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『三四郎』論2:純粋経験と美禰子の謎

「美禰子の謎」は小説『三四郎』を読み解く上で重要なテーマであります。

美禰子は、はたして三四郎を愛していたのでしょうか。

三四郎をたんに愚弄していたにすぎなかったのでしょうか。

このことについて『三四郎』の文中から明確な言葉は引き出せません。

三四郎は美禰子に、美禰子は三四郎に少なとも好意らしき気持ちを持っていたと解釈しても、なんの不都合もありません。

しかしそれにもかかわらず、本当のことはわからないと言えます。

そのような設定が作者漱石よって綿密に組立られているようです。

それではこの問題は迷宮入りの謎でしょうか、漱石はこの謎にたいして答えを用意しており、『三四郎』の文中に隠されています。

結論を先に言ってしまえば、三四郎にとって美彌子が謎であるのは、むしろ三四郎の態度そのものに問題があることが解ります。

美禰子の謎を解く鍵が三四郎本人に有る事は『三四郎』の第一章において明らかにされています。

それは汽車に乗り合わせた女性と宿を共にした時、三四郎はこの女性に疑問をもちます。

このように三四郎にとって謎とは、美禰子だけでなく、女性だと言えます。

それでは三四郎は何故女性がわからないのか、その原因は「要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。」

「思いきってもう少しいってみるとよかった。」と言うように、謎を解く鍵は三四郎本人の決断と行動にこそあれ、頭の中でいくら推理しても分からないのです。

そうなると三四郎が決断し行動しない限り、われわれ読者には美禰子の謎は解けないのでしょうか、解決の道はあります。

三四郎は美禰子に対して、優柔不断で曖昧で中途半端なものではあっても、何らかの言葉や行動で対応し反応をしています。

それに対して美禰子は鏡の様に正確に、しかも敏感に言葉や行動でもって反応し対応しているのです。

だだ正確で敏感な対応であっても、われわれ読者同様に三四郎にとっても、美禰子の言葉は断片的で禅問答のごとくです。

三四郎はその様な美禰子を終わり近くで次のように見ています。

「禰子を知ってから、美禰子はかつて、長い言葉を使ったことがない。たいていの応対は一句か二句で済ましている。しかもはなはだ簡単なものにすぎない。それでいて、三四郎の耳には一種の深い響を与える。ほとんど他の人からは、聞きうることのできない色が出る。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がった。」


これはまさに催眠状態であり、自由と理性を失った放心状態で有った三四郎の思いです。

催眠誘導技法同様の響きを持って不可思議な威厳効果を与えています。

催眠誘導特有の短い言葉もその効果を強めています。

三四郎に其の事を言わせて、読者に三四郎がその不可思議な魅力に惹かれて、ますます関心を強めて行く心理を解説しています。

催眠誘導の本質を知っている熟練者であれば即座に理解できる言葉であります。

なお誤解のないように付け加えることがあります。

それは漱石のいう暗示とは言葉だけではなく刺激全般を指すのです。

同じ言葉でも森の中でいう言葉と競技場のような闘争心の高い場所では違うということです。

もし理解できないとすれば、おそらく理解出来ない原因は少し性格の違う禅の手法が組み合わせられているからでしょう。

具体的には美禰子は次のような言葉で応答しています。

「空の色が濁りました」

「重いこと。大理石(マーブル)のように見えます」

このような言葉が前後の会話と断絶するように連続して行くのです。

この一見了解不能の言葉の意味は三四郎の言葉に対する対応ではなく、三四郎の態度行動に対するものであります。

三四郎の言葉に対する応答であると解釈すると理解不能におちいる危険性があります。

この点につて「解る解らないは此の言葉の意味よりも、寧ろ此言葉をつかった女の意味である」と三四郎が言うように、言葉の意味に隠された人間の態度全体にたいする応答、言葉であります。

