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歴史・人物伝~関ケ原編①関ケ原の合戦とは、どんな戦いだったのか?

日本史上最大級の内戦であり、戦国時代を代表する「関ケ原の合戦」は、単に勝ち負けだけではなく、その後の日本の歴史を作り上げていく大きな節目となった戦いです。

「歴史・人物伝~関ケ原編」では、徳川家康をはじめ、関ケ原の合戦にかかわった大名・武将たちを取り上げ、合戦に加わった背景や思いなどを私なりに書いてみたいと考えます。
前段となる第1回は、関ケ原の合戦を改めて解説いたします。

豊臣政権の要となった徳川家康

1598年に天下人・豊臣秀吉が死去します。後継者の秀頼は幼少だったため、5人の有力大名が「五大老」として政治を行い、秀吉側近の5人が「五奉行」として支えるという仕組みになっていました。

しかし、豊臣家ゆかりの加藤清正ら武闘派が、五奉行の石田三成らと深く対立し、武力衝突が起きかねない状況にありました。「五大老」で最大の実力者だった徳川家康は、その対立を自身の勢力拡大に利用したのです。

また家康は、「五大老」として同格だった前田家を「謀反の動きあり」として屈服させる一方、伊達政宗や福島正則らの有力大名とは婚姻関係を通して絆を作り、「敵味方の色分け」を進めていきました。

その一つが、「五大老」の上杉景勝(会津藩)の討伐でした。家康は、景勝にも「謀反の動きあり」と決めつけ、豊臣家の名のもとに自身の家臣団や有力大名ら大軍を率いて東へと向かったのです。

「関ケ原の合戦」はどんな戦いだったのか?

関ケ原の合戦が起きた慶長5年9月15日を時系列で追ってみましょう。なお「関ケ原編」では、徳川家康率いる軍勢を東軍、石田三成や宇喜多秀家らの連合軍を西軍と称します。

前夜に行動を起こし、未明から関ケ原に布陣を開始した西軍に対し、明け方には東軍が関ケ原に出陣します。両軍にらみ合いの中で、東軍の松平忠吉・井伊直政が先陣を切って戦いが始まったのです。

両軍合わせて20万近くの大軍勢で、東西ほぼ互角だったとされます。東軍は、徳川家康とその家臣団に加え、福島正則、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興ら豊臣家にゆかりの深い大名が付き従い、一枚岩で戦います

一方の西軍は連合軍だけに、結束には不安がありました。毛利軍を束ねる吉川広家は合戦が始まっても動かず、終始傍観者に徹したままでした。また、島津義弘も積極的に合戦に加わろうとしなかったのです。

勝敗のキーマンになったのが、西軍の小早川秀秋でした。合戦が始まって数時間後、小早川軍は東軍に寝返って西軍の大谷吉継軍を攻撃しました。これにより、西軍は壊滅状態に陥るのです。


次回は、徳川家康による上杉討伐軍出陣の頃に話を戻し、関ケ原の合戦に至るまでの人物群像を描いていきます。

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