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ころして(短編小説)

 
 
 私はビアンで双子の妹はバイで、両親には近い場所で独り暮らしをしていると言ってあるけれど実際はふたりで暮らしている。どうして両親に隠しているのかというと、私と妹のふたり暮らしが同棲であることを悟られたくないから。
 私は妹が好きで、妹も私と付き合うことは嫌じゃないらしく告白を受け入れてくれて、社会人になって初任給が出てすぐに一緒に住むことにした。
 妹の亜砂羅はすっごく美人だしスタイルがいいし人当たりもいいし音楽の才能だってあって、趣味で投稿しているボーカロイド曲がどれも動画サイトで十万再生くらいされている。時々、お金をもらって曲を作ることだってある。
 子供の頃にふたり同時に入ったピアノ教室。私も三日で音を上げなければ才能として育っていたのかなと思うけれど、たらればに意味はないし、私は続けていても亜砂羅のように真面目に意欲的には向き合えないから結局どうにもならなかっただろう。
 私は亜砂羅と違って、不真面目でだらしないから肌も体型も美しくなんてない。高校生のときはもっと朝から晩まで受験勉強とか頑張れたし、お洒落とかもしていたけれど、いまは社会人として容認される程度の身だしなみと気力が精々だ。
 それでも亜砂羅は私を愛してくれる。
「美智ちゃん自信がないだけですごく素敵だよ? 顔も声も可愛いし、他人の立場になって考えるのもあたしよりできるし、ものを選ぶセンスもいいし。美智ちゃんが教えてくれたアーティストに影響されて作ったらバズった曲もあるし。それに作ってくれるご飯とか外食より実家よりずっと美味しいじゃん。あたしなんてカレーすら不味くしちゃうのに。あたしとは違うほうに向いてるってだけで、美智ちゃんは素敵なところいっぱいあるよ」
 金曜日の夜、一緒の布団で私の髪を撫でながら言ってくれる亜砂羅。なんだか情けないなって思ってしまう。私はお姉ちゃんなのに。でもそれを言うと、亜砂羅はいつも、双子で恋人同士でしょ、と言ってくれるのだ。だから対等なのだと。
 私と亜砂羅は対等だろうか? 同じように二十五歳で、同じように大卒で社会人だが、亜砂羅のほうが給料のいい会社にいるし、音楽もあるから収入が多い。生活費は折半しているけれど、デートで遠くに行ったりいいお店で食べたりするとき、それは亜砂羅の稼ぎがいいおかげなのだろうと思う。駅に近いマンションに住めているのも、亜砂羅のおかげだろう。
「亜砂羅、私、亜砂羅が大好き。私は、亜砂羅が、大好き」
「知ってるよ。大好きだよ美智ちゃん」
 本当は、私は私より亜砂羅のほうがずっと素敵だと思うって言いたかったけれど。そんなこと言ったら、亜砂羅は私のために、私と亜砂羅が同じだけ素敵だということを説明してくれるだろう。そのために亜砂羅の頭を使わせて、言葉を選ばせてしまう。
 余計なことは言わない。それが大事なのはどんなときもそうだ。
 涙だって何かを語ってしまうから、私は泣くのを我慢しながら、亜砂羅を抱きしめて眠ることにする。私は明日も働かないといけない。
 
 
 冬の夜は寒い。仕事から帰る土曜日の夜は余計に寒くて、身勝手な事件による電車の大幅な遅延があったりするともう気持ちが極寒だ。
 ため息をつきながら午後十時、ようやく家に着く。出迎えてくれた亜砂羅からマフラーをもらう。手編みとかじゃないけれど、私の好きな紺色のマフラー。
「ありがとう、いま使ってるの古びてきたから。でも、」
 どうして、と言おうとして、背筋が寒くなる。亜砂羅はそれを察しているみたいに、温かい身体でぎゅっと抱きしめてくれる。頭の中がぐちゃぐちゃになりそうで、私は動けなくなる。
 今日は私達が付き合うことになった記念日だ。
 忘れていた。忙しくて。忙しくて? そんなの亜砂羅だって一緒だ。色んなことを考えてしまって? それだって亜砂羅もそうだろう。言い訳なんてできない。
 私が愚かで、無神経だっただけだ。私は亜砂羅が大好きで、亜砂羅も私が大好きで、でも私だけが、忘れていて。そうだ。覚えていたら、電車が遅れている間に何か買えたのに。そうだ、愛しているなら、遅れている間に何か買えばよかったのに。
