掌編小説 「甘くないドーナッツ」
『ドーナッツ』という名前の古本屋が、その町の中心部、オフィスビルの立ち並ぶ通りの角にある。
朝のコーヒーとドーナッツを求めて入ってきた人は、店の左右に高く積まれた本や、古い本独特の匂い、森の奥に迷い込んでしまったような静けさに、思わずまごつく。
そういう人は少なくない。店はとても朝早くから開いているし、水色の外観はいかにもおしゃれなカフェみたいだから。
店内をよく見ると、ドーナッツの本はたくさん置いてある。ドーナッツのレシピ。ドーナッツの美味しい店。ドーナッツの出てくる小説。ドーナッツのエッセイ・アンソロジー。店主はドーナッツに目がなくて、それでお店の名前をそう決めたのだった。でもそれだけだと経営が成り立たないから、もちろん他の本も取り扱っている。
「それなら、いっそのことドーナッツ屋を始めれば良かったのに」
と店主の友人たちは声をそろえる。店主は、黒いフチのついた眼鏡がよく似合う女性で、そう言われたらそうなのだけど……、と微笑しながら、どこかためらいがちに答える。
「でも、うちの隣がドーナッツ屋なのよ」
その通りだった。だから間違えて古本屋の『ドーナッツ』に迷い込んだ客は、そっと回れ右をして、隣の「本物の」ドーナッツ屋へかけ込む。そして何事もなかったフリをして、できたてのドーナッツにかじりつく。
アオもかつてはそのルートで『ドーナッツ』の森から抜け出したお客の一人だった。けれど、いまではすっかり古本屋の常連客になっている。
幼いころからお菓子を作るのが好きだった彼は、いま調理師の資格を目指して、町の料理学校のパティシエ専科に通っていた。いつかは自分の店を持ちたいというのが夢だった。休みの日に、しばしば『ドーナッツ』を訪れては、表紙はボロボロ、ページの端が欠け、油のしみがついている本を熱心に買い求めた。
それには理由がある。昔ながらのレシピによる、クラシックなお菓子の味わいに彼は惹かれるのだ。きっと幼い頃祖母にお菓子作りのイロハを教えてもらったことが影響しているのだろう。
しゅんしゅんと小気味のよい音を立てて小鍋が湯を沸かし、古めかしいオーヴンがゆっくり温まっていく、そんな台所で彼の祖母は、
「まずは上等な小麦粉とバター。そこから新しい物語が始まるの」
彼女はすべてのレシピをおそろしいほど詳しくそらで覚えていて、ついていけないほど早口で話しながら、手際よくお菓子を作る人だった。
祖母がレシピ本をめくるところを、アオは一度も見たことがなかった。いつだったかその理由を、アオは彼女に訊ねたことがある。
「私にはレシピなんて要らないのよ。それはもう過去のものだから」
自分に言い聞かせるような口調で彼女は答えた。アオは祖母の形見の調理道具をいつもピカピカに磨き込み、大切に使っている。
◇
午後六時。店主がパソコンのキイボードを打つ手を休めて、ふと目線を上げると、ちょうどアオが古いバインダー式のレシピ本をレジに持ってくるところだった。
いつも簡単な会話を交わす二人だが、この日は黙ったままだった。じつは二人とも胸の内に暗い気持ちを抱えていて、世間話をするほどの心の余裕がなかったのだ。
「この本、古いけれど内容は確かよ。特にドーナッツがね、うまくできると絶品なの」
やっとのこと店主はそう言って、ちょっと無理をして笑った。
「そうですか」
アオは一瞬、意外そうな顔をした。以前、世間話をした時、店主はお菓子作りどころか料理をほとんどしないと話していたからだ。でも彼はそれ以上何も言わなかった。
会計が終わると、アオは足早に去った。ドアの外から吹きつけた秋の風が、アオの抱えたレシピ本の1ページを抜き出し、それはやがてしずかに、床へ着地した。
◇
(もう、やめようかな)
店主は力なく椅子にすわって、ぼんやりと店内を見回しながら、決断を先延ばしにしてきたそのことについて、また考え始めた。
数少ないドーナッツ・マニアの客がわざわざ電車を乗り継いでやってきてくれたり、アオのような常連客が喜んでくれたりすることを心の支えにしてきたけれど、そろそろ限界が近いことを、店主はハッキリ感じていた。
(ひどく寂しい)
それには、彼女自身がまだ受け止めることのできない、決定的な理由があった。
創業時から彼女を支えていた恋人を、約半年前に亡くしてしまったのだ。
そのことを思い出すと、心の芯が抜け落ちてしまったように無気力になる。考えないようにしていても、何度となく頭をもたげてくる。彼女は深呼吸して、視界を広げようと、遠くの方を見やった。
『ドーナッツ』の内部を照らすオレンジ色の灯りがわずかに震えて、それと同時に、ドアの近くでなにかの影が微妙にゆれ動くように見えた。
(———?)
