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投稿再開にあたり

 かなり久しぶりの投稿になりました。今年の3月12日「洗脳の土壌づくり」以来です。これまでの投稿はわずか2回。最初は2月11日「みょうがの旅人」でした。
 繰り返しになりますが、noteへの投稿を始めた目的は文明地政学協会(東京)の会員誌『世界戦略情報 みち』(以下、『みち』)に連載していただいている拙稿「みょうがの旅」(テーマは日本の信仰思想)を整理するためでした。
 ところが直後の2月下旬にロシア・ウクライナ紛争(以下、露宇紛争)が勃発。ロシア在住経験があり、ロシア語の翻訳・通訳を生業としている私は、『みち』でこの紛争について論じる責任感を覚え、情報の収集と分析に追われる毎日が始まりました。これは自分の今の仕事への影響や展望を予測する上でも必要なことでした。そのため「みょうがの旅」の整理をするという余裕は消え失せました。
 ロシア在住時代は政治学・社会学系の大学院に通い、翻訳・通訳は政治、軍事の分野が多かったのですが、完全帰国後はイベント関係の仕事が中心になり、ロシア政治への関心も薄れていました。
 今年に入ってからはさすがにキナ臭いものを感じていましたが、それでも戦争に発展はしないだろうと油断していました。自己擁護に聞こえるかもしれませんが、国際政治、ロシア政治、軍事に詳しい専門家(学者、ジャーナリスト、自衛隊OBなど)ほど、プーチン露政権が本当にウクライナ領での軍事行動に出るとは思っていなかったのも事実です。それは当時のネット動画などをご覧いただければ分かると思います。
 そういうことで、ロシアとウクライナについて改めて調べ直す作業を始めましたが、情勢の展開があまりに速く、ネット上のさまざまな発信者たちの情報と見解を追っていくことで精一杯でした。
 マスコミやネットの情報は日々急変する軍事行動の展開を伝えるものがほとんどですが、『みち』の発行は月2回で文明地政学協会の会員誌という性格上、拙稿の内容は露宇紛争の歴史的、地政学的、そして現在進行形の国際関係上の意味の考察が中心でした。
 この過程で痛感したのは、元々遅筆の私は時々刻々と変転する動きを逐一追って伝達するジャーナリストのような仕事は不向きというか無理だということでした。
 冒頭のように3月12日に2回目の投稿をして露宇紛争に伴う情報戦とそれを可能にする社会的地盤づくりについて触れてみましたが続きませんでした。やはり当時はイベント関連の仕事に見通しが気掛かりでしたので、文字通り洪水のように溢れる情報の収集・分析に注力し、投稿は控えることにしようと割り切りました。
 最近の露宇紛争は軍事行動という面では拡大しつつあるようにも見えますが、私は収束の方向に既に向かいつつあるのではないかと感じています(今後も紆余曲折はあるでしょうが)。このことについてはまた改めて投稿するかもしれません。
 
 今回は投稿を再開しようと思った経緯や動機をお話ししています。露宇紛争について自分なりに見方が落ち着いてきたことの他に、投稿再開を強く促した出来事がありました。
 それは9月26日にジャーナリストの佐野眞一氏(75歳)が亡くなったことです。同氏の著書『旅する巨人 ー宮本常一と渋沢敬三』(文藝春秋刊)は、日本の信仰思想について探求する旅を続けていた私に大きな影響を与えた名著でした。

「日本資本主義の父」とも呼ばれた実業家渋沢栄一の孫で終戦前後に日本銀行総裁と大蔵大臣を務めた渋沢敬三(1896〜1963)に学問的異能を認められた民俗学者の宮本常一(1907〜1981)は、渋沢の支援を受けながら全国各地を歩いて回り、日本民俗学に偉大な足跡を残した人物です。
 宮本自身の著作がこれまた素晴らしい!文体は平易ながら要点は鮮明に伝わる。学術的内容ながら素人の私もつい引き込まれてしまい、小説を読んだような読後感を味わうことさえあります。あのような文章は著述の対象を真摯に愛し、熟知していなければ書けないものだと思います。私自身もいつかこのような研究発表ができたらな…、などと思いながら、各地の社寺をなるべく歩いて回ってきました。今回から「です・ます調」にしたのも、宮本の文体を改めて思い出したからです。

 宮本自身は貧しく、家族にも赤貧の生活を余儀なくさせながらも、渋沢の支援を受けて偉業を成し遂げました。「常識論」からすると「学問より妻子を食わせるのが先だろ、非常識者め!」と非難されることでしょうが、その「非常識」を敢えて行なった貧しい宮本と「非常識」を支援したいわば上流階級の渋沢。「社会常識」からすれば「天と地の違い」にある二人を引き寄せた力は何だったのでしょう。
 渋沢が宮本を支援した動機は、宮本の才能が埋もれたままになるのを惜しんだことの他に、渋沢自身が本当はやりたかったのに社会的立場上許されなかった民俗学研究を宮本に託そうとしたからだったようです。
『旅する巨人』を読んだのはかなり前のことで記憶が曖昧ですが、渋沢は宮本を支援することで、自分も一緒に研究している感覚を味わっていたようにも思います。
 また印象深く思われるのは、宮本が調査して回った村々とその生活様式は、渋沢の祖父も大貢献した資本主義化の波によって消えかかろうとしていたものであったことです。しかも、渋沢が本当は自分でやりたかった民俗学研究を断念したのは、まさに祖父の懇願によって実業家の道を歩まざるを得なくなったからでした。
 渋沢栄一が大貢献した資本主義化の大波に呑まれていきつつあった日本の民俗、その民俗の研究を孫の敬三は祖父の懇願でしたくてもできない、しかし運命的な出会いをした宮本という貧しくも異能の持ち主に夢を託し、その「非常識」な人生を「非常識」に支援し続けたことで、祖父の偉業の余波で消えゆく民俗をギリギリのところで記録に収める別の偉業が成し遂げられた、と言えるでしょう。

 佐野氏が亡くなったのはカルト宗教を巡る議論がますます加熱していった時期でした。このことにも、神社やお寺を巡りつつ日本の伝統信仰について探求してきたことを今こそ形にしなくては!という気にさせられた次第です。

 しかしそれからどういうテーマでどういう順序に投稿していくかなど改めて準備をしているとあっという間に三ヶ月ほど経ってしまいました。
 しかも今日は冬至で旧暦霜月の晦日。いろいろな思いが募り、それこそ「陰気」が極まった状態の私ですが、この投稿を「一陽来復」の転機とすべく、早速次回の投稿のテーマをお知らせしておきましょう。
 それは「博多総鎮守の太陽信仰」。福岡に生まれ育ち、中年になってまた福岡に帰ってきた者ですから、地元を見つめ直すことから始めたいと思います。
 どうぞよろしくお願い申し上げます。
 
 

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