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『坊っちゃん』論4:ラカンの鏡像を不二の関係で切る

ラカンの鏡像とは虚像であると同時に絶対者でなければならない。

この絶対者を捨てるところに矛盾があり疎外がはじまる。

乳児は絶対者を望みながら失望に終わるのです。

この矛盾に人間は苦しまなければならないのです。

自己同一でありながら自己疎外でもあるのです。

自己像を求めながら拒絶するという矛盾に遭遇するするのです。

同一視する対象を愛しながら嫌うことになります。

真の自己を発見するとは、これらの矛盾を解消することです。

そこで不二の関係を理解することです。

『坊っちゃん』では「正義」と「乱暴」は一つだと自覚することになります。

ラカンはこの矛盾をエディプスコンプレックスで解こうとします。

ここにアキレス腱があります。

むじゅんを解消できないからです。

精神分析者が失敗に陥る所がやはりここにあるのです。

理解者であると同時に絶対者であらねばならないのです。

クライエントは絶対者を求めているのです。


ラカンの「鏡像段階」理論とは、生まれて6か月ばかりの赤ちゃんが鏡をみて自己を発見するというものです。

もちろん鏡を見ない赤ちゃんもいるわけですから、それは象徴的な絶対者を意味しているのです。

言葉に実態は存在しないのです。

それはそのように説明することによってイメージできるからであります。

「鏡像段階」理論が一般に知られていないからなのです。

ラカンは心の構造を図表でもって説明をするのはその一環なのです。

大人では他者の評価がその役割を担うことになります。

他者は他者の都合で評価は矛盾した評価をになるのです。

解決策は他者の評価に拘らないことなのです。

ところがこの拘らないことが難しいのです。

何故なら学習したことは消えないからです。

そこで漱石の手法を学ぶことです。

それはとても奇抜な方法なのです。

自ら実践すると同時に門下生といわれる森田草平が指導され証言しているのです。

『坊っちゃん』という作品は以外というか当然というか戦いや愚痴の場面がおおいことです。

愚痴は聞いてても不愉快なものですが、しかし愚痴っぽいところがないのです。

むしろ痛快であり愉快でもあるのです。

『坊っちゃん』は四国の松山での教師の体験を基に書かれたと言われています。

清と離れて松山で生活する様になると、途端に抗戦的になっていきます。

これは古い性格傾向で危機に遭遇するや「無鉄砲」や「亂暴者」と言った性格傾向が頭をもたげて来るのです。

性格傾向はそう簡単には消えて無くなる事はないのです。

しかも、その手法は複雑化して「正直」を盾にとり、攻撃の大義名分が「正直」と言う正義でもって戦うのです。

ところが相手はその正義を使わさないように仕向けてくるのです。

「正直」と言う正義を使わなければ、問題はそれ程苦境に陥ることは無かったでありましょう。

ところがあくまでも正義か悪で勝敗を付けようとするから、苦悩は深く重くなって行くのです。

別の表現をすれば、「正直」と言う正義にあまりにも拘泥すると、正義であれ正直であれ長所と言えどもあまりにも拘泥すると、悪になり短所になるのです。

短所でも拘泥しないと、気持ちがいいと言う。

なぜなら「正義」でもなく「悪」でもないから不二の関係にあるのです。

「長所」でもなく「短所」でもないからなのです。

この漱石の考えは明治三十九年十月二十一日付の森田草平宛の書簡(岩波書店の漱石全集第六刷)で次の様に書いています。

「君のいつもよこす手紙は何だかどこかに愚痴っぽい所があっが今度のはサラサラしたものだ。甚だ我意を得てゐる。愚痴を並べても愚痴に拘泥してゐない。(中略)是れが甚だ愉快だ。凡て愚痴でも何でも拘泥した奴は厭味だね。いくらスキのない服装でも本人が夫に拘泥してゐると厭味が出る。凝った身装をしてそうして凝った所を忘れてゐるのいゝぢゃないか。」
この事は何事も拘泥すると善でも悪になり「正直」でも拘泥しすぎると「厭味」になり、偽善的になるのでしょう。

『坊っちゃん』には少しの厭味もなく、なんの拘泥もなく、正に純粋そのものです。

しかし坊っちゃんの置かれた立場からして「バッタ事件」のような嫌がらせを受けるとすれば、坊っちゃんが何かに拘泥していた可能性があります。

森田草平が先の手紙にあるように拘泥から抜け出したのは、漱石の日常の小まめな指導が有ったからではないか。

その指導方法と言うのは森田草平の長所や得意とする自慢すべき創作作法を否定すると言うものです。

対抗心からではなく、純粋な親切心からなのです。

勘違わないで下さい森田草平の得意とする技法を抑制しているのです。

それを裏付ける手紙があります。

「君は文章に骨を折る。しかし其の骨折はレトリックに骨を折るのである。レトリックは無論必要であるが、白粉の如きものである。」

このように本人が努力し工夫している所を指摘して否定するのです。

そのような漱石の態度に注目していたのが、同じ門下生と言われる生田長江である。

彼が森田草平に語った話は(『夏目漱石』森田草平著講談社学術文庫)にあります。

「先生という人は弟子の欠点を見て、それを匡正してやろうという方面に、主として頭脳の働く人のように思われるね。が、僕の考えでは、若い者というものはその欠点を是正しようとかかっても、決して是正されるものではない。それよりもおだてるにかぎる。おだてるというと語弊があるが、どんな人間にもどこか長所はあるから、その長所を見てそれを奨励してやるんだね。誰だって褒められればうれしいから、いよいよその長所を発揮するようになる。こうして長所が助長されていけば、短所は自然とその陰に隠れて、しまいには消滅するものだよ」

夏目漱石と生田長江の考えの違いはあきらかです。

生田長江は誤解しているのです。

漱石は森田草平の欠点を決して是正しようとはしていないのです。

むしろ長所を是正しようとしているのです。

人は事実を誤解するものなのです。

真実とは逆に解釈することです。

そこに矛盾が生じるのです。

漱石が長所と認めるところを生田長江は短所と解釈しているのです。

ここに言葉による認識に誤りが生じるのです。

ここでいう絶対者とは「長所」と「短所」を同時に見ることのできる人なのです。

漱石は他者の評価に左右されないという意味において絶対者なのです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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