や表出を知覚することから始まる認識の過程を惹き起こしたとしても、この認知プロセスは相手の神経回路の中の情報処理過程に直接到達することはできない。だから、そこで行き止まりになってしまう。それゆえに、生物体としての人間というスクリーンの上に、観察者の主観的な意味づけを通して社会的有意味性を帯びた「心理過程」という像が投影されることになる。

喩えていえば、電気回路によって作り出された光点が、画面上の”アイコン”や”カーソル”として認識されるのと同じように。これによって、単なる客観性においては神経回路の中の信号であり、また、出力としての視覚的表出や音声にすぎなかったものが、このような社会的に認識可能な外的表象として受け取られることを通じて社会的なコミュニケーションの一部となる。このことは少しも神経回路の作動を離れてはいない。それと同時に、そのことは有意味性にもとづく社会的行為の連鎖の一部となり、それらの行為連鎖は、さらに社会システムというもっと大きな秩序を形成してもいる。このようにして集合的な有意味性を介して社会的に制御された行為を通じて、自然科学的認識の対象としての神経回路は学習し、客観的な測定可能性をもった変化が神経回路の水準で成立する。

臨床的には、問診を通じて、あるいは精神療法を通じて、言語の有意味性を介したコミュニケーションが治療の媒体となるが、そのことは限られた認知資源を持つ行為者同士の相互に不確実なやりとりとして成立している。そのような現実の場面で用いられる了解は、医師にとっては認知神経心理学的知識にもとづく説明的因果的な推論によって補完された了解になっている。とくに神経発達障害における認知神経心理学的徴候は、日常的な有意味性の世界のそのものによっては了解不能なので、障害特性についての因果的推論によって補われなければ充分に理解することができない。このような複眼視的な認知が成立しうる根拠は、上記のような重層的な記述可能性に基づいている。(その意味では、臨床場面に限らず、一般に了解は、説明的因果的な推論によって補完されることで成立しているとも考えることもできる。これらのことについては、いずれ稿を改めて具体的に述べようと思う)

これから未来に向かっていく現代精神医学は、このような自然化された新しい人間観を基礎として、「説明の世界」と「了解の世界」の双方を取扱いながら、それらを統一的に理解することのできる科学として、すなわち、克服されたナチュラリズムと、克服されたヒューマニズムとの統一として、それ自身を新しく生み出していく必要があるだろう。神経発達障害の概念そのものが、そしてその臨床実践が、われわれにそのような前進を要求しているように思われる。

【参考文献】

現代精神医学原論 みすず書房 2009 ナシア・ガミー

精神病理学原論 みすず書房 1971 カール・ヤスパース

公式組織の機能とその派生的問題  新泉社 1992 ニクラス・ルーマン 

表象は感染する―文化への自然主義的アプローチ 新曜社 2001 ダン・スペルベル

理解社会学のカテゴリー 岩波文庫 2002 マックス・ウェーバー

精神医学再考―神経心理学の立場から 医学書院 2011 大東 祥孝

哲学探究 大修館 1976 ウィトゲンシュタイン
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