店主はかがみこんでその紙切れを拾った。こまかな字で何か日記のようなものが書きつけてある。最後の一行は、
「全部、私の作り話。良い思い出。楽しかった。」
それはアオの買った本から抜け落ちたものだけれど、店主はそうとは気づかない。なんとなく古本に挟まっていたのだろう(そういったことはよくある)と考え、その紙をレジ横の書類箱に無造作に投げ入れて、それからそのことを忘れてしまった。
◇
(これは、読んだらいけないんだろうな)
古本の山の中から偶然その本を見つけた時、アオは直感でそう思った。
それは何の変哲もないケーキのレシピ本で、特徴といえばバインダー式になっているということくらいのものだけれど、元の持ち主はお菓子作りと同じくらい文章を書くことが好きな人だったのだろう。ページの余白部分に、とても小さく几帳面な文字で、きわめて個人的な内容の文章が、延々と綴られているのだった。
アオは家に帰るとコーヒーを煎れ、マグカップになみなみ注いで、気持ちを落ち着けた。それからバインダーからレシピの束を外し、まるでカード遊びでもするように、一ページずつ日付の順番に並べ出した。
そうしているうちに彼の気持ちはいくらか和らいできた。遠い旅に出ているガールフレンドがまったくメールをよこさないので、ここのところずいぶん気が滅入っていたのだ。
並べ終わり、全部を読み終えた時、窓の外には夜が満ちていた。
長い長い日記だった。くるみのパウンドケーキからウェディングケーキまで。ひとりの女性がある青年に出会って恋に落ち、その恋が完結するまで。ありとあらゆるケーキが作られ、贈られていた。アオが思っていたより深く長く、濃厚な恋の物語だった。
ウェディングケーキのページでその日記は終わっていた。それは恋人たちのための「ウィークエンド・シトロン」に因んで、レモンの風味をさわやかにきかせた、初夏の結婚式にぴったりのレモンケーキだった。
持ち主は5月のある日、「見事な出来栄え」にそれを焼き上げた。この流れで行くと、おそらく二人は結婚したのだろう———とアオは推測した。
(このレシピの中から、何か作ってみたい)
そう思い立つと同時に、心の中に、いつもの決まり文句が浮かんできた。それは料理学校で学んだことで、彼の祖母がつねづね口にしていたことでもあり、また彼自身がその料理人生の中で身をもって実感してきたことだった。
「心をこめて誰かのために作ると、お菓子はいっそう美味しくなるのよ」
祖母の口調を真似てそう呟いてみると、心の中に、古本屋『ドーナッツ』の店主のうつむいた顔が浮かんできた。アオは束になったレシピの中から、これしかないと思うものを一枚取り出した。
◇
なんとも良い感じのキツネ色に揚がったドーナッツを見ているうちに、胸の内にふと何かが引っかかるのを感じた。
ひとつ、かじりついてみると、それは確信に変わった。外はカリッとした固い輪郭があって、中はしっとり、むっちりと詰まっている。ほのかに小麦の香りをただよわせながら、口の中でゆっくり溶けていく———
だけど、なにかが決定的に物足りない。その物足りなさは揚げたてのドーナッツの素朴な味とあいまって、アオの古い記憶をひもといた。
(この味、知っている)
甘くないのだ。
(もしかして)
祖母から伝え聞いたドーナッツのレシピを探そうと、使い込んだ大学ノートを開くと、そこには古本屋のレシピ本にあったドーナッツとまったく同じ材料・分量のレシピが記されていた。それはドウ(生地)に砂糖を入れないで作る、甘くないドーナッツだった。
ふいにアオは自分が、祖母の過去につながっていくような気がした。
(これは、祖母の日記なのかもしれない———)
真夜中の窓を開けると、夜空にふっくらとしたまるい月が浮かんでいた。
◇
(また、レシピを少し変えたのかな)
最近のドーナッツはやたらとフワフワしていて、口の中ですうと軽く溶けてしまう。なのにいつまでも舌に甘ったるさが残る。若い人たちの好みに合わせると、こうなるのかもしれない。