「亜砂羅、その、私、私は」
「いいよ、美智ちゃん」亜砂羅は私の頭を撫でてくれる。「無事に帰ってきてくれてよかった。大きな怪我とかしなくてよかった」
 いっそそのほうがよかった、なんて思ってしまう。事件に直接的に巻き込まれて、意識不明にでもなるべきなのだ、私なんか。亜砂羅はそんなこと言ってほしくないだろうし、それに被害者の気持ちを考えたら、口が裂けても表に出せないけれど。
 廊下からリビングに入ると、亜砂羅は冷凍のパスタを加熱して、チーズとワインを用意して、一緒に食べてくれる。こんな私のために待っていてくれたのだ。亜砂羅はそういう子で、その優しさもすごく好きだし、しんどい。
「美味しいよ、亜砂羅」
「美味しいねえ。このパスタ初めて買ったけど、よかった」
 亜砂羅は幸せそうに言う。
 家の中でどんな風に過ごしていたのか訊くと、日中はマフラーと食材を買ってから、ふとラブグッズを買いに行ったりもしたそうだ。食事中なので後で見せるね、と言われて少し緊張する。
 食後、一緒にお風呂に入って布団に包まる。
「ねえ、明日、デートしよ」
 色々と奢るつもりで、そう提案した。会社からの給料の支払いが遅れているから、自由に使えるお金はあまりないけれど、私だけが貰いっぱなしというのはやはりよくないと思ったから。
 すると亜砂羅は、ごめんね、と断った。「明日は産婦人科にお薬もらいに行く日なのと、夕方に作曲依頼のほうで打ち合わせの予定が入ってるから……来週ね」
 そうだ、と私はまた息が詰まる。それはたしか、一昨日の昼くらいに連絡してくれていたことだ。記念日に続いて伝えてもらっていた予定まで忘れているなんて、私は本当に、本当にどうしようもない。自分で自分が信じられない。
 私は亜砂羅のことを本当に愛しているのだろうか? 愛を行動で証明できているのだろうか? 亜砂羅はどうして私の愛情を信じてくれるんだろう、と気になるけれど、訊かない。その代わりに、
「愛してる、亜砂羅」
 と伝える。
「愛してるよ、美智ちゃん」
 と亜砂羅は言って、温かい身体で抱きしめてくれる。
 亜砂羅は愛したら愛してくれるし、不安を察したら解消するために頑張ってくれる。だからこそ、なるべく不安を伝えたくない。申し訳ない。
 
 
 翌朝、何もしないというのは自分で自分を許せないなと思う。私は産婦人科まで一緒に行って病院の前で別れ、亜砂羅が処方をされている間に近くのスーパーで買い物をする。それから一緒に帰宅して、亜砂羅が依頼主とビデオ通話で打ち合わせをしている間に、亜砂羅の好きな料理をいっぱい作り始めた。
 夕食のとき、亜砂羅は幸せそうに食べてくれる。笑顔が嬉しいし、亜砂羅の幸せを作ることができた事実にほっとする。私はほんの少しだけ私を許せる。
「ねえ、明日は何を食べたい?」と私は訊く。
「寒いから一緒に鍋しようよ」と亜砂羅は答える。
 いいね。
 帰路も食卓もお風呂もベッドも一緒にできて、私なんかが味わっていいかわからないほど幸せだが、心の隅で、やっぱり当日に覚えていなかった咎はどこにも行っていないと思う。
 亜砂羅がきっと抱いていた、私はそういうことを覚えているだろう、という信頼を裏切ってしまった事実は変わらない。埋め合わせられてなんかないんじゃないか、穴の手前に遮蔽物を積んだだけなんじゃないか。
 私は亜砂羅の腕のなかで、昨日忘れてごめんなさい、と言う。すると亜砂羅は笑う。
「怒ってたら抱きしめてないよ。あたし、機嫌いいフリなんてできないもん。今日、こっちに合わせて色々してくれて、美智ちゃんのおかげで幸せだよ」
 にこやかな唇に私はキスをする。深いキスをするとき亜砂羅は目を瞑る。その間に私は静かに、少しだけ涙を流す。唇を離してからすぐにハグをする。バレないように。苦しみや不安を隠しながら、愛だけを伝えられるように。
「大丈夫だよ。全部大丈夫だよ」
 と私の背中を撫でながら言う亜砂羅は、本当は気づいているのかもしれないが、抱きしめているせいで顔が見えない。寂しい。
 
 
 いいことのあとに悪いことが起こるようにできている。月曜日、出社すると、社長が酒気帯び運転で三人死なせてしまって逮捕されたと聞かされる。給料の支払いが遅れるような経営状態でそうなってしまったから、そのうち倒産になると思って準備したほうがいいらしい。
