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歴史・人物伝~若き信長編①信長の一代記を書いた男

「思い入れ歴史・人物伝」の本編スタートは、戦国時代を代表する英傑・織田信長から取り上げます。が、信長自身をストレートに紹介するのではなく、信長を取り巻く人たちの視点で書いてみます。

「信長公記」を書いた太田牛一とは

織田信長の一代記である「信長公記」は、織田信長の側近だった太田牛一という人が、江戸時代に入ってからまとめた書物です。事象や合戦ごと丹念にまとめてあり、信長を知る上では欠かせない史料となっています。

信長の側近なので、信長を賛辞する記述が多くなっていますが、豊臣秀吉の「太閤記」とは違い、創作はほとんどないと思われます。また、合戦の描写が正確で、史料的価値も極めて高いといいます。

太田牛一は、信長より5歳ほど年上で、信長が家督を相続した頃から仕えていました。戦場での活躍よりも、官吏としての能力に優れていたようです。信長横死後も、秀吉、家康の天下取りを見続けてきました。

現代に例えると、太田は「大会社の秘書兼ジャーナリスト」という感じでしょうか。丹念に記録を残し、分からないところは人に聞く、すなわち取材をして書き上げています。

あの名場面も「信長公記」に書かれていた!

若き日の織田信長が登場するドラマや映画で、必ず描かれる名場面があります。信長の名を世に知らしめた「桶狭間の合戦」に向かう前、能の「敦盛」を舞って自らを鼓舞するシーンです。

あのシーンはドラマの創作、もしくは軍記物からの引用だと思っていました。ところが、太田が著した「信長公記」の桶狭間の合戦の中に、こんな描写があるのです。

この時、信長は「敦盛」を舞った。「人間五十年、(中略)滅せぬもののあるべきか」と歌い舞って、「法螺貝を吹け、武具をよこせ」と言い(後略)
※地図と読む現代語訳「信長公記」より

太田の創作かもしれませんが、私は事実だと思っています。出陣前に信長が本当に舞ったからこそ、太田はあえて記録に残したのです。信長の死生観を今に伝える見事な描写ですよね。

「思い入れ歴史・人物伝~信長編」の執筆にあたり、以後も「信長公記」を参考にしたいと考えています。

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