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歴史・人物伝~関ケ原編⑥家康を後押しした小山評定での発言

歴史・人物伝~関ケ原編の第6回です。

上杉討伐のため、大軍勢を率いて東に向かった徳川家康でしたが、その留守を狙って石田三成ら(西軍)が軍事行動を起こしました。家康の家臣・鳥居元忠らが守る伏見城を陥落させたのです。

江戸から北へ向かおうとした徳川家康は、従軍する豊臣家恩顧の大名を集め、今後の方針を決める軍議を開きました。これが「小山評定」です。どんな話し合いが持たれたのでしょうか?

家康の決意に福島正則が・・・

この時、従軍していた主な武将は、福島正則、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎、池田輝政、浅野長政、山内一豊らでした。加藤清正は領地の九州に戻っており、従軍していません。

家康は、石田三成や宇喜多秀家らが決起し、伏見城を攻略したのち、東へ向かっていると説明。「家族を人質にされている武将もいるだろうから、西軍に味方しても遺恨は残さない」と言い、決断を迫ります。

これに対し、豊臣家を最も大事にしていると自負する福島正則は「この軍事行動は秀頼公のご意向とは関係なく、三成らが勝手にやったこと。家康殿に味方し、三成らを討つ」と宣言したのです。

黒田長政や藤堂高虎のように、はじめから家康方に付いていた武将もいましたが、多くの武将は秀頼がいる大坂に向かって出兵することにためらいがあったので、正則の言葉は「強力な大義名分」となりました。

家康を喜ばせた山内一豊

小山評定では、もう一人重要な役割を果たした人物がいます。当時、東海道の掛川に領地があった山内一豊です。一豊は「掛川城を家康殿にお預けいたします」と宣言したのでした。

東海道沿いは、家康など関東以北の諸大名対策のため、秀吉が豊臣家恩顧の大名を配置していました。一豊もその一人でしたが、この一言により徳川家に仕える意志を明確にしたのです。

東海道沿いの大名たちも次々と「城明け渡し」を宣言し、家康は西への安全なルートを確保できました。一豊は、この時の功績も加味され、関ケ原の合戦後には土佐一国の大大名に栄転しました。

ちなみに、一豊の妻・千代は聡明かつ先見の明がある女性として知られており、石田三成から味方になるよう求められた密書を「封を切らずに家康様にお渡ししてほしい」と、一豊の陣に届けさせたと言われています。


上杉討伐を中断し、石田三成ら西軍との戦いを決断した家康ですが、後顧の憂いは断たねばなりません。次回は、上杉包囲網について書きます。

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