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夜がまた来る

 『ラストナイト・イン・ソーホー』を観ながら『ソーホータラレバ娘』という邦題が頭に浮かんだので、感想文のタイトルもそれにしようかと思ったのだけれど、意味や語呂はともかくとして、映画のテイストとかけ離れ過ぎているし、何より日本人である私にとって、夜の闇に巣くう男たちの悪徳は、九〇年代の石井隆の諸作品を通じて馴染み深いものでもあるから、結局は『夜がまた来る』に落ち着いた。

 「もしも私がブロンドのパリピだったら」「スウィンギング・ロンドンの時代に生まれていれば」。晴れてロンドンの服飾学校に合格したレトロ・カルチャー系女子のエロイーズは、上京してもナイト・ルーティンはしっかりと守り、子守唄としてのレコードがその役割を全うすると、目の前には憧れの世界が広がっていた。ダウンタウンへようこそ。ソーホーのナイトクラブ「カフェ・ド・パリ」で男たちの視線を集める金髪の少女S、つまりサンディは、昼間に寮生たちからアナクロ趣味を嗤われた私ではないが私でもあるオルター・エゴだ。

 ジョージ・ロイ・ヒルの『スローターハウス5』は、パラレルに走る無数の時間軸の上を生きる無数の私同士が、痙攣的かつ暴力的に接続される物語で、あくまで私見ではだが、タイムスリップものではない。『ラストナイト・イン・ソーホー』も同じ系譜に属する。ただ、この映画がユニークなのは、シックスティーズの住人であるサンディが、宮崎駿の『風立ちぬ』におけるカプローニさながらの、内なるメンターとしての役割をも果たしている点だ。直接会話こそ交わさない(というか交わせない)ものの、なりたかった自分の振る舞いが二十一世紀のエロイーズを大胆に変える。おかあさんのおさがりによく似合う赤毛を金に染めることで個性がひとつ死に、男好きのする記号をまとってしまうのだが、彼女にその自覚はない。紳士は金髪がお好き。売り手市場のナイトクラブでは「いつか王子様が」の夢を見る暇も必要もない。朝目覚めてもなお首に残るキスマークがコンサバなクラスメイトの注目を集める皮肉。夢だけど夢じゃなかった。ネオンサインがきらびやかな夜の街で、私の手を引いてくれるジャックはソーホーの顔役で、リーゼントがきまっており、たくましく張り出した顎に、彫りの深い目元はチェット・ベイカーを思わせる。ドラッグ・ディーラーに歯を折られ、最期にはアムステルダムのホテルの窓から転落死した彼の評伝のタイトルは『終わりなき闇』、原題は“Deep in a Dream”。タフなアメリカのグッド・オールド・デイズを体現するかのようなルックスとは裏腹の血生臭さに満ちており、デヴィッド・リンチの世界と地続きにある。カフェ・ド・パリのバーカウンター席を埋める好色そうな老人たちの喉笛が真一文字に切り裂かれ、血を噴く姿が見えてきそうだ。都市生活において、地獄と紙一重の享楽をむさぼるにあたり、男性の加害性はあらわになり、女性はひたすら喰いものにされる。ジャックらに自慢の歌唱力を認められたサンディは、やがてランジェリー・ドレスをまとい、交換可能なビッチのダンサーのひとりとして、媚態を振り撒くことになるだろう。ランウェイに列をつくり、音楽に合わせてはTバックのヒップを突き出すサンディの姿にエロイーズは目をそむける。「こんなはずじゃなかった」という思いが舞台と客席を結ぶ。激しい幻滅に駆られた彼女は席を立つのだが、夜の闇に手招きされるようにして、バックステージへと吸い込まれてゆく。楽屋のドアは全て開け放たれ、街の有力者はフリーパスなのだろう。フェラチオも3Pも思うがままで、オーヴァードーズで壊れたくないのであれば、自分を無にするしかない。男どもをカオナシのジョン・ドゥに仕立てることで、精神的作業は一応の完成に至る。『持続可能な魂の利用』で、概念上の「おじさん」が消えた世界を描いた松田青子とエドガー・ライトが共鳴する。小説には、明らかに平手友梨奈をモデルにしたと思われるアイドルが登場し、主人公に希望を与える。〈彼女たちを操っている男たちを殺せるんじゃないか、このダンスでいつか本当に殺すんじゃないか、と信じられるほどの気迫〉は欅坂のドキュメンタリー『僕たちの嘘と真実』を観ればわかる。あたかもビートルズが存在しないかのようなシックスティーズを生きるサンディの孤独。マッシュルーム・カットの男の子はどこへ。ポマードで頭を撫で付けたおじさんが踏むステップはビル・へイリーの時代の名残で、遠くアメリカでは、ブリティッシュ・インヴェイジョンの真っ最中だ。ヒーローはどこにもいない。にぎわう暗闇にこぼれた涙をエロイーズがぬぐうまでに、半世紀もの時が過ぎた。言うまでもなく、少女Sは自殺したエロイーズの母親でもあり、ジャカルタにもピョンヤンにもハバナにも偏在する。

 親離れのためのイニシエーションを完遂し、デザインの才能を開花させ、大人になったエロイーズを祝福するかのようにして、サンディが鏡の中にあらわれる。彼女のウィンクは、終わりなき闇の暗示でもあるだろう。夜がまた来る。ダウンタウンへようこそ。レコードはループし続ける。世界中のあらゆる街で。

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