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「ビューティフルマインド」ネタバレあらすじ感想」


0,基本情報

公開年:2001年

監督:ロン・ハワード(「スプラッシュ」、「ダ・ヴィンチ・コード」など)

時間:2時間16分

視聴できるサービス:Amazon Prime Video、Netflix、Hulu、U-NEXTなど



1,予告編


2,あらすじ

1947年。ジョン・ナッシュはプリンストン大学院の数学科に入学する。彼は「この世の全てを支配できる理論を見つけ出したい」という願いを果たすため、一人研究に没頭していくのだった。そんな彼の研究はついに実を結び、「ゲーム理論」という画期的な理論を発見する。 
やがて、その類いまれな頭脳を認められたジョンは、MITのウィーラー研究所と言われる軍事施設に採用され、愛する女性アリシアと結婚する。政府組織は敵国であるロシアの通信暗号解読を彼に強要し、その極秘任務の重圧に彼の精神は次第に追い詰められていく。

引用:Wikipedia


3,感想・批評

大学の所属したゼミナールでゲーム理論についての課題を出され、その説明の際に先生から本作を「アカデミー賞を取っている作品」と紹介されたため、見逃すことはできずに喰いぎみで本作の鑑賞に至った。


大学で経済・経営系の勉強をしている私にとってはゲーム理論はあまりに有名で、論文や入試問題でもよく見かける理論である。この理論は、私的な感情を排除し、両者は利己的で常に自身が最大の利益を獲得する最適解を取るという前提で、二者の利害関係を絡めた行動理論を説明したものとなっている。数学者が経済に対して提唱した理論でありながら、その応用範囲は資源配分や政治問題、テクノロジーなど多岐にわたり、過去のデータによって対象の行動がどう変化するかという未来予測も研究に含まれていることから、データの分析を行う統計学や、過去が未来に影響を与えない自然科学の領域ではカバーしきれない社会問題にまで応用可能とされている。モデルやその構造としては単純でありながら、応用範囲は非常に広い画期的な理論となっている。


そんな単純かつ応用性の高いゲーム理論に組み込まれた均衡理論のルーツやジョン・ナッシュという偉大な功労者の軌跡を追う物語として非常に興味深い作品だったが、映画という芸術作品の表現的にも面白い演出が隠されていたように思う。


まずはラッセル・クロウ演じるジョン・ナッシュに統合失調症の症状が顕著に現れてきたシークエンスである。本作中盤にて、パーチャーやチャールズなどという人物は実際には存在せず、ナッシュ自身が患っていた統合失調症の症状であることが明かされる。これには驚いた者も多いだろう(私もそのどんでん返しに驚いた)。本作を鑑賞した者は、カミングアウトが為されるまで映像の向こう側の世界、ジョン・ナッシュという人物の物語には確かにパーチャーやチャールズという人物が存在すると確信していたに違いない。ジョン・ナッシュが統合失調症を患っていたことは事実のようだが、それはリアリティよりもフィクションとして機能し、虚偽空間を扱う映画作品としての価値が出たように思う。ジョン・ナッシュが統合失調症を患っていたことを知らずに本作の鑑賞に至り、架空の人物が存在すると信じていた統合失調症でない者には、映像や音声という一要素だけであたかもその場に人物が存在しているかのように感じる人間がいかに不正確な判断をする存在なのかという提起も行っているように思う。実在した人物とその人生を素材としたリアリティ重視の作品でありながら、芸術的な表現も見られるというどこか映画作品の概念を覆したかのような展開は特徴的だ。


また、映像にジョン・ナッシュの未来がメタファーとして表れている点にも注目してもらいたい。冒頭、数学者に向かって教授のような人物が講義をする場面にて、ナッシュただ一人が教授に目を向けていない。バーらしき場所で女性をひっかけようとするシーンや暗号を解読するシーンなど、作品の多くの場面で彼に焦点が当てられ、画面の大部分を彼が占める構図が見せられ、画面の中心部または他の人物より高い位置に配置される。これは(当然と言えばその通りだが)彼が物語の中心人物である事を示す。