 これからどうしよう、どうすればいいんだろうと思っていると、男性社員のひとりの取り乱す声が聞こえてきた。たしか既婚者で、先月くらいに妊娠が判明したとかで祝われていた人だ。突然の逮捕と倒産に、人生設計が狂ってしまうのだろう。他の社員達も、不安や焦りでいっぱいみたいだ。
 そうだ、と思う。私はまだ幸せなほうなのだ。折半しているマンションの家賃をどうにかできればいいのだから。私はまだマシなほうなのだ。若いし持病もない。客観的にそうなのだ。
 大学受験のときだってそれで頑張った。私よりも大変な環境で同じ大学を目指している人もいるはずなのだし、そもそも大学受験をさせてもらえない人だっているのだから、私は幸せなのだから頑張らなければと努力して、ちゃんと家族で一番いい大学に受かった。
 そんな風にこれからも頑張ればいいだけだ。
 だからこんなに息が苦しくなることないのに。
 会社を出て鍋の具材を買うとき、私はスーパーで歩みを止めてしまう。こんなところで停まったら邪魔なのに、動かなきゃ、早く買って帰らなきゃって思っているとスマホが振動する。
 出ると実家の母だ。どうやらニュースか新聞の報道から、私の勤める会社の経営者が逮捕されたと理解したようだ。大丈夫なのか、実家に帰るのかと訊く母に、大丈夫、どうにかするから、と返事をする。私は亜砂羅とまだ住んでいたいし、色々と、どうにかするしかない。
 母は言う。『キツかったらいつでも帰ってきていいからね、そんなのしょうがないんだからさ』
 その言葉をもらえるのも、それで少し温かい気持ちになれるのも、実家との関係が悪くない証拠だよなと思う。世のなかには、職を失ったとしても実家が存在しないかロクなものじゃない人だってたくさんいるんだ。私はまだ幸せなほうだ。
 私はだから頑張らなきゃいけない。恵まれているのだから、不幸じゃないのだから、可哀想ぶって怠けてはいけない。支えられているのだから前を向かないといけない。そうだ。ぼうっとしている暇はないのだ。とりあえず鍋を作って食べて、お腹いっぱいになったら考えよう。
 具材を買い込んで家に帰る。先に帰っていた亜砂羅に起こったことを話すと、すごく驚かれる。使えるらしい制度の話をしながら鍋を作る。
「それでもきっと、金銭的に迷惑をかけるかも。何があるかわからないし。ごめんね」
「いや、有事だし……迷惑くらい、かけてよ。美智ちゃんは美智ちゃん自身のことだけ考えてて。なんなら、色々と足りなかったら少し貸してもいいよ?」
「いや……最終手段くらいで。とにかく早く再就職の目途をつけるね」
「そっか。美智ちゃんの気持ちは尊重するね。まあ難しい、重たいことは食べてから考えよ」
 鍋は温かい。美味しそうに食べる亜砂羅を見ていると元気が出る。この暮らしを続けるために私は頑張らないといけない。本当に、せっかく恵まれているのだから。
 
 
 二月には正式に無職になる。がむしゃらに応募してみるけれどなかなか採用してもらえない。亜砂羅から資格があったほうがいいと言われたので三月からは並行して事務関係の資格勉強も始めた。
「どっちかに絞ったほうがいいんじゃない?」
 と亜砂羅は言うけれど、私は再就職をしたい。亜砂羅に負担をかけたくないから。実家の母も安心させたいから。それに私は自分が無職である現状が許せない。その状況にある私という存在に価値を感じない。
 というような理由はもちろん伝えず、「ありがとう、でも大丈夫だよ。器用にやれるから」とだけ言う。亜砂羅に負担をかけたくない、なんて言ったら亜砂羅は気にしなくてもいいのだと丁寧に説明してくれるだろうから。
 負担をかけられてもいいって思ってくれていることくらいわかっている。わかっていても気になるし、そこで気にせず負担をかけるような自分でもありたくない。
 でも亜砂羅は正しかった。私は器用じゃなかった。面接や採用試験への対策をきちんと練れていなかったから内定が出ないまま、資格試験も自信を持てる回答ができずに終わってしまった。資格を取るのにも面接に行くのにもお金がどんどん減る。どうして転職にこんなにお金がかかるんだろう?
