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龍神考(24) ー春日信仰の自然観ー

「龍神考(23)」のあらましと補足


 前回「龍神考(23) ー人魚のミイラと猿女と龍女ー」は長くなりましたので、論考のあらましを箇条書きで列記しておきます:
1)春日の日巫女(ひみこ)の春の日の出や朝陽と雷の祭祀→春日信仰の原風景

2)春日氏を含む和邇(わに)氏→古事記の「和邇」は日本書紀では「龍」

3)「和邇氏=龍氏」→春日氏の日巫女→太陽を祀る龍女や海人(海女)の系譜

4)太陽神の玄孫を産む和邇(海神の娘)=豊玉毘賣(とよたまひめ)→海女の神格化

5)海神の宮の「美智皮(みちのかわ)」と「絁(きぬ)」の畳→魚皮と絹布の併用

6)海人は魚皮製衣服を着た可能性→青海波(せいがいは)紋の采女装束の由来

7)龍女の系譜の采女(うねめ)と天宇受賣(あめのうずめ)命の言霊の近さ

8)天宇受賣→天岩戸開きの太陽神出現と春の天孫(太陽神の御孫)降臨に貢献

9)天宇受賣=雷神猿田彦の名(顔と祭祀)を継ぐ猿女君(さるめのきみ)の祖

10)天宇受賣は采女≒龍女=春日の日巫女≒比売神との近縁性

11)青海波の采女→魚皮衣の海女→豊玉毘賣→青衣(しょうえ)の女人→人魚

12)体感的な時間経過が緩慢な海中の人魚→陸上の人類には不老不死の象徴

13)庚申待ち(猿田彦神縁日)に人魚を食べた不老不死の八百比丘尼(やおびくに)

14)人魚のミイラ→上半身は猿の胸と顔(猿面)、下半身は魚

15)人魚→猿面(さるめん)+魚皮衣の龍女→猿女(さるめ)君の祖=天宇受賣≒采女

16)木々を飛び移る猿→蛇行する申(稲妻)→蛇行した格好で飛ぶ蛇→雷龍

17)天孫降臨案内の猿田彦神→申(雷)→天孫降臨準備の武甕槌(たけみかづち)命

18)稲魂(≒天孫)は春に降臨し秋に昇天→天孫降臨案内した猿田彦神の水死は秋?

19)秋分初候「雷乃収声」の猿田彦水死→仲秋名月(秋分前後)の采女入水→采女祭

20)采女装束の青海波→扇形の波・魚鱗→采女祭で沈める花扇→扇は猿田彦の持物

 以上、20項目になりましたが、12)〜14)について補足すべき点があります:
12)不老不死や不老長寿若さの維持→人魚・八百比丘尼と遠敷明神(豊玉毘賣)の里「若狭」の地名や豊玉毘賣を祀る「若宮神社」(福岡県新宮町相島、福岡市中央区警固など)に目立つ「若」

13)雷神猿田彦神の猿=申(雷)の動きの速さ八百比丘尼の体感的時間経過の遅さという時間感覚の対照性

14)ミイラ→死者の外形を長年月に亘って保存→若年死の場合は「永遠の若さ」不老不死を連想→輸出品の人魚=「ミイラ」の信仰思想的背景/八百比丘尼の入定(最期)→石窟での断食行による即身仏=ミイラ化を暗示→人魚の肉を食べた肉食による不老不死断食のミイラ化による不老不死という不老不死の原因の対照性

 天孫降臨前の国作りを共同で進められた大国主(おおくにぬし)命と少彦名(すくなひこな)命、以前言及した水神の高龗(たかおかみ)神と闇龗(くらおかみ)神、節分祭に登場する赤鬼と青鬼など、対照的な神格がセットになり、そのことで両者の特徴が強調されることは、信仰思想の中ではよくあります。

 13)のように対照的な神格が対照的な働きをして対照的な結果をもたらす場合もあれば、14)のように対照的な働きが本質的に同一の結果に導く場合もあります。
 そしてこの13)と14)の二つの対照的な展開も、人魚と八百比丘尼の伝説でセットになっているのです。

 さて、これまで雷神を祀る龍女、雷神猿田彦神の名(面と祭祀)を担う天宇受賣、上半身が猿で下半身が魚の人魚、庚申待ちの日に人魚を食べて不老不死となった女=八百比丘尼を中心に考察してきましたが、それを踏まえて今回は再び雷神繋がりの猿田彦神と武甕槌命についてさらに考えてみましょう。


