歴史・人物伝~エピソード編⑬:朝倉義景(後編)「時代の先が読めなかった武将」
朝倉義景は、足利義昭を庇護していたのにもかかわらず、上洛を決断できませんでした。周囲の状況などの理由があったので、決して「KY(空気が読めない)」ではなかったのですが、その後の行動は「KY」と言われても仕方ありません。
将軍となった足利義昭は、周辺大名に上洛するよう命じました。もちろん、織田信長の意向であったことは言うまでもありません。それに対し、義景は上洛に応じませんでした。この判断が、義景の運命を変えてしまったのです。
信長は、朝倉討伐を決行します。一度は浅井久政・長政が義景の味方につき、信長を撤退に追い込みました。さらに、武田信玄が西上作戦を開始し、本願寺が敵対、足利義昭も反旗を翻すという、信長にとって四方八方を敵に囲まれる絶体絶命の状況が生まれたのです。
この状況にあっても、義景は大規模な軍事行動を起こしませんでした。義景が決起していれば、信長が敗北する可能性があったかもしれません。しかし歴史は、信玄の死去、そして朝倉・浅井連合軍の姉川の合戦での敗北へと進んでいくのです。
その後、朝倉義景は信長の大軍に抗することができず、拠点の一乗谷壊滅とともに滅ぼされてしまいました。
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