 それだけ私の元々の価値が足りなかったのだろうか? 否定できない。もう第二新卒でもないのだ。私の無価値さなんて私が一番理解しているけれど、私以外にだって余裕で理解できるんだろう。それなのに価値のある人々と見比べられるなんてたまったものじゃない。暗澹たる気持ちだ。
 とはいえ私の話はそろそろどうでもいい。お金の話をしないといけない。もう四月中旬で、貯金と呼べるほどなかったお金も尽きたし、なんか制度で申請したぶんの未払賃金がまだ来ない。資格勉強どころか諸経費も払えない。年金もいつまでも待ってはくれないだろう。
 私は人生初のアルバイトを始める。隣駅にあるお店で接客業につく。週六で八時間働かせてもらえないかと訊くと歓迎してもらえて、なんとなく自分に価値がある気がしてくる。バイト先に設楽さんという優しい先輩がいて、二歳下だが高校時代からのベテランとのことでプロの動きだ。
 初出勤は日曜日で、色々と教えてもらいながら頑張っていると亜砂羅がやってきてくれる。制服姿の私をにこにこと眺めながら、飾れるものを買って帰る。
 私が家に帰るとテーブルの上にとんと飾られていて、亜砂羅はそれを眺めながら笑顔だ。久しぶりに働いて疲れているだろうから、と亜砂羅は袋麺からラーメンを作り、ゆで卵とハムとネギを乗せて出してくれる。小さい頃、留守番をしながらよく一緒に観たアニメ映画を思い出す。
「亜砂羅、盛り付け上手になった? ネギもちゃんと切れてる」
「本当? 成長してる?」
「してるしてる」
 撫でてほしそうにしていたので、私は亜砂羅の綺麗な髪を手のひらでさする。亜砂羅が愛しい。
 私は亜砂羅と過ごすこの時間を、この世界を守りたいし、この素晴らしい妹の恋人として胸を張れるようになりたい。双子の姉妹での交際という、他人様には言いにくい恋愛なのだから、せめて自分自身に説得力を与えたい。
 
 
 思っていたより上手くできない。思っていたより声が出ない。あれ、前職で電話対応とかもやってたはずなのに……。新人として仕事をするのも久しぶりだし、目の前に顔があるとまた緊張感が違う。自分と同じ背丈の人も頭ひとつぶん違う人も来る。
 電話越しと違って、聞き取れなかったときもう一度言ってもらうときのハードルも高く感じるし、知らない暗黙の了解みたいなものがあるらしい常連のお客様が、そういうの私も知ってる前提でやり取りをしようとするので遅延する。謝る。
 少しあとに設楽さんは言う。
「接客業、初めてですよね。覚えていけばいいですし、忘れちゃったり混乱しちゃったりしたら頼ってください」
 早く覚えなきゃって思う。早く覚えなきゃって言葉で脳を埋め尽くして覚えにくくなる。途中で接客や商品探しが入るから余計に飛んでいく。私はいい大学を出たのだし三年くらい会社員をやっていたはずだけれど、どうして、こんなに覚えられないんだろう?
 そういうのを四日連続でやっていると、家に帰っても暗い気持ちになってしまう。でも、亜砂羅のご飯を作らないといけないからそれだけを考えて取り組む。そうなると勉強なんてできなくなってくる。生理も来る。髪と顔だけ洗いながら私は数秒泣く。声はシャワーでかき消す。
 トイレの消音装置みたいだなって思う。やるせなさの排泄。
 アルバイト五日目、三日前に入ってきた高校一年生の女の子が私よりテキパキと動いてガシガシ覚えられるようになっていて、接客業が初めてだとかまだ五日目だからとか言い訳にならないな、頑張らないと、と私は気合いを入れる。薬なら飲んだ。
 気合いは空回る。忘れたときも混乱したときもひとりでどうにかしようとして、お客様にも高校生の子にも迷惑をかける。設楽さんに事情を話しながら、頼れって言われたのに、年上なのに、軽蔑されてしまう、なんて思う。
「焦らないでいいですから、ね」と設楽さん。「わたしだって独りである程度こなせるようになるまで一か月くらい掛かりましたし。頼ることを覚えてください。気をつける、ちゃんとやるってことは、ちゃんとした結果になるように努力するってことで、誰かを頼ることもその努力の一環ですから」
