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短編小説 「波を数える」

 改札をくぐり抜けて歩道橋の上へ出ると、爽やかな水のような風が一瞬、汗ばんだ首すじを撫でていった。
 大通りの常緑樹は、長引いた残暑ですっかり色あせている。魚が棲みよい水を嗅ぎ分けるように、横川みどりはするすると人波を泳いでいく。
 本当に魚みたいだな、と彼は行き交う人々を眺めながら思った。ぴったり前の人の背中の後を、息も乱さず進んでいく。つまらない小魚ばかりだ、どいつもこいつも。彼は目の前の人々を、ただひとまとめにそう考えた。
 そういえば、子どもの頃飼っていた金魚を水路に流したことがある。もうしない。狭い水槽を可哀想に思ったのだが、無知だった証だ。時々あの金魚のことを思い出して苦しくなる。どうにか生き延びたとしても、いずれにせよ海では生きられないというのに。
 橋の手すりにもたれて大通りを見下ろし、自動販売機で買ったアイスキャンディーをなめる。夏季限定と書かれた味の、着色料たっぷりの安っぽい甘さがひととき脳を怠惰に浸す。それから夜の帷がおりてくるまで、人々をながめる。
 緑の視線の先で、人々は透明な水の中をくるくる回遊していた。それはここに、たまたま手頃な浅瀬があったからだ。身を任せた流れが、否応なく彼らを下流に運んだからにすぎない。
 ふと誰かの視線を感じた方へ意識を向けると、背の高い人が目に入った。自分と同じようにアイスキャンディーをなめながら、高みの見物といった態度でこちらを見ているのは、まるで鏡に映った自分の姿のように思えなくもなかった。胸の内に期待がふくらんでいくのを感じた。しかし、それはすぐにしぼんだ。
 冷たい視線だった。狩に出かける猟師のような視線。それはまっすぐ緑をとらえ、じりじりと迫ってくるみたいだった。見知った人ではないのは確かだ。その目の光に追い詰められ、浅瀬でバシャバシャともがいている自分がそこにいた。
 何、気安く、人の顔見てんだよ。
 心の中で毒づきながら、当たり障りのない表情を返す。と、小さく会釈をしてきたような気がした。長い前髪がビル風になびき、はらりと白い頬にかかる。それを耳にかける仕草で、なんだ女だったのか、と緑は知った。

 家に帰ると、母がすでに夕食の支度をして待っていた。この若い義母が外で仕事と名のつくものをしたことがあるのか、緑は知らない。けど、緑に食べさせることに関しては、いつでも完璧な仕事をする。テーブルには丁寧に骨を取り除いた魚が美しい皿に盛られていた。
 緑は、特に有り難がることもなく、無表情に魚を咀嚼し、同様に、並べられた料理も残さず平らげた。もちろん、定食屋にひとりで行く時は、自分で骨を取る。けど、わざわざそれを彼女に申し出るつもりはなかった。相手が親切や時には愛情を差し出したいなら、受け取ってやるのが当然だ。そのたぐいのものは、驚くほど賞味期限が短いのだから。
 料理を残さず平らげた頃、彼女から差し出された郵便物のたばを見て、緑は訊いた。
「これ、何?」
「ポストに届いてたの」
「それは解るけど」
「どれが必要なのか、解らなくなっちゃって」
 ていうか、なんで急に解らなくなるんだ。今までみたいに、適当に選り分けてくれたらいいのに。緑は眉根を寄せ、まじまじと彼女を見た。綺麗な人だ。なぜ、父と結婚などしたのだろう。
「みっくん、新学期はどう?」
「まあ、それなりに」
 それなりに頑張っている、と相手は補完しただろうが、嘘だ。大学には、新学期が始まってから一度も出席していない。どうせなら、落ちた方がよかった。けど、この美しい人がそう望むのなら、感服させたい気持ちが、まだ高校生の自分にはあったのかもしれない。実際、彼女は跳び上がりそうなほど喜んでくれた。
 ソファの上にあぐらをかきスマホを開くと、知らない番号から二度も着信履歴があった。最近知り合った、LINEを交換した女の子かもしれない。大学と学部名を訊かれて答えると、声の感じが甘くおもねるようになった。うざったい、と思ったが、わかりやすく記号として扱われるのはむしろ面白かった。退学届を出したと言ったら、どうせ手の平を返すのだろう。
 初対面の女の子を口説くのは、上手い方だと思う。たとえばコルク瓶をアップサイクルしたコーヒー・ボトル、動物実験なしで製造されたシャンプー、100%オーガニック綿使用のジーンズ。サステナブルとか環境問題とかそういうのは正直どうでもいいけど、彼女たちにウケがいい話題を知っておくことは重要だ。
「知ってる? 一枚の服を作るために出るCO2の排出量を一着あたりに換算するとペットボトル250本の製造分になるんだって」
 あるいは、「大匙一杯のサラダ油が混じった水が魚たちにとって安全に生息可能になるためには、6000リットルの水量が必要なんだ」
 にわか知識をつめ込んで、いかにも社会経験の乏しい学生が作ったプレゼン資料みたいだ。ふと我に返り、何もかも馬鹿馬鹿しくなる。そんなことより問題は、と、緑は散らかった頭の中で主題を整理した。そう、大学のロッカーに入れたままのシューズだ。ジョギング・シューズ。自由の象徴。
 明日こそは、それを取りに学校へ行かねばならない。
 ふと喉元にちくりと痛みが走る。幾度か咳払いをして、引っかかった魚の小骨をどうにか飲み込んだ。