このように漱石は理解できないところはその前後で解説しているのです。

『三四郎』においては表情や態度の裏に隠された動機を問題にしていることであります。

とくに『三四郎』においては表情が重視されており、画家の原口さんによれば心は描くことは出来ない。

したがって「心が外へ見世(みせ)を出しているところを描く」のであり、われわれ読者は逆に描かれた表情から心を推定しなければならないのです。

もちろん表情だけで心を推定することは出来ません。

前後の言葉や態度行動の助けを借りて心を理解すべき事は言うまでもありません。

たとえば次の菊人形見物における美禰子の表情は如何に解釈すべきでしょうか。

美禰子はこの時、心の内を何も言葉で表現していません。

三四郎が知りえた情報は場所と美禰子の表情だけせす。

ここでは場所が重要な要件になります。

『三四郎』では場所、立地的な状況が心の理解に必要不可欠なのです。

「森の女」も謎の一つですが「森」も地理的な場所です。

この場所や立地的な状況はマジックショーの雰囲気を醸し出すステージに相当するのです。

場所は暗示に必要な背景なのです。

次の文から美禰子の表情の意味をあててください。

「美禰子はまだなんとも答えない。黒い目をさもものうそうに三四郎の額の上にすえた。その時三四郎は美禰子の二重瞼(ふたえまぶた)に不可思議なある意味を認めた。その意味のうちには、霊の疲れがある。肉のゆるみがある。苦痛に近き訴えがある。三四郎は、美禰子の答を予期しつつある今の場合を忘れて、この眸(ひとみ)とこの瞼(まぶた)の間にすべてを遺却(いきゃく)した。」


このような文を前後の状況から切断してしまうと意味は理解出来ません。

まさに「不可思議」としか言いようがありません。

その直後に美禰子が「もう出ましょう」と言うと、「三四郎の心には女のために出なければすまない気がきざしてきた。それが頂点に達した頃」とありますが、

ここが最も肝心な所で、「気がきざしてきた。」とは、三四郎の理性や意識の働く以前の全身的な反応の過程をあらわしていのです。

分別や思考、損得の起動される直前の感覚なのです。

脳波がおおきくゆれだした瞬間と思われるのです。

何故見えない脳波がわかるのかとおもわれるでしょう。

それは漱石の人間心理の観察と経験と人類の普遍的基本的欲求からの判断なのです。

なおその普遍的基本的欲求とはなにかとの謎もていねいに『三四郎』に書かれているのです。

「三四郎は、美禰子の答を予期しつつある今の場合を忘れて、この眸(ひとみ)とこの瞼(まぶた)の間にすべてを遺却(いきゃく)した。」と有る様に三四郎は分別や思考、理性、損得を忘れて没我の状態にあることを漱石は明らかにしています。

漱石は此処まで配慮をしているのです。

「気がきざしてきた。」と言う言葉は意識や理性以前の心理状況の解説です。

三四郎は理性以前の心の状態を「気がきざしてきた」と言い、

美禰子が出口に向っているのを知り「三四郎はすぐあとからついて出た。」とは、

美禰子の外に出た理由も、それに釣られて三四郎が出た理由も解ら無いのです。

人が行動するには、動機が存在するとゆうのが現代心理学の常識ですが、

三四郎が外へ出たのは暗示に拠る行動なのです。

合理的な理由の有る動機からの行動では無いのです。

質問による理由はあまり信用できないのです。

正当化したり、合理化して自分に都合の良い理由を作り出すことも有るからです。

それらは真の動機では無く行動の後から合理化された言い訳です。

それでは美禰子の「もう出ましょう」と言う言葉を三四郎は最初は没我の状態でそれに応じます。

言葉の生まれる前の反応です。

その後三四郎はこの表情を美禰子の三四郎にたいする愛情と三四郎は考えて行くのです。

何故なら三四郎は、「ほれられているんだか、ばかにされているんだか、こわがっていいんだか、さげすんでいいんだか、よすべきだか、続けべきだかわけのわからないとらわれ方である。」状態におちいらないからです。