 設楽さんは優しい。亜砂羅がここにいても同じことを言いそうだ。私は優しい人に優しい言葉を考えさせてしまった。心が重くなる。頼ることも心苦しい。でも遠慮してまた設楽さんに迷惑をかけてしまうわけにはいかない。
 その日の夜に亜砂羅に言われる。
「明後日って休みだよね、美智ちゃん」
「え、うん」明後日って何かあったっけ、と思いかけて思い出す。「誕生日でしょ、私達の」
「そうそう。お祝いしよ、一緒に」
「……お金あったら、いつもみたいに外で食べに行けたのに。ごめんね」
「気にしないで、美智ちゃんずっと頑張ってるんだから。それより」亜砂羅は私の作った肉うどんを食べながら言う。「誕生日ケーキ、一緒に作ろう」
「……明日、帰りに材料買ってくるね」
 そしてアルバイト六日目、設楽さんがいない。今日は一日シフトを入れていないらしい。設楽さんとばかり話していたから、他のスタッフの名前を碌に憶えていない……! それに私以外は高校生の子と男性しかいない日で、余計に話しかけづらい。
 私はたまにメモと睨めっこをしながら働く。今日はなんだか平和というか、失敗はしたけれど自分でリカバリーして報告をすればいい程度だった。スタッフルームで着替えていると、高校生の子とふたりっきりになる。首元にキスマーク隠しらしきものを見つけて、わあ、と思う。
「なんですか?」視線に気づかれて訊かれる。
「あ、えっと、その」迷った挙げ句、正直に言う。「き、キスマークかなって」
「え、ああ。彼氏ですね、あはは」高校生の子は照れたように言う。「てかそれならそっちもついてるじゃないですか」
「え? い、いつの間に」
「嘘ですよ」と笑われる。「そっちも彼氏さんですか?」
 彼氏じゃなくて彼女、なんて、関係の浅い状態で、ふたりきりで言うことじゃない。怖がられたら居心地がさらに悪くなる。「まあ、そんな感じ」
「そうなんですかー。まあこっちの彼氏っていうの嘘ですけど。虫刺されです、ただの」
「えー……あはは」なんか面白い子だなあと思う。仲良くなりたい気がする。「嘘ばっかりだね」
「本当のことなんて言いませんよ、どんくさい大人って嫌いなんで」
 高校生の子はスタッフルームをすたすたと出て、お先に失礼します、お疲れ様ですと言いながら店を出る。私は着替えている途中で止まってしまう。どんくさい大人。何も間違っていないな、と呟くしかなかった。
 着替えを終えて、スーパーでケーキの材料を買う。家に帰りながら、昔からよくマイペースって言われてきたけれど、あれってどんくさいってことだったのかな、と思う。マイペースと言われる人で、速いという意味でマイペースな人はどれだけいるんだろう。
 ああ、なんか、もう。
 亜砂羅は家に入った私を抱きしめて、六連勤お疲れ様、と言ってくれる。心身へとへとだったので玄関でもたれかかるように抱き返してしまう。私には愛くるしい亜砂羅がいる。亜砂羅がいるのだから不幸せじゃない。これくらいで全部嫌になるなんてもったいない。
 少し回復したら晩ごはんを作る。MIDIキーボードにかじりつくように、依頼された曲の編曲をガーっと終わらせている亜砂羅を待つ。終わったらしい亜砂羅が吸い寄せられるように食卓につく。可愛い。いただきます。
 美味しい、と亜砂羅が笑ってくれるから、よかった、と思う。自分でもどうしてこれだけできるのかわからないけれど、ご飯だけは上手く作れて、本当によかった。
 これができなかったら、もう、私なんて、ねえ?
 
 
 朝起きて、お誕生日おめでとうを言い合ってキスして、一緒に朝風呂をして身体を清潔にする。朝ご飯を食べて体力をつけたらケーキ作り開始。材料や道具を取ってもらいながら私は真剣に作る。亜砂羅への愛情と、日々が続いてくれますようにという祈りを込めて。
 完成する。粗熱が取れたら冷蔵庫に入れておいて、洗濯物を干して炊飯器をセットしたら、ふたりで散歩に出かける。
 最近は働いてばかりで焦ってばかりだったから、ゆっくりと散歩をする時間が新鮮だ。もう葉桜ばかりになってしまったけれど、どんな植物にも美しさがあるし、観察は楽しい。亜砂羅の鼻唄を聴きながら、太陽と手のぬくもりを感じる。
