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スウィンギン・キャラバン

 『男はつらいよ お帰り寅さん』は移人称の映画である。物語のラスト、主人公の満男(吉岡秀隆)が書いた小説を媒介にして、一気に彼のなかでフラッシュバックする記憶は、劇中には登場しない寅さんとマドンナたちだけのもので、話法としてはかなりアヴァンギャルドなのだが、観客のシリーズへの長年の想いがのりしろとなって全く違和感を与えない。高圧縮の『ザッツ・エンタテインメント』は山田洋次なりのサーヴィスで、かつ歴史の総ざらいでもあった。

 そして、デイミアン・チャゼルの『バビロン』もまた同様の趣向を取り入れている(主人公二人の関係性は愚兄賢妹ならぬ賢兄愚妹といった風で、そうした点においても寅さん的である)。夢なかばにハリウッドを退いて久しいマニー(ディエゴ・カルバ)が満員の観客とともに見つめるスクリーンは、「雨に唄えば」の調べを合図に映画史に溶け込んでゆき、フラッシュバックならぬフラッシュフォワードの体で古今東西の名画のコラージュが展開される。このときに「見る者」としての主体は、マニーから「私たち」へとスムーズに移行している。「お帰り寅さん」と同じく、両者を取り結ぶのは、今を生きる観客全ての記憶なのだ。「大きな歴史の一部になりたい」というマニーの願いが結実した瞬間は永遠にも等しく、世界の中心から「私(つまり彼)」がいなくなったとしてもその事実に変わりはない。マニーを映画界に引き入れたジャック(ブラッド・ピット)はトーキーへの転換期を境にしてスターの座から凋落し、のちに自ら命を絶ってしまったが、大衆娯楽としての映画の力を信じていた彼ならば、いつかきっとマニーと同じように永遠の命をスクリーンに見出だすことが出来たはずだ。ジャックと懇意にしていたジャーナリストが落ち目の彼に引導を渡すシーンは、あの幸福なモンタージュの伏線である。事実、2023年に『バビロン』を見た私(たち)にとって、雨傘をステッキがわりにして歌い踊るジーン・ケリーと、レインコートを羽織っておどけてみせるジャックは「大きな歴史」のなかの偉大な住人で、それはマニーにも同じだろう。再生機器としての観客の数だけ得られる新しい命。そうした生のサイクルはやがて、VHS、DVDといった記録媒体の開発や各種配信サーヴィスの充実にともなって多様化、重層化していくこととなる。かつて激昂したジャックが舞台女優の妻に浴びせた罵言は、図らずも複製芸術である映画の属性を喝破したもので、単なる数の論理ではない。結果的に変容した観客(作家等も含む)の歴史感覚は、その縦軸の目盛りの粗さをしばしば批判され、他でもない『バビロン』の不評が典型的だ。同じ二次創作でも『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は歓迎されたことを思うと気の毒でならない。お姫様然としたシャロン・テートよりもフラッパーを演じたマーゴット・ロビーの方が魅力的なだけに尚更だ。もちろん、優しさに溢れるタランティーノの歴史改変作業は尊くはある。彼によって上書きされたシックスティーズのアイコンの姿は、慎ましやかな喜びを知るひとりの女の子であって、マンソン・ファミリーのみならずポランスキーの長い影とも無縁の日向の花に見える。ただし、それは「ワンハリ」という額縁の中においてのみ映えるもので、良くも悪くもではあるが、観客すらもタランティーノが見せたかったイメージの範疇に留まるしかないように思えた。対して『バビロン』のラストで流れるジャイヴ・ミュージックは、映画史を大づかみに統べようとする葬送曲であり、行進曲でもある。誰をも置いていかず、時と共にどんどんと膨れ上がるカーニバルの群れの中には、熱中症で亡くなったカメラマンの顔も見える。そして、その先頭は、日の暮れかかった禿山を一列に登ってゆくあの撮影クルーに他ならない。待ち時間にすっかり出来上がってしまったジャックの背中を支えながら、ゆっくりと一歩ずつ山頂を目指すスタッフたちのシルエットを遠景でとらえたショットは、労働のさわやかさと、他者性を獲得したチャゼルの成長の程を表現するかのようで、きわめて美しいのであった。

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