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短編小説 「楽園の白いトラ」

隣の女性が泣いている。

朝からの雨のせいで、車窓は灰色に濡れそぼり、電車がガタゴト揺れるたびに、湿気のこもった空気が匂い立った。彼女のスカートの膝に、ぽた、と落ちた染みが雨粒でないことに水崎ミズサキが気づいたのは発車後すぐだった。

会社からのメール通知がひっきりなしに鳴り、そのたびに返信をしなくてはならなかったので、すぐにハンカチを差し出すことが彼にはどうしてもできなかった。

十五分後、ようやく込み入った内容の問い合わせに対応し終え、そっと様子をうかがってみると、彼女はまるで野生の植物が雨風に耐え忍んでいるみたいに、静かに肩を震わせていた。

頭の中にさまざまな疑問が浮かんでは消えていった。一体何があったのだろう。会社でミスをしたとか、金銭トラブルとか。あるいは、失恋とか。

使ってください、と促すのは押しつけがましい気がしたので、他の誰にもさとられないよう注意深く、「大丈夫ですか」とハンカチを差し出した。ためらいがちにハンカチを受け取った彼女の目が、一瞬ふわりと優しく潤んだ。

彼女が降りた駅で、水崎も降りた。

初めはホームで見送るだけのつもりだった。そのうちに改札を無事に出たか心配になり、やがて目的地にたどり着くまで見届けたくなってしまった。

(おい、これは尾行というやつだぜ)

彼はそう自分に語りかけ、心のもやを流し去るべく深呼吸を一つした。呼吸が整うのを待ち、鳴り続ける会社用スマートフォンの電源をオフにする。やめるなら今だとわかっているのに、少々の非日常を求める気持ちが勝る。

絹糸の雨の降る、秋の静かな夜だった。

駅から続くなだらかな坂を下っていく彼女の後ろ姿は、夜の雨に溶けこむようにぼんやりとかすみ、傘を濡らす雨音は、どこか優しく響いた。初めて歩く街だ。車のヘッドライトが、まるで彼を先へ誘うかのように、ゆっくりと流れていく。

迷路のような道を進み、つる草に縁どられた壁の前で彼女は立ち止まった。やわらかい灯りのこぼれるその建物へ彼女が入って行くのを見て、自分も扉を押すかどうか水崎は迷った。

<白いトラの楽園>

壁のプレートには、そう彫られている。

(店の名前だろうか)

しばらく店の前に佇んでいると、窓ぎわの席でサンドイッチを食べ始める彼女が見えた。それで、彼はそこが軽食堂なのだとようやく解った。

初めてこの店に入った人は、まるで別世界への入口のような雰囲気に、思わずちょっとまごつく。

深いくつろぎと慰めのためには、森がなくてはならない、とその店の主人は考えていた。だから彼は、草や木の鉢をたくさん並べたり吊るしたりして、その食堂を、森のように作った。

店内を素早く見わたしていると、気立のいい主人が「どうぞ、こちらの席へ」と水崎に笑いかけた。やわらかい色合いの緑たちが心地よく彼を迎える。案内されたカウンターへ移動する耳元で、まるでようこそと囁くように、尖った葉先がサワサワと揺れた。

どの席も安全で居心地よく設計されているのだろう、羊歯シダ植物のかげに並んですわっている老夫婦は居眠りをしていた。

窓ぎわの高い椅子にすわってイヤホンで音楽を聴いている彼女は、もういくらかリラックスして、こちらに気づきそうになかった。

彼女とおなじサンドイッチを求めようと、水崎はメニュー表を開いた。サンドイッチは一種類しかない。

<絶望のサンドイッチ>と、ある。

「絶望……?」

絶望とは、あの絶望だろうか。思わず小さくつぶやいたら、

「世界中を旅していたんだ」

初めて見る形の樹木から顔を半分だけ覗かせ、店の主人が答えた。

「イタリアには<絶望のスパゲティー>があってね。絶望している時でもおいしく食べられるからそんな名前になったらしいよ」

どことなく異国風の雰囲気を持つ主人は、笑うと目尻にクシャッと皺が寄る。明るく親切な人だということはわかるのだけど、話がよくわからない。つまり、絶望している時でもおいしく食べられるサンドイッチ、ということか。

