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ときめきに死なず

 わたしの部屋は絵にならない。その時々の経済状態に応じてテキトーに買った収納にCDや本・マンガ、服を突っ込んでって今がある。雨宮さんの本のタイトルにならえば「自信のない部屋」です。

 POPEYEなんかで取り上げられるシティボーイズ&ガールズのていねいな暮らしを具現化したような日当たり良好の部屋はもちろん、それとは対照的な、佐々木敦の事務所や草森紳一の終の住み処だって、なんだかんだでカオティックで映えるじゃないですか。雑誌に載んないような妥協の産物に巣くう億劫がりと友達になりたい。

 そんなわたしなので、内澤さんの整理術を参考にしようと、書店で『捨てる女』を手に取った。近々親戚から大きな本棚をゆずり受ける予定もあるしで、部屋を早急にどうにかしないと。ってわけでもないけれど、一晩でぜんぶ読んでしまった。やっぱり内澤さんの本は面白いなー。でも、断捨離の参考には全くと言っていいほどならなかった。

 内澤さんはモノを整理するにあたり、それまでの生活スタイルも一気に捨ててゆく。これはちょっと真似できない。というか豚を飼って、じぶんで食べるまで育ててみようと千葉の廃屋に移り住むだなんて凄い。『世界屠畜紀行』の著者ならではの実践編だ。難度はケタ違いだろうけど、伊集院さんがラジオのトーク用に、プライベートの時間をわざわざ費やして、コンセプチュアルな遊びにハマってみるという姿勢に近いような気もした。内澤さんの好奇心はもっとナチュラルだけど。

 その時々で、病気だったり離婚だったりの、一般的にもなじみのある要因も関係して、内澤さんは引越しを繰り返す。新しい住環境を考慮しつつ、イチからレイアウトを整える必要に迫られれば、とは思えども、実家住まいだしなあ。いつか、大谷能生が村上春樹評のなかで、コレクターは住み処を変えたがらないと書いていて耳が痛かった。ハヤカワの青背をコンプリートせねば、というような収集癖はわたしにはないけれど、CDの所有枚数は明らかに万単位(DVD、本・マンガはそんなでもない)だから似たようなものだ。

 しかし、生活スタイルの刷新には躊躇のない内澤さんも、モノ自体にはそれなりの思いを持っている。

〈捨てまくりたくてたまらん心境の先にあるものが、幸福だとは、まるで思えない。さっぱりはするだろうけど、そのさっぱりってそんなに偉いものか?〉

 ひととモノとの関係性は、対人のそれとおなじで、じつはかけがえのないものだ。わたしの父は長く要職に就いていたせいか(まあ、元々の性格もあると思う)、他者をコントロールしたがるヘキがあり「おまえの部屋、異常じゃないか?」などと言って、部屋のレイアウトにケチをつけてきたりするんだけど、そうした客観性やシステマティックな断捨離のルールはわたしには受け入れ難いもので、だからこそ、持たない生活への疑念がまずあっての内澤さんの逡巡が一層心に沁みた。

 猪子寿之がブレイクした頃だったか「ネットがあるから、個人で知識を蓄える必要はなくなった」というようなことを言っていて、それと同様のセリフは物書きやクリエイターもよく口にするのだが、概して偽悪的でムカつく。

〈こやつらを買うのに、その何倍もの古書と出会い触れ合い、本がオブジェとしてどうあるべきなのかを考えながら、世界各地の古書店や骨董屋でこまかく眺め倒し、買うかどうかを真剣に検討してきたのである。エッセンスは十分自分の中に沈殿している。自分なりの「眼」はできたと思っている。何にも役に立てずに、頭の奥底に眠っているだけでも、いい。無形財産みたいなもの。無駄とは思わない。そもそも人生なんて無駄の積み重ねだから、いいのよ、それで〉

 あらゆる芸術は、じぶんの手垢にまみれて初めて価値を持つものだということを、内澤さんから改めて教わった。「自分なりの眼」や「頭の奥底に眠る無形財産のようなもの」が新しく出会う作品とのあいだにケミストリーを生む。作家の知らないところで、いつだって魂の交換はおこなわれている。そういえば、爆笑問題の太田さんは、NHKの番組で美大生を相手に「物事への反射の仕方こそが、その人の個性だ」と熱弁していた。だからこそ、モノとの別れにもエネルギーを消費し、大きなロスを招いたりする。

 なんか感想を書いてるうちに視界に入るモノたちの尊みが増してきたような(部屋で打っています)。でも、それは、あくまでわたしにとってのみなんだ。

〈ウチザワ、みたよ、あの古本。すごいんだけどさ、おまえさ……、その、なんだ、一体何がやりたかったわけよ?〉

 編集者のみならず、あの平野甲賀までが。思わず笑ってしまった。

 

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