所がこの美禰子の表情の解釈において、三四郎の理解は客観的と言うよりも、主観的なのです。

その後の美禰子自身の言葉によれば「心持が悪」かっただけなのです。気分が好く無かったのです。

だから三四郎の初動は、当然と言えば当然な行動であります。ごく自然な行為です。

無心からの行動だったのです。

美禰子が菊人形見物から外へ出たのは、三四郎を連れ出すことが目的ではなく、気分を開放するためであったのです。

苦痛を軽減するための行動だったのです。

三四郎は美禰子の外へ出た理由を知る前に反射的に後を追ってでたのです。

その後「私心持ちが悪くって……」と言う言葉でその外出の理由を知るのです。

そこで三四郎は美禰子の「苦痛に近き訴へ」をみてどの様な行動をとったのでしょうか、美禰子の期待にそって静かな所へ行くことで助けたことです。

何故でしょうか、それは美禰子の苦痛を知っているのが三四郎一人であったからです。

美禰子は野々宮の方をなんどか振り向いたが、広田先生としきりに話しており、よし子も菊を余念なく見つめていた。

そんな美禰子の苦痛を知っていたのが三四郎一人であったとゆう状況、場面がなかったら、けっして三四郎は一人で美禰子を助けはしなかったでしょう。

広田先生や、よし子、野々宮さんらは美禰子と三四郎の少し前を歩いており三四郎だけが美禰子の様子の尋常でないことを知っていたのです。

近くにいればおそらく広田先生や、よし子、野々宮に相談したでありましょう。

それは三四郎が美禰子に関心を少なからず持っていたためではあるが、美禰子が特別に三四郎に関心を持っていたとは考えられません。

ましてや三四郎にとっさの判断で美禰子と二人だけになるために、そんな状況を利用したとも考えられません。

三四郎自身「あゝ云えば好かった。斯うすれば好かったと」あとになって気付く性格だと言うことからも明らかであります。

三四郎が美禰子を助けたのは、三四郎個人の性格からくるものではなく、人間一般に共通する心理であるとともに、状況がそのように出来ていたからです。

立地的な場所と無関係ではないのです。

三四郎と美禰子に無関係であるはずの外部環境が三四郎の心を動かし方向ずけるのです。

理性や思考の起動する前に心を動かすのです、理性はその後に発動されるのです。

その状況と言うのが三四郎一人が美彌子の苦痛を知っていたからです。

多くの人が気づいていたら、人は誰かが助けるだろうと言う実例が、その直前に取り上げられていることを見逃すわけにゆきません。

その実例とは人通りの多い所にいた物乞であり、迷子です。

この二人と今の美禰子に共通するのが「可哀想」と言うことです。

「可哀想」と言う感情を感じさせています。

広田先生は物乞が山の上の淋しい所で一人で哀願していればお金をやる気になるだろうと言う。

人混みの状況ではおのずから結果は反対になるでしょう。

迷子を可哀想と思っても、誰も交番まで連れて行かないのは、やはり状況がすさせるので、「矢張り場所が悪いんだ」と野々宮が言うように、もし迷子を人通りのないところで見つけたなら、誰も見て知らない振りをしないであろう。

