掌編小説|「炭酸水に、透ける」
ぼくの行ける高校は一つもない。授業は寝る、課題は出さない、友だちもいない。担任に言わせると、「新時代の子」だ、そうだ。
「横川、話を聞くときはちゃんと人の目を見ろ。おまえのために言ってるんだ。ご両親を悲しませるのはつらいだろう?」
って、真顔で芸人のコントみたいなことを言うから、思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえた。ぼくは、性格も悪い。
両親を悲しませるのがつらいかって? ぼくには「感情」がない。捨ててしまったんだ。いろんなことを感じるのが面倒だから。簡単だ。嫌な事に目を瞑るように、ただなにも感じなければいいだけなのだ。
「それって、虚しくねえの? そしたら、何かを好きになる気持ちはどう処理するんだ?」
磯村は、なかなかおもしろいことを言う。彼によると、ぼくは「人生における一番大切なこと」を経験してないんだそうだ。新学期の席替で隣の席になってから、なにかと絡んでくる。本音を言うと、放っておいてほしいのだけど。
放課後の図書館。埃っぽい書架から本を一冊抜き出し、窓ぎわの席に座る。ぽっかり空いた校庭の上空に、刷毛をすうと引いたような秋の雲が広がっていた。ぼくは、透明な水をゆったりと沈んでいくような錯覚にとらわれる。髪や指先から、空気の泡がちりちり上へのぼってゆく。みんながかけがえのない青春を謳歌している時、ぼくは、いつしかコーヒー色に濁ったまどろみを貪っている。
背後で人の気配がして、パタタ、と上ばきの音が遠ざかっていった。同じクラスの、水咲さん。地味だけど、よく見ると可愛い子なんだ。いつか話してみたいと機会を探っていた。
けど、最初にここでその秘密を知ってしまって以来、彼女はもう全く別の人間に生まれ変わってしまった。
ぼくは知っている。彼女が図書館に足を運ぶのは、恋人と「文通」するためなのだ。
海外文学の棚の、古い一冊の本の中。遠くからこっそり見ていたら、次に磯村がやってきて、さっき水咲さんが隠した手紙を抜き取っていった。初めてそれを把握したとき、ぼくの心は躍った。なんていじらしい二人なんだ。
そんなピュアな二人がクラスで作り出す微妙な雰囲気を、ぼくは、決して無視することは出来ない。赤の他人みたいにふるまっているくせに、図書館の本の中で固くつながっている二人。教室の端と端で同じ炭酸飲料を飲むのとか、まじでやめてくれ。こっちが恥ずかしくなる。
自販機で買った缶コーヒーが、ぼくの舌の上で甘ったるい。
「缶コーヒーって毒なんだぜ」と、ニヤついた顔で磯村が話しかけてくる。「若者にふさわしい飲み物を飲めよ」
余計なお世話だ。若者にふさわしい飲み物って何なんだ。けど、試しに缶コーヒーの毒性をネットで調べてみたら、肥満、老化、糖尿病、発癌リスク、精神疾患への影響、などなど、物々しい言葉があふれ出してきて怖くなった。なんだこれ、本当に毒じゃないか。ぼくの性格の悪さも、毒のせいなのかもしれない。
音楽の授業中、磯村は、自作の曲をギターで弾いている。クラスのみんなは引いてた、けど、ぼくは笑えなかった。誰にも言えない心の奥底をさらけ出す勇気に、ぼくはひそかに感服してしまう。
なんだか彼らのせいで、すこしずつ調子が狂う。いつのまにか頭の中に小さなひびが入って、そこから毒が回り出したに違いない。図書館で暇をつぶしていたぼくは、ついに二人の秘密の本の中を覗いてしまった。
磯村のラブソングの、歯の浮くような甘い詩。それを覚悟して手紙を開いた瞬間、目に飛び込んできた言葉に、息を呑んだ。
「いまから屋上で、一緒に死のうよ」
え、とぼくは声にならない声を発して、思わずあたりを見回す。ぼくの心臓は、昔読んだ本を思い出して、知らず知らず早鐘を打っている。恋人たちが毒薬と短剣で自死する物語だ。『ロミオとジュリエット』……確かそんなタイトルだっけ?
汗だくになって屋上に着くと、二人が並んで横たわっている。毒薬でも飲んだのか、側に空のペットボトルが転がっていた。嘘だろ。人ってそんな簡単に死ねるの?
ぼくはぼう然として、このまま走り寄るべきか、それとも人を呼びに行くべきか迷う。
両親の反対? 将来を憂いて? もしかして望まぬ妊娠とか? 思いつく限りのドラマを空想しながら、おそるおそる、彼らの死体に近づく。やめてくれ、悪い冗談は。
「磯村、水咲さん」
ぼくは、胸の内に芽生えようとする何かを殺しながら、震える声を絞り出した。
彼らのまぶたは安らかに閉じられている。吹奏楽部のトランペットの、長く間延びした音が空に響く。
「……ふふっ」
一瞬ぼくの目には、なんとなく世界がゆがんで、小さくはじけたみたいに見えた。
最初にこらえきれなくなって吹き出したのは、水咲さんだ。それから磯村もむくりと起き上がって、笑い出した。彼らは、それから長い間、存分に笑っている。
嘘だったんだ。
おい、二人とも。そのニヤついた涙目、やめてくんないかな!?
「横川は、ほんと、ピュアだなあ」
言われて、体がカッと熱くなった。そこに、おつかれー、とペットボトルの炭酸飲料が飛んでくる。キャッチすると、きりりと冷たい。
やけになったぼくは、炭酸をぐいっとあおる。しゅわしゅわと泡が喉を流れて、乾いた体に命を吹き込む。
透明な炭酸水に、空の青がみるみる透けていって、まるで久しぶりに見たカラーの夢よりも鮮明に、世界が色づき始める。
ぼくは、「感情」を取り戻しそうになってる。けど、どういう感情なんだ、これ。
<おわり>
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