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夜風喫茶店 #3 「クリーム・ダウン」

おいしいアイスティーをいれるために決してやってはならないこと。それがクリーム・ダウン。茶葉に含まれているタンニンとカフェインが冷やされることによって結晶化し、紅茶が白く濁ってしまう、というもの。

「そんなものをお客に出したら、紅茶専門喫茶店としては悲惨としか言いようがないね」

夜風よるかぜ喫茶店の女あるじはそう言って、たっぷり氷を入れたグラスに紅茶を注ぐ。カラン、と氷の鳴いたグラスは、すきとおる琥珀色。その中にあるのは、今年の夏の、汗と涙。

「ミルクをいれてもいい?」

濁らせることがいけないのかと思って訊いたら、

「お好きにどうぞ」

お客に出したあとのことなんか知らないわよと肩をすくめ、もう本を読み始めている。ミルクを垂らすと、それはモワリと雲のように湧き、やがて優しい乳白色になった。

窓辺にハマナスの花がさしてある。ものうげに夜空を見上げ、月に向かって信号を送っている。

——もしもし、誰かいますか? 

——夜の片隅はここ——そんなふうに。

私は、いよいよ今夜、新しい物語を書き始めようとしているところ。さあ、どこまで行けるかなと、原稿用紙のマス目のはしごを、一段いちだん登っていく。私のいるところは、まわりの音楽が消え、真空しんくうのように静かになる。

物語を書いている間に、途中で消えた小説家もいるらしいって誰かが言っていた。きっとその内側に取り込まれてしまったのだ。

「どこに書いてるのよ」

喫茶店の主人は、ときどき本に栞をはさんで、大きなあくびをしながら私に話しかける。どこにと聞かれても、あたりまえすぎて答えようがない。

「どこにって……原稿用紙に」
「どれどれ」

すこし眉根を寄せ、私の手元に目を走らせる。この喫茶店を開こうと決めた時と、きっと同じような鋭い視線で。

「全然、書けていないじゃない」

そんなはずはない。遅筆な私にしては、いいペースで進めている。冒頭はロマンチックにしたいから、素敵な情景や小道具をたっぷりと散りばめて。紅茶の飲み方でいうなら、シュガーシロップに、ミルクに蜂蜜、それからエキゾチックな異国のスパイスも少々。

「ここには何にも書かれていないわ」

けれど彼女は、あっさりとひどいことを言う。ちっとも褒めてくれないから、私は不満の一つも言いたくなる。

「もっと細かいところもちゃんと読んでよ」
「あなたって本当にしょうがないわね。いまおかわりを作るわ」 

彼女はお湯を沸かし始めたけれど、私はまだ一杯目を飲みほしていない。私がオーダーしたわけじゃないから、代金を請求されても困る。

「アイスティーをいれるときは、ぼうっとしていちゃ駄目よ」

おしゃべりも、ふざけることもせず、一国の王女のように背筋を伸ばして、ガスの青い炎を見つめている。

すこしして出来上がったアイスティーは一点の曇りもなく、どこまでも澄み切った青空のように瑞々しかった。

口に含むと、夏。

海の香りをはらんだ風の向こうに、人々のざわめきと、波の音、ときどき空を切り裂くような海鳥の鳴き声が、しんとした喫茶店に響く。水辺の駅に、ガタゴトと汽車は着いて、下車したのは、旅行かばんをさげた女の人がひとり……。

私の頭の中で、物語が走り出す。

「そうそう、そこに書くのよ」

彼女は自分の頭を指さし、微笑んでうなずくと、また読書の世界に戻っていく。

クリーム・ダウンしていない完璧なアイスティー。シュガーシロップもミルクも蜂蜜も、異国のスパイスも要らない。

窓辺でハマナスが、眠りながら笑う。もう月との交信は途絶えたのか、ただ夜の片隅を優しく照らしている。




<おわり>


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