歴史から考える ”ゆたかさって何だろう”


 ふだん記事を書いてお世話になっているnoteさんで「#ゆたかさって何だろう」というテーマについて考える投稿コンテストを見かけたので、それについてほんの少し書いておこうと思います。

 ふだん私はみなさんの苗字とか、氏族などから、ルーツを探るというお手伝いをさせていただいていますが、日本の歴史において、人々がずっと変わらず願い続けてきたことは、とてもシンプルです。

 それは、端的に言えば

無病息災

五穀豊穣

子孫繁栄

これしかありません。


 奇しくも世界中を襲った新型コロナウイルスの猛威によって、災害や疫病がなく、人々が健やかに暮らせることがこんなに大事で、逆にひとたびそれが崩れると大変なことになるのだ、ということを見せつけられたようです。

 あるいは、平凡で当たり前のように思えるかもしれませんが、作物がゆたかに実り、おなかいっぱい食べられることも、人々の暮らしにとっていかに大事なことかも考えさせられます。

 そして、子供たち孫たちの世代までそれが続くことが、日本人のずっと昔から願ってきた、変わらない祈りであることも、十分わかります。


 とまあ、ここまで読んで「なるほど、大事なことだけれども、けして目新しくもない、ありふれたテーマだなあ」と感じるかもしれません。災害がなく、健康で作物がゆたかであること、家族が幸せであることは、絵に描いたような

「ゆたかさの象徴」

であるからです。

 ところが、この同じテーマ、話を歴史の観点から見ると、どうもそんなに「のほほん」としていられないことが浮かび上がってきます。これから私は、みなさんに恐ろしい話をしてゆきますが、そこから「ゆたかさの正体」について考えてみてほしいと思います。


 「ルーツを調べてください」「この苗字にはどんないわれがありますか?」ということを、みなさんから依頼されて調べ、それを回答するのが私のお仕事ですが、このnoteでもその研究で見つかった成果などをちょこちょこ書かせていただいています。

 ところで、そうした「依頼をしてくる人たち」あるいは、「自分の先祖はどんな人だったのかな」と感じる人たちには、ひとつの共通点があります。

 それは、

あるご先祖さまなり、ある氏族から発祥した直接の子孫である

ということです。

 吉田さんなら、「自分は吉田だけれども、どんな由来があるのか」を気にします。木村さんのことは別にどうでもいい感じです。

 渡辺さんなら、渡辺姓のどんな人物がいたのかが、気になるのです。本田さんのことは、よく知りません。知ったところで無関心です。

人は、他人の先祖がどうだったのかなんて、ほとんど気にしません。かならず、自分の先祖のことにしか興味がないのです。

 それは「自分はどこから来て、どこへゆくのか」という人類の根源的な問いに関わる問題だからでしょう。人生の哲学そのものです。


 さて、自分の先祖にしか興味がなく、そして、無事に「先祖がどういう人たちで、どういう暮らしをしていたか」ということが判明したとしましょう。みなさんそれを聞いて、あるいはそれを知ってたいへんお喜びになります。

 別に先祖がとても偉い人だったからといって喜ぶわけでもなく、逆に先祖が苦労して大変な目に遭っていたことを知っても、子孫は必ず喜びます。

 なぜか。それは、

「あなたが今これを知った、読んだ、聞いたということは、そのご先祖さまから今のあなたまで、誰一人として子供を残すまでは、『戦争や病気や災害や飢饉で死んでいない』ということだから」

です。

 いろいろな喜びや、苦しみを乗り越えて、今のあなたに繋がる歴史があることに気付くからです。


 これはすごいことです。たとえば、あなたの先祖が藤原鎌足だったとしたら、大化の改新の時代から誰一人として

死んでいない

のですね。もし子供を残さずに途中の先祖が死んでいたら、あなたはこれを読むことができず、この世界に存在していないということになるわけで。


 実はこれはすべての人に当てはまる、当然といえば当然のことですが、すごい話です。別に鎌足の子孫でなくても、すべての人が、大化の改新どころか、ピテカントロプスの時代から繋がっているわけで、そうでなければ人類はこの世に存在しないということです。


 その意味で、子孫というのは、すごい存在です。子孫は自分の先祖にしかあまり興味がないと言いましたが、子孫は自分に至る長い悠久の歴史を感じ取る特権を持っているということでもあるわけです。

 これは、逆に言えば、あなたが今生きていることは、過去すべてのご先祖たちから見れば「未来への希望」に他なりません。

 今度はあなたから未来へと想像を働かせてみてください。遠い遠いはるかかなたの未来に、自分を思って、自分が生きていた証を尋ねてくれる若者達がいるんだ、と思うと、それはものすごいことだと感じるに違いありません。