おそらく三四郎も美禰子の「苦痛に近き訴へ」を見て「可哀想」に思ったのでしょう。

だから三四郎の行動は何の分別も魂胆もなかったのです。

純粋な親切心からであったのです。


「純粋経験」

純粋な親切心は西田哲学のいう「純粋経験」なのですね。

「主客未分」の状態なのです。

三四郎の最初の行為には三四郎の自我も美禰子という対象も存在しないのです。

理性という主客二元論以前の知覚の刹那の感覚を漱石は「気が萌してきた」と表現しているのです。

「純粋経験」には善もなければ悪も無い意識状態なのです。

「純粋経験」これを即非とも否定の否定ともいう。

善を否定して否定された悪をも否定すれば無になりますそれを「純粋経験」という。


それでは具体的にみていきましょう。

三四郎の最初の行為は咄嗟の行動で、理性が働くと思考は有らぬ方向へ走りだすのです。

野々宮君は迷子を見て、「いまに巡査が始末をつけるにきまっている」と言い、

よし子は「わたしのそばまで来れば交番まで送ってやるわ」と言う。

「じゃ、追っかけて行って、連れて行くがいい」と兄が言うと。

当初の感情とは打って代わり「男は二人で笑った」と言うように「可哀想」とは正反対の方向に考えは変わって行くのです。

思考が働きだすと「可哀想」と言う感情とは逆の感情である笑いに推移して行く事もあるのです。

「みんな責任をのがれるんだね」と広田先生が説明したように一対一の関係ではなく一対多数になり責任は拡散されてしまうからです。

ところで、この「可哀想」と言う感情も思考が働きだすと、男女においては恋愛そのものに変わって行く事もあるのです。

これも漱石が説明しています。

広田先生の引越しにおいて、オルノーコと言う小説の翻訳で「かあいそうだたほれたってことよ」と広田先生は言っております。

またそのように状況が三四郎の恋愛感情をはぐくむに適したものでありました。

三四郎の確信を確実なものに思わせる環境、自然の雰囲気が醸成されてきたのです。

美禰子は静かな所を求めて、人通りの少ない場所にきたら急に話しだし、「二重瞼にはっきりと張りが」でてきたのです。

また三四郎が休もうと言えば肯定し、歩こうと言えば歩き、万事は三四郎の期待通りに進行しているかに見えました。

それでは三四郎の親切な態度、好意を美禰子はどのように受け止めていたのでしょうか。

三四郎の予想、ほぼ確実に手に入れた確信、三四郎の親切な態度、好意を美禰子は素直に受け止めてくれるとゆう願いに。

美禰子は「空の色が濁りました」と言います。

三四郎はこの言葉の意味の解釈に戸惑います。

三四郎は流れから目を放して、上を見た。

「こういう空の模様を見たのははじめてではない。」

「けれども空が濁ったという言葉を聞いたのはこの時がはじめてである」と理解に苦しみます。

この比喩は三四郎の恋心を止めることにあったのです。

美禰子は三四郎の心の変化を察知していたのです。

三四郎の美禰子にたいする態度に純粋さが無くなって来たからです。

最初「苦痛に近き訴へ」を知り「可哀想」に思い美禰子を助けたのであったが、三四郎の心がいつしか恋愛感情に変わってきたから、「空の色が濁りました」と指摘するのです。

美禰子にとって静かな人通りの少ない所え来て気分が良くなったら、もうそれ以上歩く必要はないのです。

しかるに三四郎はなおも美禰子に「もう少し歩けませんか」と促すから、三四郎の美禰子に対する気持ちに変化が起こったことを知ったのでしょう。

何故なら気分が良くなった現在それ以上歩く必要はないのです。

それ以上歩くことは最初の目的以外の目的で歩くことを意味するのです。

美禰子にとってそれ以上歩くことは危険性があると予見したから止まったのです。

「女は此赤いものが、唐辛子であると見分けのつく処迄来て留まった」と表現されているように、唐辛子とは綺麗であるが辛いものでもある。

同じように恋愛とはゆめに満ちたものであると同時に、一時の感情で恋愛に走ることは危険でもあった。

しかも三四郎の態度はそれだけではなかったのです。

三四郎の態度には美禰子に親切したことで、恩に着せようとしているから「思い事。大理石の様に見えます」と言う。

それに対して三四郎は言葉に対しては言葉でもって対応する。

美禰子の言った意味が分からないから、オオムの様に「大理石の様に見えます」と答えるが、

美禰子にとっては大理石の様に重くても、三四郎にとってわ、重くはないから「かういう空の下にゐると、心が重くなるが気は軽くなる」と言う。

ようするに純粋な親切心からでた行為なら美禰子は三四郎に対し重荷を感じなかったでありましょう。

この三四郎の態度には親切以外のものが含まれており、形勢の逆転がその親切に賭けられていたのです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。



引用には差別言語がありますが、原文にしたがいました。何とどご理解の程お願いします。


引用参照は青空文庫です

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