いつのまにかその<絶望のサンドイッチ>を注文したことになってしまった。

差し出されるままに、サンドイッチを口に運ぶ。肉と野菜がすっきりした香草のソースでまとめられ、噛むとシャキシャキと小気味よい音がした。まるで森の霧がいっぺんに晴れたような、これまで食べたことのない味わいに、すっかり水崎はとりこになってしまった。
 
食べると心が癒されるような奥深さを、それは確かに孕んでいた。

カウンターの端で、顔に傷のある十歳くらいの少年が黙々と食事をしていた。ふと目線が合った時、彼は水崎に血走った目を向けた。透明な涙のあとが、なにごとかを物語っていた。

そういえば、入口のアーチの下、ハマナスの花のかげに貼り紙があった。

「こどもたちへ。おなかがすいたらいつでもはいっておいで。おかねがなくてもきにしないで 店主 テシマ」

と、かろうじて読めた。秘密の冒険めいたメッセージを探すのが好きな子どもたちのために、わざとそんな場所に貼ってあるのかもしれない。

なんというか、不思議な店だ。

「まあ、のんびりやりなよ」

店の主人はそう言い残して、カウンターの奥に戻っていった。

食事を終え、代金を払おうと立ち上がると、あの女性がいなくなっていることに気づいた。いつのまに? と少し混乱したけれど、もう彼女に固執する気持ちは消えていた。ひとりで夜の闇を駅に向かって歩き始めた時には、雨は上がっていた。

水崎はスイッチメーカーのお客様相談を請け負う小さな会社に所属していた。

電源が入らない、モードが切り替わらない、音が聞こえない、中断してしまう、勝手に作動する……。毎日、山のように寄せられる苦情や質問を一つ一つ調査して答えるのが彼の仕事だ。

複雑に絡み合った物事を解きほぐして説明すること。彼はどうやらそれが得意だと周囲に思われていて、そのため難しい案件はいつも彼に回されてきた。

仕事は朝の九時から夜の九時まで。あるいは、もっと深夜に及ぶこともざらにあった。

これまで何度も、もうだめだ、と服を着替えることもできずベッドに倒れ込むように眠ってきたが、ついに限界を迎える夜がきた。
 
そのまま彼は一週間立ち上がれなかった。八日目に、青い顔色と痩けた頬でようやく出社した時、自分のデスクからあたりを見回してみると、同僚たちの態度がぎこちなくよそよそしいものに変わっているのがわかった。

カタカタとキーボードを打つ音が静かに響く。彼の目に、部屋の片隅でさびしげに佇んでいる観葉植物が映った。うっすらと埃のつもった葉になにげなく触れてみると、それはうつろな彼の心と同じようにかさかさに乾いていた。

翌日、彼がシュレッダーの袋を抱えて地下フロアへ行くと、昨日見たあの観葉植物が処分場に並べられていた。導かれるように、彼はそれに手を伸ばした。

彼はそれを家に持ち帰り、ちいさな部屋のいちばん日当たりの良い場所に置いた。風通しを良くし、霧吹きで水分を与えた。久しぶりにiTunesを開き、再生すると、たっぷり湿り気をおびた枝葉が、曲に合わせて小さくふるえたように見えた。

たとえば、さあさあと降る夕立の匂い。小鳥たちのさえずり。エメラルド色の滝。そして、くっきりとした光の虹。

そんな熱帯雨林を空想しながら、きっと自分には、世界のどこかにある理想郷に思いを馳せる時間が必要なのだと、そう思うことにした。季節が深まり、音もなく冷えていく夜の中、小さな植物のくれる慈しみが頼りだった。

それから彼は休職した。数週間か、数ヶ月か、あるいはもっと長く続くのか、彼自身にもわからなかった。植物と暮らし始めてから、なぜだかこうなることを予感していたようにも思う。

いつか、自分のための時間ができたら何をしようと、幾度となく考えてきた。けれど———。

(何も、浮かばない)

部屋をぐるりと見回すと、本やDVDが雑然と積まれた棚が目に留まった。そこにはかつての恋人が残していったものがまだ並んでいた。目を背けていたそれらに、今こそ方を付ける時かもしれない。危ういバランスで重ねられた本に手をかけた時、本の間から一枚の紙がはらりと舞い落ちた。