春日大社の御由緒にみえる季節感


 天孫邇邇芸命に降臨の道筋を雷光で示された雷神猿田彦神が祀られていた春日の御蓋山に、白鹿に乗った雷神武甕槌命が神護景雲二年(768)戊申1月9日に鹿島から来臨され、同年11月9日に創建の社殿(春日大社大宮第一殿)に遷座されたことは、季節的には次のように整理できます:

①雷神武甕槌命降臨→1月9日(新2月1日)甲寅→猿田彦神の季節が始まる立春の直前直後の庚申(猿田彦神の縁日)=1月15日(新2月7日)*庚申の望月(満月かほぼ満月)

②旧2月(新2月下旬〜4月上旬)申の日の春日祭=申祭→「申」=雷神=猿田彦神(天孫降臨の道案内)と武甕槌命(天孫降臨の地ならし=出雲国譲り)

天孫(太陽神の御孫、稲魂)邇邇芸命が春に降臨→「春の日」*春分=春季皇霊祭

「春の日」を蛇行する雷光で案内された猿田彦神→「春雷」(立春〜立夏の雷)*穀雨〜立夏=フジの花(藤原氏の「藤」、春日大社の社紋)

⑤稲作時期の終わり=秋に稲魂は昇天*秋分=秋季皇霊祭

⑥天宇受賣により海に送られた雷神猿田彦神の水死秋分初候「雷乃収声」

⑦采女(春日の日巫女、龍女の系譜)が仲秋の名月(秋分前後の満月かほぼ満月)に猿沢池に入水→猿沢池に鎮められる采女祭の花扇=采女と猿田彦神の水死を暗示

⑧51代平城天皇御製「猿沢の池もつらしな吾妹子が玉藻かづかば水も干なまし」→「水も干なまし」=秋分末候「水始涸」(田畑の水を干す)、稲の収穫直前の暗示

⑨大宮遷座→11月9日(新12月22日)己卯→稲の収穫後の出雲の大国主命の神在月(新10月下旬〜12月上旬)の後の冬至=一陽来復(出雲国譲り)直後の甲申=11月14日(新12月28日)*甲申の小望月(ほぼ満月)

神護景雲二年(768)戊申の武甕槌命の御蓋山降臨=庚申の望月の直前、采女祭=仲秋の名月、武甕槌命の大宮遷座=甲申の小望月の直前春日宮曼荼羅に描かれる満月申(地主神猿田彦)と采女の望月・小望月の暗示

 このように、春日大社の雷神武甕槌命の①御蓋山降臨は地主神=摂社榎本神社(雷神猿田彦神)の季節である立春(特に庚申の望月)の直前、⑨大宮遷座は摂社水谷神社の御祭神の一柱、大己貴命(大国主命の別名)が鎮まる出雲国における神在月の後。
 つまり、猿田彦神と大国主命の神威が高揚する季節を挟む形になっていることが見えてきます。

 それは、武甕槌命の奉祀は猿田彦神と大国主命という摂社の神々を強く意識したことを暗示しているとも言うことができるでしょう。

 大国主命は天孫に国譲りをされた国土の神。
 その譲られた国土に天孫を導かれた猿田彦神は春雷の神。

 大国主命の天孫への国譲りは冬至の一陽来復、猿田彦神の天孫(稲魂)降臨案内は春分に関係するとも考えられます。

 二十四節気を三分した「七十二候」をウィキペディアで調べると、春分の2番目の春分次候と3番目の春分末候はどちらも雷に関係してきます:

・春分次候
ー日本「桜始開」(さくらはじめてひらく)=桜の開花
ー中国「雷乃発生」(かみなりすなわちこえをはっす)=遠雷が聞こえだす

・春分末候
ー日本「雷乃発生」(らいすなわちこえをはっす)=遠雷が聞こえだす
ー中国「始雷」(はじめていなびかりす)=雷光が光り始める

 地理、風土の違いで日本と中国の捉え方に差はありますが、春分は春雷が目立つ季節であることに変わりはないです。
 こういう春が始まる立春の直前に雷神武甕槌命は春日の御蓋山に御降臨。
 他方、大宮に遷座されたのは大国主命が国譲りをされた冬至(一陽来復)。

 春日大社の御由緒にはこのような季節感が反映されていることが見えてきます。


猿田彦神と大国主命とのつながり


 それでは猿田彦神と大国主命との間に何か繋がりがあるのでしょうか?