 歩いているとやがて駅に着く。クーポンもあることだしとカラオケに入る。亜砂羅の作った曲が、提供曲も含めていくつか登録されていたので歌ったり歌ってもらったりする。亜砂羅はボーカロイドでの音源しか投稿をしていないから、私だけがセルフカバーを聴けているんだな、と思うと少し優越感。
 カラオケを出ると夕方。お気に入りの焼き鳥屋さんでたくさんテイクアウトする。亜砂羅が奢ってくれて、申し訳ないなと感じていると、
「ケーキ、結局は美智ちゃんが大半作ってたでしょ? だからこれでとんとんだね」
 と何も言ってないのに説明してくれる。
 家に帰って、ご飯と焼き鳥とお酒で夕食をする。乾杯。デザートとしてケーキを食べる。蝋燭を立てたりしないのは単に買い忘れたからだけれど、なくたって温かいし、嬉しそうにケーキを眺める亜砂羅がきらきらしているから、他の光なんて余計だっただろう。
「大好きだよ。いつもありがとう」
「こちらこそ、一緒にいてくれてありがとう。大好き」
 私はとても幸せで、色んなこと、頑張らないとって思う。挫けずにやっていかないといかなきゃだめだと思う。こんなに幸せで、それを続けたいのなら。
 食べ終わってお皿を洗ってから、亜砂羅はMIDIキーボードの前に座る。ピアノの音を鳴らす。『ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー』を弾き語り始める。コードが美しくリハーモナイズされていてかっこいいし、途中なんだかジャズっぽい間奏も足されていてちょっと笑う。お酒がすすむ。
「はっぴばーすでー美智ちゃーん」と歌い終えた亜砂羅に拍手を送る。亜砂羅は照れたように笑ってから、私を手招きする。「美智ちゃんも弾いてみて」
「え。いや、そんなかっこよく弾けない」
「いいからいいから。メロディだけでいいから。ふふ」
 私はおずおずと椅子に座る。亜砂羅のぬくもりが残っている。というかピアノなんて触るのも十何年ぶりかで、ピアノ教室でも碌に覚えられないで辞めたから、……音階どれがどれだったっけ? メロディは、言えないけど弾いてれば思い出すかもしれない。私はとりあえず白鍵に手を置く。
 なんか違う感じの音がする。最初もっと低くなかった? 一個ずらすと、なんとなくここな気がする。次は何を弾けばいいんだっけ。ひとつ高い音もふたつ高い音も違って、同じ音を二回ほど鳴らすとしっくりくる。次は確実に高い音だったはず、と指を動かす。高すぎる。
 亜砂羅の視線を、感じる。息が、少し、苦しく、なる。短い曲で、有名な曲で、きっと簡単な曲だから、私に弾かせている、のだろう。口出しをせずに、見守っているのだろう。なのに私は、上手く掴めない。助けて、って言いたいけど、言ったら、悲しい声になってしまいそうだ。
 嫌だ。
 泣きそうになってきた。こんなことで。たかが『ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー』の弾き方がわからないだけで。こんなことで泣いたらいよいよ空気が辛くなる。誕生日が台無しになる。私が台無しにする。大丈夫だ。大丈夫だ。ちょっとずつ正しい音の順番を探れているじゃないか。
 泣いちゃ駄目だ。
 泣いちゃダメだ。
 泣いちゃだめ。
 泣いちゃ。
「あ」
 吐いた。
 私は私でもよくわからない仕組みで嘔吐してしまった。
 亜砂羅のMIDIキーボードにぶっかかる。理解して青ざめる。亜砂羅の楽しみのためのもの。お金をもらう道具でもあるもの。楽器を汚した。機械を壊した?
 亜砂羅の顔を見るのが怖い。誕生日なのに。恋人のものに、妹のものに吐いたりして。最低だ。
「美智ちゃん!」亜砂羅は言う。私の背中を擦りながら。「大丈夫!?」私の顔を覗き込んで。怒ってるとかじゃなくて、ただただびっくりして、心配という表情。そうだ。亜砂羅はこういうとき、私を純粋に心配してくれる。悪気がなさそうなことに怒ったりしない。優しいから。亜砂羅は素敵だから。
 大丈夫、と言わなきゃ。違うか。ごめんなさい、だ。亜砂羅が怒ってなくたって亜砂羅に被害を与えたことに変わりはないし、謝らなくていいわけない。震える身体で、口で、私は言う。愛しい彼女に。愛すべき妹に。
「ころして」
 え?