ごく控えめな、けれど何か崇高な力が働いたような気がして、彼は神妙な顔でそれを拾い上げた。

いつだったか恋人と路地裏のミニシアターへ行った時のチラシ。その真ん中に居座る主演女優を見つけた時、見えない波線はせんが空気を揺らした。

その女優は、いつか電車の中で泣いていたあの女性だった。

それから、十年間———。

結果的に、その女優は売れた。数多のスキャンダルの中には、飲酒運転による事件や、自殺未遂騒ぎもあったが、数年の沈黙を経て、華々しくカムバックを果たすことに成功した。

その間、そうしようと思えば出来なくもなかったが、水崎がもとの職場に戻ることはなかった。植物の手入れをし、じっくり時間をかけて煮込んだスープを食べ、清潔なベッドで眠る。そういう生活を愛しく思えるようになって、「壊れたスイッチはもう切り替わらない」という、ごくシンプルなことを受け入れられるようになったのだ。

軽食堂、<白いトラの楽園>には、あれから数年後、一度だけ訪れた。ようやく転職先が決まった安堵からだろうか、気がつけば足が向いていた。

「やあ、またサンドイッチ食べに来てくれたの?」

驚くべきことに、店の主人は水崎を覚えていた。水崎はあの女優のことをさり気なく話題に出し、彼女がここの常連客だったのか知ろうとした。しかし主人は気さくな笑みを浮かべて、さぁ俺にはわからないな、と肩をすくめるだけだった。

十一年目の秋口、その偶然は起こった。

ふと付けたテレビのインタビュー番組に、あの女優が出ていた。もはやスターの名がすっかりふさわしい彼女には、ミニシアター上映の作品にひっそり出演していた頃の面影はなかった。
 
彼女の何が衆目を惹きつけるのか、なんとなく水崎は理解した。容姿の美しさでも演技力でもなく、摩耗を知らないこの強い生命力だ。そして、画面の中の彼女とまっすぐ目が合った気がした。

彼女は語り続けた。

「……上京して、頑張っていたんだけど。プツンと糸が切れてしまったんだと思う。ある雨の日。電車の中で、泣いてしまったんです。自分が人前で泣けるなんて知らなかった。たまたま、電車で隣り合わせにすわっていた男の人がハンカチを貸してくれて……。
それで私、救われたの。
あの日のことがなければ、今の私はいないと思う。
誰だか知らないけど、ありがとう」
 
司会者が「なんだか映画みたいな話ですねえ」と茶化すようにわりこみ、番組はコマーシャルに切り替わった。

それが作り話ではないと、もちろん水崎は知っていた。

不思議な気持ちだった。ふいに記憶があの夜にまっすぐつながり、枝分かれしていた別の時間がふいにここへ流れ込むような感覚をおぼえた。
 
その週末、彼は<白いトラの楽園>を訪れた。それ以外にやるべきことなど何もない、そう思えるほどの強い引力が、彼を動かしていた。

ひやりとした透明な秋の空気を、胸一杯に感じられる日だった。

森のように作られたその店は、十年の時が経ち、森のように朽ち始めていた。つる草の重みに外壁はいくらか剥がれ落ち、老いた木々の中には空洞がひろがっている。草花はもうほとんど残っておらず、残っているものは、色つやを失ってしなだれていた。

自然が変化するのと同様、その店も確実に終末へうつろっていた。もしかしたら店の主人は、元からそのように設計していたのかもしれない。

カウンターは乾いてひずみ、メニュー看板はヒビ割れている。けれど、あたたかく優しい食事の匂いは、前とちっとも変わらず、しっとりと彼を包んでいた。

「おかえりなさい」

コトリと目の前にサンドイッチの皿が置かれた。声をかけられた方に視線をやり、その青年の顔の傷あとを見て思い出した。あの子だ。十年間前、ちょうどこの席にすわっていた少年。

頼んでもいないのにサンドイッチを注文したことになっている。そのことが水崎には懐かしく、そして少し愉快でもあった。

「あの……店の主人は?」

おそるおそる訊くと、青年は銀食器を磨く手を止めた。

「去年、楽園に入って行きました」

(楽園……?)