彼が提唱した均衡理論の成り行きについては、が印象的だ。チャールズが机を外に投げ落とすシーン(実際には投げ落とされているのかどうかは定かではない)やナッシュの講義を受けていたアリシアが、暑いからと一度閉めた窓を再び開けるシーンなどが特にそうで、これ以後ナッシュは統合失調症の幻覚に苦しむことになるが、開かれた窓は後に世界中に広まり、その応用性の高さから経済以外の問題にも用いられることになる理論の今後を見せているかのようだ。ろくに授業に出ず、自分の画期的な論文は出さないが他人の論文は批判する協調性の欠片もない普通の大学生は窓を開き、日常生活(ゲーム戦略や恋愛など)からヒントを得て、最後には彼の人格と共にオープンとなったのだ。


面白いのは彼の属する人間環境で、基本的には彼は外部との関わりを持たず、寄宿舎や研究室、家などにいるシーンがよく見られる。実際にはパーチャーやチャールズは統合失調症の症状である幻覚(イマジナリーヒューマン)だったため、ナッシュ一人というクローズドな場面は我々が映像を通して見た場面よりも遙かに多いだろう。ここからは彼が周りの人間とは違うことが示されている。ジョン・ナッシュは本作の始めから終わりまで天才であるということを映像表現から暗示しているのだ。本作は周りからは半ば馬鹿にされ、周りの人間に迷惑をかけ、自信は病に苦しんだ不幸な男が栄光を勝ち取るまでの逆転成り上がりストーリーという視点ももちろんあるとはおもうが、私個人的にはナッシュが自分の適するコミュニティーに属するまでの物語のように見えた。ジョン・ナッシュという一人の人間の人生を物語として構成する上では、彼の実在する友達や人間関係は目立っているが、物語内の「社会」で名が知れているわけではない。アメリカの大学の教授などアメリカ国内には五万といるだろう。目立っているのはむしろ物語冒頭、大学内にて賞賛されていた教授やジョン・ナッシュと共にノーベル賞を受賞した学者達の方だ。ナッシュは社会的にも名が知れており、他と比べて能力が秀でた者が集まるコミュニティーに最後には帰属した。中流階級は中流階級内で、優れた者は優れた者の集まりの中でしか動かない。監督が意図して作った要素なのかどうかということは定かではないが、まさにアメリカ社会の縮図だといえるだろう。


ジェンダー的な観点も、恋愛の定型に収まっている。多くはアリシアがナッシュを先導するショットが多々見られるが、プロポーズはナッシュから、ノーベル賞の授賞式ではナッシュはアリシアよりも高い場所に位置し、エスコートもナッシュからであることなど、大事な場面では女は待ち、男は引っ張っている。また、同棲してからすぐに住んだ家の中に赤いソファーなどが配置されているが、これはアリシアの心の内に秘める愛の情熱を暗示したもののように見え、やはり女性の方が男性よりまわりくどく、バーで女性を引っかけようとした際に「体液を交換したい」などと誘ったナッシュに比べれば男性より直接的ではないように思う。私はよく現代の人々における未婚率が増え、ヒロイン・プリンセス作品などを中心に男女の物語が恋愛に発展しないケースを挙げ、「現代の女性像は変化しており、主体的で、かつ恋愛感情よりも自己実現を重視するようになった」と語るが、データに表れない部分を考えるとそうとも言い切れないのかもしれない。


総評として、歴史的な人物と画期的な理論のルーツ、恋愛などをベースとしてジェンダーや階級社会、映画の構造的な視点や映像表現など、実在した人物をベースとしたヒューマンドラマならではの多面性で一つの作品から多くを解釈できるような、時間以上の作品となっていた。ジョン・ナッシュとその理論についての知識を多く得た上で2度目の鑑賞に入れば、寄り多くを吸収し、解釈できるような作品であることは間違いないように思われる。多くの人が本作を鑑賞し、映画そのものの多面性から人が別々な解釈や感想・批評を行うことで均衡理論の窓はこれからも開かれていくのであろう。



画像元:https://hirosankaku.com/a-beautiful-mind/

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