 ふと思い浮かんだのが、何度か参拝したことのある滋賀県大津市の比叡山の麓の日吉大社や東京都千代田区の日枝神社などで、猿=神使とされていることです。
・日吉大社:東本宮=大山咋(おおやまくい)神、西本宮=大己貴(おおなむち)命
・日枝神社:大山咋神



 大己貴命は大国主命の別名で、大国主命が一緒に国作りをされていた少彦名神が行方不明になり、落胆されていた時に現れた大物主(おおものぬし)神は、大国主命の和魂(にぎみたま)や別名ともされています。


 以前、春日大社の信仰には同じく奈良の三輪山の信仰が関係している可能性を示唆しましたが、それは春日大社参詣時に耳にしたたことです。

 それは、大宮を囲む回廊の西側の西回廊に三つの門があり、北から順に並ぶ内侍(ないし)門、清浄門、慶賀門が、三輪山の大神神社(大物主命)の拝殿のその奥の禁足地との間に立つ、三つの鳥居が一列に連なる三ツ鳥居(みつとりい)に由来するのではないかという説もある、という話でした。



 大国主命の国作りに協力して飛び回っておられた少彦名神は、その神号からして子供を連想させますが、国作りの最中に飛び乗った粟の穂に弾かれて飛んでいき、行方不明になられます。
 これは一瞬のうちに飛び去る雷や蛇に似ています。

 少彦名神に関係してくる子供、雷、蛇というキーワードは、21代雄略天皇の御代の豪族、少子部栖軽(ちいさこべのすがる)の名前や故事に重なります。

 この豪族をウィキペディアで調べると、次の点が注目されます:
・蚕(こ)を集めよとの雄略天皇の命令を誤解して児(こ)を集めてしまい、その児らを養育せねばならなくなり、それを契機に少子部連の姓を賜る
・雄略天皇の命令で捉えた三輪山の大蛇は雷のような音を立て、大蛇を放った山の名は「雷(いかづち)」と名付けた
・雄略天皇の命令で栖軽が雷を捉え、後に栖軽自身の墓標も立てられた今の奈良県明日香村の場所=「雷丘(いかづちのおか)」

 以上の3点が、春日大社において大己貴命(大国主命の別名)ほかを祀る水谷神社が摂社とされ、その西回廊の三つの門に三輪山の大神神社(大物主神=大国主命の和魂)の三ツ鳥居由来説があり、大国主命から天孫への国譲りを実現された武甕槌命の春日大社大宮御遷座が出雲の神在月が終わった後の冬至であったこと、の背景として浮き上がってくるのです。

雨上がりに「云」が立ち昇る奈良県桜井市の大神神社の神体山である三輪山(2023年6月12日午前)


武甕槌命〜猿田彦神〜サルの重層性


 この少彦名神と少子部栖軽の属性である「子供や小さい人」、「蛇」、「雷」はニホンザルについても当てはまるのではないでしょうか?
体格が人間の子供程度で、人間に似た行動をとるニホンザル
木々を俊敏に縦横に飛び移るニホンザル木々を蛇行した格好で飛び移るヘビ
・一瞬で蛇行して走り「去る」雷光を示す「申」を「猿」と同じく「さる」と読む日本の言霊感覚


 しかし、猿田彦神〜サル〜雷〜ヘビの関係が濃厚であればあるほど、次の可能性に思い至ります。

 すなわち、雷神猿田彦神を地主神とする春日の御蓋山に降臨された雷神武甕槌命にも、サルとの共通性があるのではないでしょうか?

 または武甕槌命への信仰にサルを意識した何かがあるのではないでしょうか?

 武甕槌命は現在の茨城県鹿島市に御鎮座の鹿島神宮から白鹿に乗って出発され、各地を巡り、奈良の春日の御蓋山に降臨されました。


若草山山頂で出会った牡鹿とその奥に望む御蓋山(2015年9月26日午後)



 そのご様子を示す「鹿島立神影図(かしまだちしんえいず)」が古くから描かれてきました。このキーワードで検索するといろいろ画像が出てきますが、下のリンクを開くと、奈良市公式サイトの中の文化財コーナーに掲載された「絹本著色鹿島立神影図」を見ることができます。



 茶色の胴体に白の斑が入る通常のシカと対照的に、恐らく茶色の斑の入った白い牡鹿に騎乗された衣冠姿の武甕槌命と榊と鏡が中央に、その下に随行者の中臣時風(ときふう)・秀行(ひでつら)、上に御蓋山と背後の春日山、その奥から昇る満月が配置されています。