サンドイッチをかじると、懐かしい味が口の中にあふれた。ずっと行方不明だったもう一人の自分に会えたような、あるいはずっと携えていたのに、そうとは気づかなかった宝物を見つけたような、そんな気がした。

「これを預かっています」

青年は水崎に何かを差し出した。

ハンカチだった。

鉢植えの観葉植物が、風もないのに揺れている。

まるで誰も知らない楽園の風を感じとり、心地よくスイングするようなそれを見ていると、胸の奥から湧き上がってくる切実なものがあった。

十年間、心の一番奥でゆっくりレバーを引き続けてきたスイッチが、ぱちんと音を立てて切り替わった。なぜだか彼は子どものように、声をあげて泣きたくなった。

朝四時。濃い緑一色の、ジャングルを縫う一本の線路。人は何を目的にそこを行くのだろう、と考えずにいられないような道を、夜行列車は進んでいった。

それは、いまから何十年も昔、その夜行列車が廃線になる前のことだ。

南へ。

手島テシマは、死のうと思ったのだ。お金がなかった。ポケットに残っていたなけなしのお金を切符で使い果たしてしまったから。

今はない彼のレストランが脳裏にちらつく。そして、空き店舗になった場所に掲げられた「テナント募集」の看板。

家族ではない保証人をなんとか見つけ、商機を感じて始めた店だった。それを、潰してしまった。最後には罵倒と、責任の擦り合いがあった。味方になってくれる人は、もうどこにもいない。

街で少しばかりあおったトディ(密造酒)のせいで、感覚がひどく鈍っている。どこでもないどこかの駅で下車した彼は、生ぬるいタイルに腰を下ろした。濃厚な森林と人々の生活が混ざり合った、あやふやな匂いがあたりに満ちている。

夜明け前だ。

手島は壁に背を寄せて眠りこんでいた。むき出しの肩に、どこからか現れた青い蛾がとまり、彼の汗を吸った。

トディがもたらした夢なのか、空間が大きくゆらめいたような気配に続き、何かの生き物の息がふっと鼻先にかかるのを彼は感じた。

それはしばらく、タイルの上をひたひたと歩きまわっていた。重たい頭を上げ、ようやく薄目で捉えた視界に、ぼんやりとその姿が映る。

大きな獣だ。それも、真っ白の。

トラだ。

働かない頭では、何を考えても無駄だ。

(もう、どうなってもいい)
 
そう諦めた瞬間だった。

「楽園に入るには、まだ早い」

と、天の声が聞こえてきたのは———。

驚いて飛び起きると、壁面に描かれたトラの絵が、凛々しく朝陽をあびていた。地元の人々に神の化身として崇められている、楽園に棲む白いトラ。

彼はそれを吸い込まれるように見つめた。時間が止まってしまったみたいだった。貫禄のついたその目には、形容しがたい不思議さが宿っていた。いくつもの過去を束ね、いくつもの未来を見通しているような。

やがて駅の売り子が近寄ってくるまで、彼はぼうっとそこに佇んでいた。

「ハロー」

人なつこそうなお兄さんだ。自分がたった今体験したことは何だったのだろう。この辺りにトラは出るのか訊いてみると、「普通は出ないよ」と、屈託のない笑顔が返ってきた。

「けど、そうとも限らないかな。空間的には、ここも森林とつながっているからね。もし出会ったなら幸運だよ。明け方に遭遇するトラは、日の昇る明日をプレゼントしてくれるんだ。……ところで、朝食は食べた?」

お兄さんは、列車の利用客にサンドイッチを売っていた。

「お金がないんだ」

答えると、サンドイッチの入った紙袋が一つ、ぽんと飛んできた。

「お返しは、世界にしてくれたら、それでいい。あなたが一つ良いことをしたら、それは巡り巡って、世界のどこかで誰かを救うよ」

名前も知らない人からの優しさに、彼は、無性に泣きたくなった。そして同時に、空腹を感じた。かぶりついたサンドイッチは、これ以上なく美味しかった。パンは甘く、肉は強く、野菜はみずみずしい。今まで食べたどんなものよりも甘美な、慰めとくつろぎに満ちた味がした。

レストランを経営していたのに、「たべる」ことの崇高さを、これまでその半分も解っていなかった、と手島は悟った。

だから、もし、次に店を持つことができるのなら。

楽園の森につながっていくような、草木や花にあふれた場所で、絶望している時でもおいしく食べられる食事を提供しよう、と思ったのだ。

(でも、どうやって?)

彼は天を仰いだ。

朝陽が街をゆすり起こし、木々の緑の色が冴える。

「まあ、のんびりやりなよ」

お兄さんの声を通して、トラの声を聞いたような気がした。




<おわり>

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』10月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「たべる」。おいしい食べものでいっぱいの、読むとお腹が空いてくるような小説が並んでいます。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。

#文活



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