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春を泳ぐように/Splendid.

何の予定もないお昼すぎ、コートを羽織って散歩に出ると、梅やさざんかの花びらがそわそわとひるがえっていた。

やわらかな日差しをたっぷりと吸収して、何となくうれしそうなピンク色の花たち。気の早い神さまが水を含んだブラシで、気の向くまま春のしずくをぽたぽた落としていったみたいだった。花びらは濃いピンクから薄いピンクまで、じっと目を凝らしてみると同じものはひとつとしてない。

あー、とか、あぐー、という言葉を発する赤ちゃんを抱っこして、これが春だよ、これとこれもね、と教えながら歩く。春の色からは、春の匂いがすることも。それらが心を跳ねさせる理由は、新しい物事が始まるからだと思うけど確信はない。自然の末端に出来上がった人間だから、私の中にもちいさな春の宴の記憶があって、それが私を呼んでいるのかもしれない。

生まれたてのきみは、どう思う? と頬をつつくと、ちいさな口から垂れたよだれが、甘く光った。

いつも黒と白で迷っていた私は、めずらしく中間色のカーディガンを持って試着室に入った。春先になじむ色あいと、体が泳ぐようなゆったりしたサイジングがとても気に入った。グレーのような薄紫のようなそれは、疲れた私の顔をすこし明るく見せてくれる。

3月がくればまた一つ年をかさねる。一年ごとに大人になって、似合う色も変わっていくねと、鏡の中の自分に笑いかけた。

「誰だって赤ちゃんの時分は、存在するだけで皆を笑顔にすることが出来たんです。誰のことも喜ばせられない人なんておりません。生まれなければ良かった存在なんて、この世に一つもないんです」

去年の秋、祖父の一回忌で、お坊さんがそう話してくれた。

口をふさぐ泥から立ち上がるような10代を過ごした私は、その場で涙がこぼれそうになった。生まれなくてもよかったなと、いつもぼんやり考えている時期もあった。その場には親族が20人あまり居たと思うけれど、お坊さんと私だけふたりきりの空間に浮かんでいるような気がした。

分かってもいない春の摂理を分かったように、道ばたの花を数える。私、大人になっちゃったな、と思うのもつかの間、赤ちゃんは全部知って生まれてきたと言わんばかりに、澄み切った光を目に湛えてふにゃりと微笑む。

生まれた時は泣くことも笑うことも挑戦だった。今は何とも言えない感情と向き合う。春を数える私も人を喜ばせられる存在なのだと、お坊さんと赤ちゃんに教えられたような気もしている。一つ分かって大人になって、でも全然分からないことだらけの動物。私たちはきっとこんなふうにして、何度でも大人になるんだろう。

喪服に涙をとじこめて、新しい服を買って。大人と赤ちゃんの間を行ったりきたりしながら、春をかきわけて泳いでいく。

◇ 

デパートの帰り、通りがかりに春の新色のルージュが並んでいるのを物色した。赤にピンク、コーラル。ミューズがまどろむようにやさしく、春を予感して微笑する。その口びるの華やかさに、ひとつとして同じものはない花びらを想い、誰もが誰かを喜ばせることのできる生を想った。





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