 春日大社の第六十次式年造替の関連行事にはよく通い、春日大社だけでなく奈良国立博物館でもさまざまな鹿島立神影図を拝む機会に恵まれました。

 平成28年(2016)11月6日には御造替が済んだ御本社に御祭神がお戻りになる本殿遷座祭(正遷宮)が無事執り行なわれましたが、この年はちょうど申年でした。

 大変興味深いことに、その翌々月の2017年1月に鹿児島県の屋久島でシカに乗るサルの姿が目撃されています。



 また、大阪府箕面市では2014年からサルがシカに乗る光景が目撃されるようになっていたそうですが、次の南都銀行提供の地域ポータルサイト『ええ古都なら』の「春日大社 第六十次 式年造替を知ろう」によると、式年造替の関連行事は平成26年(2014)9月以降の御本殿特別参拝(新順路)「非公開御蓋山遥拝所と後殿特別参拝」から始まっていました。



 つまり春日大社の式年造替関連行事が始まった2014年に、箕面市でシカに乗るサルが目撃され出したのです。そして式年造替が終わった2ヶ月後には、屋久島でも同様の姿が認められたのです。


 もう私が言いたいことはお察しだと思いますが、神鹿にお乗りの雷神武甕槌命というイメージは、地主神の猿田彦神のイメージに反映されている野生のニホンザルがシカに乗るという、自然界で実際に起き得る現実が念頭に置かれていたのではないでしょうか?

 以前お話ししたように、どこかに新たに神々を勧請する場合、従前の信仰思想を受け継ぐような形で神々が勧請され、その新しい神々にまつわる伝承などが御由緒に付加されていきます。

 春日大社の雷神武甕槌命も、地主神の雷神猿田彦神に通じる野生のニホンザルがシカに乗る自然界の現実を踏襲して、神鹿に乗って御蓋山に降臨されたという信仰思想が生まれたのではないかと思います。

 この仮説の傍証となる情報は、サルがシカに乗る行動に「性行為」との関係が推察され、サルの発情・交尾の時期は10月〜2月であることです。

 つまりちょうどこの時期、サルがシカに乗ることがあり得る季節に、武甕槌命は神鹿に乗って御蓋山に降臨、大宮に遷座されていることになるのです。

 そうすると、春日大社の式年造替記念行事の中で、鹿島立神影図の中の武甕槌命のご尊顔を紙垂で隠して拝礼する機会がありましたが、その意味するところが少し見えてくるような気がします(上記『ええ古都なら』「春日大社 第六十次 式年造替を知ろう」の中の「20年に1度の御神宝特別拝観」参照)。


 熊手と猿面という縁起物は、四つ脚で走るものの、前脚というよりは「両手」を器用に使って果物などを食べるクマの現実の姿から「熊手」が生まれ、同じく四つ脚で走るものの、前脚というよりは「両手」を器用に使って餌を食べ、毛づくろいをし、クマ以上に人間に近い手を持つサルについては「猿手」ではなく「猿面」が生まれたのは、器用な「両手」以上に無毛(あるいは毛が薄い)顔=面が最も特徴的とされたからではないかと考えました(「龍神考(19) ー熊手と水神ー」参照)。



 武甕槌命のご尊顔を敢えて隠して拝礼するのは、尊い神様のお顔を直接拝するのは失礼に当たるという敬神の念だけでなく、そのお顔の奥、つまり武甕槌命が二重写しに被さっているその奥に、地主神の猿田彦神のサルのようなお顔が想像されることを暗示する、春日大社創建の歴史的経緯や春日信仰の原風景を念頭に置いたしきたりではないでしょうか?

 しかも武甕槌命のお顔を隠すのが紙垂という、雷を念頭に作られた神具であり、雷は「申」であり、「申」は「猿」です。

 すなわち春日大社での鹿島立神影図拝礼の方向性は以下のようになります:
参拝者→紙垂(雷=申=猿)→神鹿の上の雷神武甕槌命のご尊顔→地主の雷神猿田彦のご尊顔→人間のように無毛(または毛が薄い)だが真っ赤なニホンザルの顔

 尤も鹿島立神影図の奥に猿田彦神の神影図やニホンザルの絵図があるというのではなく、武甕槌命の神影図の奥は、春日信仰の原風景についての純粋に想念だけのことです。

 こうしてみると、春日信仰が自然の現実と従前の信仰を背景にした非常に重層的で奥の深いものであることが次第にわかってきます。

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