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『無門関』第十五則洞山三頓

無門禅師の本則妙訳

洞山が雲門に参謁した時、雲門は問うた。

「最近お前はどこに居たのか、」

「査渡におりました」と洞山は答えた。

雲門「夏(げ)はどこで修行していたのか、」

洞山「湖南の報慈寺です」

雲門「いつそこを発ってきたのか、」

洞山「8月25日です」

雲門「お前に60棒を与える」

翌日、洞山は再びやって来て師に問うた。

「昨日、和尚に60棒打たれましたが、どこに過があったのか分かりません」

雲門は叫んだ。「この穀つぶしめが!江西湖南を、そのようにしてうろつき回っていたのか!」

ここにおいて洞山は大悟した。
 

解説

公案の文とは実に不思議であるとつくづく思いました。

と言うのは意味が解らないことで正に文字通り禅問答なのですが、実に親切な文書でもあることです。

ある時「あ!そうか」と気づくと、これほど手取り足取り教えてくれていたのだと感謝の気持ちで一杯になります。

その様な矛盾した内容の表現が盛られているのです。

言えることは我々の意識が完全に良い意味でコントロールされていることです。

疑問を持たせて、自ら体得する経験を体験させてくれることです。

『洞山三頓』も我々が身近に感じ考えていることを自覚させてくれるのです。

何時も自問自答している言葉を雲門禅師が問いかけているのです。

それでも気づかないかもしれません。

私も何度読んでも質問の内容が解りませんでした。

公案が貴方に質問しているのです。

洞山は雲門禅師の問いに正直に答えています。

公案では何処、何時と言う時は場所であると同時に心境を問うているのです。

洞山は何故60棒を打たれなければ成らないのか理由がわかりません。

無門禅師は評語で雲門禅師の判断は正しいか、それとも間違っているかとさらに問います。

人生には絶えず理不尽な環境に置かれます。

それを解決するにはこの公案を通る必要があります。

それには心路を窮めて絶することが出来なければ成りません。

そのヒントが無門禅師の頌の最初の書かれている、獅子の子育てにあります。

心路を窮めて絶することとは、一切他者の助けを求めずに解決する決心をすることです。

ここが禅の解決方法の違いです。

ただそれでも無暗に決断を迫ることはありません。

充分にそれに耐ええる心身の成長を確認したうえでのはんだんです。 

虐待では無く、60棒を受けた僧は感謝して御礼を言います。

だから公式の禅師に付く必要があるのは言うまでもありません。


参考引用
『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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