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歴史・人物伝~信長飛躍編⑩足利義輝の悲劇と足利義昭の流浪

美濃攻略を果たした織田信長は、いよいよ京を見据えた行動に出ます。その前に、京の支配や足利将軍家がこの頃、どんな状況だったのかについて解説いたします。

信長が上洛して謁見した将軍は足利義輝でしたが、京の事実上の支配者は家臣の三好長慶でした。長慶の死後も嫡男の三好義継や三好一族、松永久秀らが実権を握っていました。

義輝が疎ましい存在となってきたため、三好一族は将軍の排除を企てます。1665年、将軍の屋敷に三好の軍勢が押し入り、義輝を殺してしまうという強硬な手段に出たのです。

義輝には、弟で僧籍にあった覚慶(のちの義昭)がいました。覚慶は三好・松永に命を狙われる恐れがあるとして、側近とともに逃亡します。最初に近江の六角氏を頼り、さらに越前の朝倉義景のもとに身を寄せるのです。

朝倉家は5代にわたって越前を支配する大名で、一乗谷(福井市)に大きな城下町を築いていました。義景が、京周辺で最も実力のある大名と見られていたことも、覚慶が頼った理由となったのです。

覚慶は還俗して足利義昭と名乗るようになり、義景に再三、自分を擁して上洛するよう求めました。しかし義景は動きませんでした。そこで、義昭が目を付けたのが、美濃まで台頭してきた織田信長だったのです。

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