 なんて言った、いま、私は。ごめんて? 違う。言えてない。わかってる。私は私の言葉に、そんな言葉をいま亜砂羅に、投げかけたことに、驚く。血の気が引く。寒くてしょうがない。「なんでもないそれよりごめん飲みすぎたかもタオルどこだっけ」とまさに口走るって感じでなかったことにする。
 なかったことにならない。椅子から立ち上がった私の手首を亜砂羅は捕まえる。やめてよ。
「美智ちゃん。逃げないで」
「亜砂羅。ごめん。ごめんなさい。拭かないと。臭くなっちゃう」
「そんなんいいから」亜砂羅は私と目を合わせる。綺麗な瞳。綺麗な顔。綺麗な髪。「……ずっと何か我慢してた?」
 ばれた。ばれてしまった。隠していた言葉が、耐えていた気持ちがあること、一番、唯一、ばれてほしくない人に、ばれてしまった。駄目だ。
 死にたい。
「亜砂羅、私を、ころして」それから私は続ける。「うそ、別れて」
「どうして?」亜砂羅は言う。「どうしてそうしてほしいの?」
 なんでそうしてほしいんだろう? 私は言葉につまる。わからないのは、理由じゃなくて、説明の仕方。黙りこくる理由を見透かして、亜砂羅は私を抱きしめる。心臓の裏面がどこにあるか知ってるみたいに、背中に手を置く。
「上手く言えなくていいから。終わるまで黙って聞くから。あるもの、全部、吐いて」
「私は何も上手くできなくて素晴らしい亜砂羅に迷惑をかけてばかりで愛している癖に記念日だって忘れてしまうし亜砂羅だけじゃなくて色んな人にずっと迷惑をかけてきたし失敗ばかりだし少ない稼ぎがさらに減るし美しくなくてすぐにうじうじとしてしまって面倒臭くて気持ち悪くて最悪だから生きてちゃ駄目で死んだほうがいいと思いながらそんなことを考えてはいけないこともわかってる私なんて五体満足で生まれてきて大した持病もなくて環境に恵まれているのだからそれなのに人生を捨てたいなんてもったいなくて前を向いて生きないと駄目なのに命は大切にしないと駄目なのにもっと辛い境遇で頑張っている人もいるのだから私も頑張って生きなくちゃ駄目なのに理解している癖に死にたいなんて考えをやめられない馬鹿だからこんなやつ最悪の馬鹿じゃんって自分で自分に思わざるをえなくて自分の生きる価値がわかんなくなっちゃってそれでも死んだらお父さんもお母さんも悲しむし亜砂羅だって悲しむってことも知ってるしそれだけの愛に囲まれているのだから愛されているのだから生きる方向に舵を切るべきなんだけどわかってんのに奮い立たせてもちょっとしたことですぐに死にたくなってしまうのが本当にどうしようもないからこんなことで死にたくなるような雑魚は死んだほうがいいって自分に思ってしまう自分なんて死ななくちゃいけないんだけどこんな風に塞ぎこんでいるときの苦しさにどこか酔っているところもあるんじゃないかと気付いていてマジで愚かでますます自分が嫌いになっちゃってだからどうせ死ねない死にたさを抱えているせいで上手くできないまま失敗と劣等感を積み重ねて生きていくくらいなら亜砂羅に介錯されたいけど亜砂羅は素晴らしい女性で素敵な才能と美しさを持っているから私なんかのために前科者になってしまうなんてあってはならないしそんな素晴らしい女性が私なんかと付き合っているなんてよくないんじゃないかってしかも姉妹なんて理解されにくい関係で付き合っているから親にすらカミングアウトできないんだし亜砂羅はバイだからきっと男性と付き合ってもよかったんじゃないかって記念日に買ってきてたディルド見て感じたしそう思うとたまたま一番近くに生まれただけの私なんかが他の可能性を奪ってしまったんじゃないかって考えてしまうから罪悪感が重たくてそんな風に気にして気にしてしまう私だから亜砂羅にいっぱい慰めさせてしまうわけで別れたほうがいいけど亜砂羅はそんなの駄目って言って愛してくれることくらいわかってるよずっと一緒にいるんだから全部わかるのわかった上でそれでもころしてほしいも別れてほしいも止まらないからずっとおさえてきたんだけど結局こんな風に伝えてしまうのだからどうしようもないよね生きていちゃ駄目だってまた思ってしまうから私のために私をころすか亜砂羅のために私と別れるか選んでください」
 だくだくと流れる言葉をすべて吐き出しながら、ああごちゃごちゃだな、と私は思う。本当の感情は複雑に絡み合っていて区切りがわかりにくくて、ずっしりと水を吸って重たい。こんなもの受け止めてもらおうなんて傲慢だ。やっぱりもっと整えて、短くできるまで待ってほしかった。
 ぐちゃぐちゃになった言葉を、ゲロ臭いだろう口から発しながら、ぼこぼこに泣いて震えてしまっていて、私は本当に惨めだ。情けない。醜い。大嫌いだ。そのくせどこかで、それでも抱きしめていてほしいなんて思っている。みすぼらしくて欲深い。自分で自分の首を握って胸を貫いてしまいたい。