(まるでドーナッツの穴でも食べているみたい)
どこまでいっても、グルグルと同じところを周り続けているような。中心部にぽっかりと穴があいているような。それは店主の心の形状に似ていた。
店主が隣の店のドーナッツを食べ終えた時、一週間ぶりにアオが古本屋に入ってきた。煎れたてのコーヒーの香りが、店のすみずみまで満ちていた。
「この間買った本のレシピで、ドーナッツを作ってみました」
そう言ってアオは店主に茶色い紙袋を差し出した。袋はずっしりと重かった。店主はそのレシピ本のことをよく覚えていたので嬉しくなり、
「一緒に食べましょう」
と言ってコーヒーと二枚のお皿を持ってきて並べた。
美しい黄金色をしたそれは、小麦粉とバターの力強い香りに包まれ、見ているだけで、しっかりとした弾力が感じられた。
堂々たる、揺るぎない風格。ドーナッツは、こうでなくちゃ! と、店主は思わずさけび出しそうになるのをこらえて、最初のひときれを口に運んだ。
「甘くない……ですよね」
何度も試作品を作ったアオには、それがよく分かっていた。また、レシピを改良することの難しさも、アオはよく承知していた。砂糖を入れると良い加減のキツネ色にならないし、砂糖の代わりに蜂蜜などを代用すると食感がそこなわれる……。
しかし、店主にとっては、これこそが至高のドーナッツだった。
一口、二口と食べ進めているうちに、亡くなった恋人との懐かしい思い出が心の奥にふつふつとわき上がってくるのを感じた。
良質なレシピ本を作ることで有名な、とある出版社の編集者だった彼のこと。彼が作ってくれた、たくさんの料理のこと。ずっと結婚はしなかったこと、でも愛し合っていたこと。
そんな想いがつい口から溢れ出しそうになり、しかし語り出すことはせず、店主は、まだ幼さの残るアオの顔をじっと見つめた。
「とても、美味しいわ」
アオもまた何か言いたげな表情で黙々とドーナッツを食べていた。
このお店はなぜだかとても居心地がよいことや、祖母のものと思われるレシピ本を発見できた幸運、末長くここに通いたいと考えている旨などを、うまく店主に伝えたいと考えていた。でも、何をどう伝えたらいいかわからないのだった。
アオはもう一つ紙袋を携えていた。
「レシピにすこしだけ自分なりのアレンジを加えてみました。」
同じ生地でできた、やや小さめでまるいドーナッツが、いくつか弾むようにころがり出た。それらは薄くシュガーコーティング(溶かした砂糖に浸して固めること)されていた。
「ドーナッツ型で型抜きをしたら、くり抜かれた真ん中の生地が余るんです。つまりこれは、ドーナッツの穴の部分なんですけど」
店主は、アオが試行錯誤してたどり着いたその味を、ゆっくり、深く堪能した。グレーズはかすかにバニラ・エッセンスの風味がして、やさしい甘みには奥行きがあった。とても美味しかった。
二人は向かい合ったまま静かに食べていた。ほとんど二人とも無意識的に、普段からお行儀の悪いことなど人前ではしないと決めているのに、ドーナッツをコーヒーに浸しながら食べていた。
「ねえ、きみ」
と店主は黒縁のメガネの奥からアオの目を真っすぐ見つめながら、言った。
「ドーナッツをたくさん作る気はない? 私にじゃなくて、もっと多くのお客さんに」
アオはきょとんとしている。
口の中でドーナッツとコーヒーが程よくまじり合い、それはとてもよく知っているはずの食べ方なのに、これまで食べたことのないような味がした。
「———まずは上等な小麦粉とバター。そこから新しい物語が始まるの———」
古い本の森の真ん中、ちょうどレジ横の書類箱のあたりから、そんな声が聞こえてくるような気がした。
<おわり>
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読んでくださってありがとうございます。このお話を書いたのは、先日レモンとドーナッツの出てくるエッセイを書いたからかもしれません。