 空気の中に、かすかに秋の匂いが混じる。慣れた手つきで包装紙をやぶり、アイスキャンディーをなめた。食べ終えた棒をゴミ箱に投げ込んでしまうと手持ち無沙汰になったので、コンバース社のオール・スターを履いている人の数を意味もなく数えた。それを履いている人は予想外に多かった。ひとり、ふたり、さんにん…… かなりの数を数えたところで通勤電車が到着し、改札から人がどっとあふれ出した。途端に数が解らなくなり、舌打ちする。再度数える気には、もうならない。
 その人は、人の流れの真ん中に、いつからか影のように佇んでいた。気がついて顔を向けると、先日見かけたあの女だった。
「こんばんは」
 外灯が点ったばかりのまだ明るい歩道橋で女が言う。黒縁の眼鏡の端がカチリと光った。
「すっかり秋の夜風ですね」
 警戒しつつ、緑は「ですね」とまだ甘い味の残る舌で答えた。上半身は洗いざらしの白いシャツ、下はいかにも普段着といったジーンズで、すり切れたトートバッグはみすぼらしく、オフィス街の勤め人といった風貌ではなかった。
「学生さん?」
「いえ」
「いつもここで、下、見てるね」
 女の口調は急にくだけた感じになった。
「あの、どちら様?」
 声に刺々しさを滲ませ、緑は言った。誰だって初対面の相手には多少なりとも自分を演じる。けどこの女はどうもそれをしないようだ。気に入らない。
「ここからね、飛び降りて死んだ人がいるんだよ。あなた自殺志願者じゃないよね?」
 唐突にそんなことを言われて、今自分の立っている場所が恐ろしくなった。手すりから軽く身を乗り出すと、交通量の多い交差点が眼下から迫ってくる。
 一刻も早く立ち去ろうと、緑は女を無視して一歩を踏み出した。すると女が緑の腕を強く掴んだ。妙に澄んだ黒い目が、ひときわ鋭く彼を直視している。
「あなたには貸しがあるんだよ、横川君」
 出しぬけに名指しをされ、緑はふいに寒くなった。なんで名前を知ってるんだ、と問いたいのに、声が出てこなかった。
「本は読み終えたかい」
 一瞬、頭の中に空白ができる。なにを言っているんだこの女は。緑は反射的に女の手をふりほどいた。彼女はそれから何かを続けて言っていたが、早足で去る緑の耳には届かなかった。

 疲れ切って汗だくで家に帰ると、めずらしく母は外出していた。薄暗い部屋のテーブルの上に郵便物のたばが置かれている。なにげなくそのたばをめくっていると、一枚の葉書を見つけた。差出人は大学図書館だった。

「学部・大学院を中退された、未返却資料がある方へのお知らせ」

 と、おもてにそう書かれてあるのを見て、一瞬手が止まった。他に退学に関する書類はなく、すでに母の手によって抜かれた可能性を考えてみる。ゼロではない。緑は何か冷たいものを飲もうとキッチンへ行き、冷蔵庫を開け、茫然と中をながめた。結局飲み物は手にせず、そのまま汗ばんだシャツを着替えるために脱衣場に向かった。
 自分で望んだことなのに、のみ込むのに時間がかかった。いつのまにか傷み始めた頭を抱え、ソファにすわって落ち着くのを待つ。そうか。退学届は正式に承認されていたのだ。模糊とした不安が、体の奥底からじわりと滲み出した。
 着信履歴が一件。最近何度かかかってきている、知らない番号からだ。メッセージを再生する。感情のない中年女性の平板な声が「大学図書館です」と名乗った。
「横川緑さんに、未返却資料についてお電話差し上げました……」
 その声が誰であるか、緑にはわかった。こちらの名前を知っている、貸しがある、そして、本。なるほど。女の正体がわかった。図書館司書だ。大学の図書館から、ずっと一冊の本を借りたままにしている。彼女は催促しているのだ。直ちにそれを返却するように、と。

