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多様性を認めないことも多様性?

 会社でダイバーシティ川柳の募集があった。目的は、ダイバーシティの理解を深める、考えるきっかけを作る、そんなだったと思う。みんなダイバーシティに関する5・7・5を考えてみてね。出揃ったら投票して、いいものは貼り出すよ、役員賞とかもあるよ!みたいな感じだった。

 わたしは間に合わなくて応募はできなかったけど、投票することができた。特設ページには、30〜40個ぐらいの川柳が並んでいた。ふんふんと読みながら、いいなと思うものをいくつか選んで投票した。やっぱりおぉ!と思うものはそんなにはなくて、みんなの票が固まったのか、わたしが投票したものの1つはいま各フロアのエレベータを降りたところに貼り出されている。それはいいんだけど

その中で出会った、ぜんぜん良くない一つの川柳
「多様性 認めないことも 多様性」

 その時は、こういう場所でこういうことする人って寂しいのかな。とか、よっぽどなんか多様性関連で嫌な思いしてんのか、一体この人になにが?と思って流していたけど、何日経ってもこのアンチ多様性川柳を忘れることができなかった。

 それは、わたしが「なんでこの川柳がダメなのか」説明できなかったからだと思う。多様性を大切にする社会では「多様性を認めない」という価値観も尊重されるんだろうか。いやでも、それだとなんというか「多様性を大切にする」という大テーマに矛盾してしまっておかしい。だけど、「多様性を重んじないお前はダメだ!」と言ってしまったら、ある1つの価値観をそうやって否定してしまったら、「多様性〜みんな違ってみんな大事だよ〜」みたいな優しい世界が崩れてしまう。もしかしてこれが多様性のパラドックス…
こんなふうに、ぐるぐるお風呂の中で、電車の中で、エレベータ横の正しい川柳を見るたびに考えてました。

 これについて、わたしは先日1つの結論に達したから書きたいと思う。

 わたしは大きな勘違いをしていた。「多様性〜みんな違ってみんな大事だよ〜」この部分、この部分が間違っている。わたしは「多様性」というワードを「差別のない世界〜」みたいな暖かいイメージで解釈していた、だけど本当はそういうことじゃないんだと思う。

 多様性という言葉を調べると、「多様性(たようせい、英: diversity)とは、幅広く性質の異なる群が存在すること。」とある、wikipediaより。
そう、多様性という言葉に持たせられている意味は「存在すること」だけなの!その状況を指しているだけ。そして、多様性のメリットとして一般に言われていることは「革新性、創造性の向上、働き手の減少に対応、会社のイメージアップ」。ここに差別がダメとか、どんな人も受け入れるみたいな概念はない。わたしが勝手にそういう概念を一緒くたにして勘違いしていただけと気づいた。

 企業は、お好みのバランスでお好みの多様さで「多様性」をもった職場をつくる。要らない個性を持った人は排除する。入社試験で、役員面接で。
 女はこのぐらい入れよう、こういう身体的特徴を持った人は入れておこう、この個性はいらない。そして、「健康な体を持った異性愛者の日本人男性」いがいの人にも働きやすい職場を提供する。お祈りスペースを作って、バリアフリーにして、育休が取得できるようにして。

 「多様性がある会社」は、ただ「多様性がある」だけだ。みんなに優しいユートピアではない。その選ばれた人々が生きやすくなるように配慮されるかもしれないけれど、選ばれなかった人々が生きやすくなるようになんてことは考えない。差別がゼロになるように、そんな概念は「多様性」には荷が重い。

 だから、「多様性 認めないことも 多様性」は、間違い。この人の意図を補足すると、「この会社には多様性が必要ということを認めないわたしも多様な個性のうちの1つとして認められるべきだ」ということになるけど、会社は「多様性が必要」という判断をしているので、この人の個性はいらない。

 地域や国や世界でも同じような部分があるような気がするけど、まだ考えがまとまらないので会社の話だけ。

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