 ではなぜ、この話がなぜ恐ろしいのか。

 こんどは視点を逆にしますね。

 それは、これをつきつめてゆくと、

「人にとっての未来とは、ゆたかさとは、つまり、命が連綿と続いてゆくことなのだ」

ということを意味するからです。

 そして、できるならばその時に私たちは子孫に

「飢えずに、争いに巻き込まれず、疫病に冒されず、末永く続いてほしい」

との願いを込めることになるでしょう。しかし、その時の世の中の情勢では、そう希望どおりにならないことがあるかもしれません。

 戦乱の世も、地震や津波も、病気も、外国との戦争までもがあって、命からがら続いてゆく未来もあるかもしれないからです。

 それでも、どんな事態になっても、命が繋がることは個人にとって唯一の未来への希望となるでしょう。


 ここで、この物語に加われない人たちが出てきます。

 未婚のまま年を取ってしまった人たち、こどもに恵まれなかった人たち、若くして不慮の事故で無くなったり、病気で死んだ人たち。そもそも、妊娠中絶で生まれなかった命・・・。

 数え挙げればキリがありませんが、こうした「未来への命のリレー」がゆたかさの正体であるのならば、そのリンクに繋がることができない人たちが確実に存在するということもまた事実なのです。


 歴史を調べていても、有名無名たくさんのこうした「繋がらない命」に出会います。 あなたの先祖は戦国武将かもしれませんが、一人がなんとか生き延びても、その周囲に何十人もの一族郎党が討ち死にしています。

 もしかすると、あなたの先祖が武士だったなら「誰かの命を奪って、あなたが生き延びた」のかもしれません。あなたは殺人者の子孫だと言うのでしょうか。

 阪神大震災で私の友人は亡くなりましたが、それが彼であって、私でなかったのは、なぜなのでしょう。

 子孫繁栄の未来は、誰にでも等しく訪れるわけではなく、時には残酷なほど不平等です。だからこれに気付いてしまうと、その恐ろしさに身震いすることになるのです。

 私の祖父母は満州にいました。生きて帰ってくることができたからこそ、戦後私の父が生まれたのです。そこにはほんのちょっとの歯車の噛み合わせの違いで

「私が存在しない未来」

が、今の生活と裏表のようにぴったりとくっついているのです。


 さて、今日のお話の最初に、私は、「ゆたかさとは無病息災・五穀豊穣・子孫繁栄」であると書きました。しかし、ここまで読んでいただけたら、その中身が、その意味合いが、すっかり最初とは変わってしまったことにお気づきかと思います。


 自分は健康である。自分はコロナにかからなかった。

 自分はおなか一杯食べられる。仕事がある。

 自分にはこどもたちがいる。孫がいる。


 それがゆたかさである、幸せであるといえば、表面的にはたしかにその通りかもしれませんが、本当のゆたかさとはそんな浅いものではないということです。

 自分が何を得ているかが、ゆたかさの正体ではありません。

 そうではなくて、そこにどんな犠牲や、そうではない歴史や、そうならなかったはずの未来が隠れているかを、かみ締めることができるのがゆたかさなのです。

 そして、もしあなたの周りにあなたが得ているものを「得ていない」人たちや、「持たざる」人たちがいるとしたら、その人たちにどう関わることができるかが本当のゆたかさなのだと思います。

 それは「持たざる者は可哀想だから施しを与えよう」といった、薄い善意でもありません。

 いつ、あなたは持たざる側に回るかもしれません。明日は疫病に倒れることだってあるでしょう。あなたに子供がいても、その子が職を失って自死する未来だってあるのです。

 つまり、ゆたかさは「ただ自分に向いているものではない」ということです。


 「自分はこれだけのものを得ているんだ、持っているんだ」という豊かさは、すぐ裏にそれを全て失う未来が待っています。

 歴史をたどれば、平家物語の「奢れるものは久しからず」ではないですが、ある瞬間は持てる者であっても、次の瞬間には失う者であることが多々あります。

 たいていの戦国武将の本家や当主は戦乱で滅亡し、その庶家である子孫が、みなさんの先祖に繋がっていることが大半です。けして、持てる本家が生き残るわけではありません。


 ところで、豊臣秀吉の子孫はいないのに、なぜ彼は教科書に載ったり、私たちは彼の生涯にロマンを感じるのでしょう。子孫しか先祖に関心を持たないのに、私たちには気になる歴史上の人物がたくさんいます。

 それは、彼らが大きなことであれ、小さなことであれ、日本の社会にとっての未来を切り開こうとしたからです。たとえ滅ぼされても、彼らが熱い思いで何かをやろうとしたことは、伝わっています。

 子孫がつながることも大事なことですが、精一杯何かを目指して生きることも、大事なことです。



 そろそろ、ゆたかさとは何かがわかってきたのではないでしょうか。その答えは、

「私たちが、どんな境遇や状態にあっても、互いに関わりあいながら少しでも未来がよいものであるように希望をつなぐこと」

に他なりません。

 あるいは、

「そのために、自分が生きた証を残そうと何かに心血を注ぐこと」

であったりもするでしょう。それができる環境や境遇があることも、ゆたかさのひとつです。


 この世界は、平家物語のように諸行無常で、いつ何が起きるかわかりません。ですから、持てる物をせいいっぱい溜め込むことが「ゆたかさ」でもありません。

 自分の命や未来、子孫の命や未来をつないでくれるのは、あなたの家系だけの力では無理です。いくら莫大な財産があっても、平家や豊臣家のように滅びた家はたくさんあります。

「未来を、互いに関わり合いながらよりよくしてゆきたい」という願いと希望こそが、ゆたかさを生むのです。


 その歴史の一ページに、あなたもぜひ参加してみてください。


(了)


 


 


 






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