 翌日の朝、緑は電車で大学へ向かった。空はくっきりと晴れ、雲ひとつなかった。半袖のシャツが肌寒く感じられたので、カーディガンを羽織った。
 一歩中に足を踏み入れると、図書館のしっとりとした空気が彼を包んだ。カウンターには返却されたばかりの本がどっさり積まれていた。あの背の高い女が、カウンターの奥の部屋に出たり入ったりしているのも見えた。
 女に顔を合わせたくはなかった。でも、もし緑に気づいたとしても、彼女は緑のことなどに構う余裕はなさそうだった。
「レイさん、」と新米の司書に呼びかけられ、彼女は奥の部屋に消えた。
 それを見た緑は深海魚のように静かに通路を移動し、入口からさほど遠くない場所にある棚に、持ってきた本をそっと立てかけた。本はぎこちなくその棚に収まった。それを成し遂げると早くそこを逃げ出したくなり、ロッカーに立ち寄ってジョギング・シューズを回収するのをすっかり忘れてしまった。


 緑はまた駅前の歩道橋に佇んでいる。日曜の夕方、時刻は6時半になろうとしていた。
「またあんたか」
 レイが近寄って来るのを見た緑は、吐き捨てるように言った。
「未返却資料を全体で見るとかなりの損失額になるんだ。ほとんどの退学者とは連絡が取れなくなる。私だってやりたくはないけど、仕事だから」
「人違いです」
「それはない」
レイははっきりとした口調で言った。「学生課が作ったリストの中にあなたの名前があった」
「ほんとに、おねーさんが何言ってるか……」
「嘘つきだね」
 レイはうんざりした。彼自身の言葉が聞きたかった。「あまり嘘ばかりつくと誰にも信用してもらえなくなるよ。嘘つきのオオカミ少年みたいに」
「みんなが真実だけを話したって同じさ」
 緑はそう答え、痛むこめかみを指で押さえた。母が心配している。みっくん、どうして事前に相談してくれなかったの? と泣いている。どうしてだろう。ついこないだまでは浅瀬で溺れかけていた。けど今投げ込まれているのは、もっと広くて深い海だ。うす暗い水の中で、魚たちは何を目印に泳ぐのだろう。
「本棚に置いていくのは駄目だよ。きちんと正式な手続きを踏まないと返却したことにならない。常識だ。利用ガイドにも書いてある。まさか文字が読めないのに図書館に来たの?」
 一冊の本を返すことさえまともに出来ない人間に、レイは嫌味の一つでも言ってやらなければ気が済まなかった。
「常識ね、」
 苛立ちが緑の喉元まで迫り上がっていた。湧き上がるむかつきのようなものを彼はコントロールすることができなかった。
「『常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションである』*」
 緑は答えた。そして射抜くような目でレイを睨みつけて、言った。
「それに文字が読めなくても誰にでも本を開く権利はあると思うよ、おねーさん」
 二人はしばらく無言で睨み合った。
 刻々と空の色が変わり、夜になろうとしていた。
 やがてレイが口を開いた。
「……そうだね。とても失礼なことを言った」
 体の中にたまっていた淀みを外に流そうとするかのように、彼女は深呼吸して続けた。
「悪かったね、横川緑くん。でも我々は間違った場所に置かれた本を常に正しい場所に戻さなくてはならない。それには時間も手間もかかる。図書館にはそんな本がたくさんあるけど、放っておくわけにはいかない。次に待ち望む人がいるから」
 緑は、彼女の話に耳を傾けたくなる何かがあるのを感じ取っていた。だから彼女がその後に続けて、
「もう一度ちゃんと本を返しにおいで」
 と鞄の中から出した一冊の本を押し付けてきた時、抵抗することができなかった———J.D. サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』だった。
「どうかな」
 緑はごまかすように答えたが、それは驚きによるものだった。彼女が素直に非を認めたことに気勢を削がれ、言い負かそうとする気はすっかり失せてしまった。この人の心の奥底にある強さは、一体何なんだろう。宵闇に包まれたこの歩道橋の上で、それはまるで水中に差し込む一筋の光のように感じられた。
「オオカミ少年の話はね、」
