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「犠牲」という言葉

少し前、仕事で一緒になった人に言われたある言葉がある。後になって妙に引っかかるなと思い始めた。

その人は同郷で同業者の人だった。父親の会社を継ぎ、次期社長である。同年代で背も高く容姿端麗だ。東京で展示会があると、時々一緒になる。仕事も頼んでいてビジネス上の付き合いもある。知り合ってからももう長くなった。

人当たりもよく、優しい人ではある。表面上は。ただフラットに話はするけれど、どこか腹の底で何を考えてるか分からないな…という面もちらちらとあった。ちょっとどこか付き合いにくさがどこかにあった。実際に私の会社の人もそのようなことを言っていたりもする。まぁ仕事上の付き合いだからそんなもんだろうと深くは考えていない。その人は結婚し2児の父でもある。

この間、久々に展示会で一緒になり、昼ご飯行きましょうと2人でランチへ行った。当たり障りのない話、ちょっとした身の上話、もっぱら仕事の話が多かった。ちょっと探り合いをするような感じもありながら。

そして会う度に年齢を確認される。そして、今1人暮らしでした?から、結婚はしてないんでしたっけ?という質問までに至った。私は正直に答えた。1人暮らしだし、結婚もまだなんですよと。

「 人手不足じゃないですか?」

「 そうですね、なかなかいませんね、若い人は特に。」

同郷の人手不足について質問した時、彼はそう答えた。そしてこう続けた。

「 若い人もだし、やっぱり何かを犠牲にして仕事をしようという人もいないですよね。Nicoさんみたいに。犠牲にしてきたでしょ。大きな仕事もやってるし。」

とても穏やかで丁寧な言い方だった。決して嫌味っぽく聞こえなかった。だけど、「犠牲」という言葉が引っかかった。

「 そうですか、なかなかそういう人はいないですよね。」

若干、適当に返事をした部分はある。

そして段々と「犠牲」という言葉がじんわりと、小さな棘のように突き刺さった。あぁ私は何かを犠牲にして仕事をしていると思われているのかと。一度もそんな風に考えたことがなかった私には、ドカンと大きな言葉ではなく、じんわりと後からチクチクくるような感じだった。

同郷の人からすると、私と同年代の女性はみんな結婚して子供もいる。当たり前のようにそうだ。もはや東京に出て仕事をしてるなんて、私1人ではないかと錯覚するぐらいだ。(実際には独身でバリバリ仕事している人もいる)田舎の考えだから仕方ないとは思っている。だけど、何となくこの同業者の同年代の男性に言われた言葉は引っかかったのだ。

私は何を犠牲にした?彼は私の何を見て犠牲にしたと言えたのだろうか。

適齢期での結婚、出産?私は結婚をしたいと切に願い、そのチャンスを犠牲にしてきただろうか?いや、犠牲にしてなんていない。もちろん考えたことはあるし、そのチャンスは確かにあった。だけど、選ばなかったのは私だ。選ぶまでもいたらなかったケースだってある。

プライベートを犠牲に?いや、それも違う。私はやりたい仕事をやっている。好きでもない仕事は続けられない人間だ。プライベートだってちゃんとある。好きな趣味もやっているし、仲間もいる。仕事とプライベートの両立にも満足している。

仕事をして病気になったことはない。精神的に病んだこともない。もちろんミスをしたり、会社の人にいらだったり、お客さんに怒られたり。愚痴を言えばたくさんあるだろう。だけど、精神的に病んだり、寝込んだりするようなことはまずない。好きな仕事ではあるがそこまで仕事に命はかけていない。

そう、私はなにひとつ犠牲にしてきたつもりはない。だけど、そんな風に想われたということはやっぱりこの年齢で独身のせいなのだろうかと思った。これは一般論で、特に田舎の考えであればあるほどそう思うだろう。私の母親さえ、この歳で結婚していない私に、仕事があってよかったねと言うほどだ。この価値観は間違っていない。人の価値観に正解、不正解はないのだ。悲しいけど反論しても、人の価値観は変わらない。

少し前の私ならその人の言葉に引っかかり、そして呪いのように感じただろう。だけど今はもう引っかかりはしたけれど、自分に呪いはかけなくなった。そう思う人もいるだろう。それでいい。その人に私が犠牲にして仕事をしていると思われても、どうってことはない。私が仕事にウェイトを置いてきた人生なのは正しい。いつだってやりたい仕事をするためにと摸索してきた。その分、私にはその経験ができた。自信にも繋がった。それで誰とも競うつもりもない、私だけが培った実績がある。トイレで泣きながら仕事をしたこともあった新入社員時代を経て、自分で選択し、海外にも出て、そして東京に出て新しい働き方も自分なりに見つけた。挫折はしかけたり、悩みもたくさんある。だけど私は今ここにいる。今の生活にそれなりに満足を覚え、仕事に対しても自分なりに取り組めて目に見える実績がある。信頼もされてる。その事実だけで、私は十分なのだ。以前ならそれ以上、みんなに分かって欲しかったと願っただろう。だけど今は違う。分かってくれなくてもいい。アピールもするつもりもない。私が、私を分かっていればいいんだと思えるようになった。

その人も決して悪気があって言った言葉ではないことは分かる。だけど、その人の言葉はその人の性質を表すこともよく分かった。親の会社で自動的に働き、その中でも彼はかなりやり手だ。もしかしたら敷かれたレールの上でいる自分に劣等感もあるかも知れない。実際に彼の父親の社長も会ったことはあるが、癖のある強い人間性の人だったから。彼ももしかして何かを犠牲にして働いているのかも知れないのだ。

人生において何を犠牲にしてきたかなんて、彼からの言葉を聞くまでは考えたこともなかった。そういう考え方もあるのかと勉強になるぐらい。きっと何かを手放すことはある。だけどまた何かを手に入れると考えたい。「犠牲」そう表現するには少し悲しい。人は少なからず何かを犠牲にしてはきているのだから、できるだけそれを前向きな言葉で自分の歩みを肯定したいと思う。

私は何を犠牲にしてきたのか。その答えは明確。私はなにひとつ犠牲にしていない。ただ「選択」をしてきただけだ。その時、その時、自分ができる精一杯の選択を。それが人の目に時に犠牲として映ったとしても、これからもその選択をしながら生きていくだけなのだ。

誰かの言葉に惑わされないように。

これからも私は何かを犠牲にしたと思わないように。

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