 言いたいだけ言って、嗚咽することしかできない私の頭を撫でながら、亜砂羅は言う。
「聞いたし考えたけど、よくわかんない。よくない? 別に、死んでも」
「えっ」
「美智ちゃん、死ぬなんて駄目、死にたいなんて駄目って気持ちが強いんだと思うけど、別にそんなことないんだよ」亜砂羅は抱擁を解いて、私の双肩に手を置く。「やっちゃ駄目なことなんてないとあたしは思う」
「……どういうこと」
「そのまま。生きちゃあ駄目、死んじゃあ駄目、なんてないと思う。どんな人でも生きていいし死んでもいいんじゃないかな」
「亜砂羅は、私が死んでもいいの?」
「悲しいし寂しいし辛いだろうね、超。でも誰かがよくない気分になるからやっちゃいけないなんてことないと思う。どんなことにも結果があって、いい反応や悪い反応があって、それらは自分や誰かの今後を決めるけど。得たり失ったりするけど。失うから駄目、悪い反応があるから駄目、じゃないよ」
「よくわかんない」
「たとえば女同士で、姉妹同士で同棲していてすごく幸せだけど、知られれば悪い反応をされるかもしれない。友達を失うかもしれない。でも駄目なことなんてあたしは思わないよ、だって幸せだし。美智ちゃん可愛いし。他の人なんてありえないし、そんなこと考える気分にもならないし」
 亜砂羅はそう言って私にキスをする。吐いたばかりの、うがいをしていない口に舌を入れてくる。後頭部を強く抑えつけられていて、亜砂羅は幸せそうに目を閉じてキスを堪能していて、私は何もできず蹂躙される。口を離した亜砂羅は、不味いだろうに愉快そうに笑う。
「こんな風に突然キスするのだって、付き合ってるとはいえ、よくないことだよ?」
 こっちが嫌じゃなかったことを知った上でそんなことを言う。
「ねえ、美智ちゃん。あたしはね、どんな人でも生きていていいと思う。同時に、死んでもいいと思う。したいようにすればいいし、したいなって気持ちも自由に抱いていいと思う。色んな気持ちが溜まっているなら、甘えたかったり許されたかったりするのなら、正直に自由にしていいと思うよ」
「でも、私、亜砂羅に、慰めるために言葉を探させたり、優しく振舞おうって気持ちにさせたりするのが、そうやって私の気持ちのブレのために頭を切り替えさせてるかもしれないのが、すごく、申し訳なくて」
「したいようにすればいいって思ってるあたしが、したくないことしてると思った?」と亜砂羅。「美智ちゃんを慰めるのも甘やかすのも、したくてしてるんだよ? そういう風に、あたしは美智ちゃんが大好きなんだよ? 気を遣わせてよ、あたしの気は美智ちゃんのためにあるから」
「……亜砂羅」
「で、したくないことはしないから、ごめんだけどディルドは捨てないよ? 別に勝手に捨ててもいいけど喧嘩するの我慢しないからね?」
 そんなに気に入ってるのかよ。
 大好きな私と喧嘩してもいいほど気に入ってるのかよ。
 なんだかマジでそう思ってるんだなって思うと、私はちょっと笑ってしまう。
「別に私も……ここまで聞いたら、それ気にしていたの馬鹿みたいだなって思ったよ」
「そっか。でも気にしちゃ駄目なこともないから、なんでも気にしていいし、訊きたかったら訊いていいよ。いつ何をどんな風に訊いても、美智ちゃんの声、好きだから嬉しい」
 不安を丁寧に潰されて、私は何も言うことがなくなる。もう大丈夫になったから、もう大丈夫だと言うと、MIDIキーボードを今更ながら拭いて(臭かった)、買い替えるかどうかの判断をいまはせず、お風呂をすることにする。私の服にも、私を抱きしめた亜砂羅の服にも付着していたから。
 ぼんやりとした温かさのなかでたくさんキスをして、お誕生日おめでとうを言い合って、ふざけたことも言い合って、お湯もかけあう。
 ほかほかの身体で私は、やっぱりどこかで身に余る幸福だと捉えているが、私はその卑屈さを咎めない。咎めちゃ駄目だからじゃなくて、それは事実だから。
 身の丈に合った幸福なんか、きっと誰も持っていないのだ。どちらの意味にせよ。
 ……なんて薄っぺらい、根拠のない言い切りで自分を納得させるなんて駄目かもしれないけれど、亜砂羅いわく駄目なことなんてないので、たまにはいいんじゃないかなと思う。
 ……というかどうあがいても明日からまた六連勤なんだから、これくらいの自愛は許されたい。許さなきゃ駄目とは、言えないけれど。



二年位前に書いたTwitter小説です。もしもXに何かあったら消えるんだよな……と思ってnoteにも載せてみました。

ちなみに天中殺少女という女性同士の関係中心の純文短編集にも収録されています。


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