 レイは緑をじっと食い入るように見た。「嘘つきの少年がオオカミに食われる話じゃないんだよ。食われたのは羊たちで、村人が少年の嘘を信じなかったからだ。これは嘘つきの少年に罰が当たった話じゃない。信頼低下の世界に何が起こるかって話さ。大学を辞めるのは全く悪いことじゃないよ、横川緑くん。でもそれは、世界の分母をあなたが自分で変えたということだ。より大きな世界に、あなたは一歩を踏み出したんだよ」
 緑は息をひそめていた。面倒くさくなったわけではなかった。みんなの大切な羊を死なせてしまったことの重大さを想像していた。あるいは広大な世界にひとり、ぽつりと取り残される孤独を。
「あのさ」
 しばらく間を置いて緑は言った。
「残されたロッカーの荷物ってどうなるか知ってる? 大事なものを忘れてきちゃったんだよね」
 緑の独特な休戦合図に、レイは戸惑いの表情を見せ、少し考えて肩をすくめた。
 言葉を探すうち、レイの頭の中にふと、ある話が浮かんだ。
「ひとりの男が、波打ち際にすわって波を数えている。数え損なって肩を落としていると、狐がやってきて言う。過ぎたものは忘れて、今ここから数え始めるべきだと」
「ねえ、さっきからなんなの? オオカミ少年とか」
「イソップ寓話だよ」
「興味ないよ」
「だろうね。ただ、思ったんだ。あなたはもしかしたら、誰かの期待にこたえたり、格好いい自分を演じたりする期間が長すぎたんじゃないかなって。それに堪らなくなって、とりあえず学校を飛び出しちゃったんだ。まあ、たとえばだけど」
 緑は今にも笑い出しそうな、あるいは泣き出しそうな表情を浮かべて何かを考えていた。
「でもこれからは、あなたが純粋にやりたいと思うことをやればいいさ」
 レイはこともなげに言った。その声が、優しく沁みるように、緑の心の中へ入っていく。
 やがて緑は、ほとんど独り言をつぶやくように、
「あとで本を返しに行くよ」
 と言った。
「ありがとう」
 良かった、とレイは思った。ここで偶然緑を見かけた時、彼はとてもやつれた青い顔をしていた。
 本は夜道の案内人だ、とレイは改めて思う。読む人を明るい場所へ導くこともあれば、もっと深い闇へ連れていくこともある。ジョン・レノンを射殺した男が殺害直後その場にすわり込み、『ライ麦畑でつかまえて』のペーパーバックを読んでいたのはあまりに有名な話だ。でも、だからというわけではない。レイが緑の顔を覚えていたのは、単純にそれが彼女の好きな本だったからにすぎない。
 歩道橋の外灯に、ほのかな芯のような灯りがともる。駅から出てきた人々が放射状に広がり、うろこを光らせる魚のように散らばっていく。

「もしかして、横川くん?」

 甲高い声が緑とレイの間に割って入った。LINEを交換した女の子だと緑が気づくのに時間がかかった。
 彼女は、わーこんなところで会うなんて、とひとしきりはしゃいだ後、「学校辞めたって噂ほんとなの?」と無遠慮に詰め寄って来た。
「横川くんっていかにも世間知らずの王子様って感じだと思ってたけど、意外と思い切ったことやるんだね。これから、何するの? 今度話聞かせてよ」
「……え、」
 困惑する緑の脇を、透明な風が、先をあらそう波のように流れていく。
 じゃあ、とレイは軽く挨拶をしてその場を離れた。
 雑踏に紛れていく彼女の背中はすっくと伸び、気品にあふれていた。図書館司書になってよかったと思う気持ちが、わずかに彼女の心に戻って来ていた。
 緑はレイの背中でゆれる長い髪を、ほんの一瞬だけ目で捉えた。それは波を浮き沈みしながら、滑るように泳いでいく金魚の背びれのように見えた。





<おわり>

*アインシュタインの言葉。

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』9月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「のこる」。読後にもじんわり感動がのこるような小説が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。

『文活』へ寄稿した作品の幾つかは、ゆるやかにつながっています。関連した作品の一つはこちら。もしよければ、他の作品も併せてお楽しみください。

#文活



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