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賢く・物知りに・器用になる欲望に抗って、不器用さがひらく可能性を信じる

以上でドゥルーズが斥ける知識人の「動きすぎ」とは、あれこれに関し私たちの代表者たらんとする者 —— あれこれの再提示=表象をしてばかりで忙しい者 —— の節操のなさを指しているのだろう。そういう者は、生成変化によって自失する危うさに接していない。動きすぎる知識人は、裏腹に、理性の領分から動かないからである。

『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』千葉雅也

数値的なエビデンスとかは全くなくて、ただの個人的な所感なのですが。

最近、「自分にはこれしかできなかった」系の不器用さが才能に繋がる例をたくさん観測していて、中途半端に色々できてしまうと、かえってベクトルが発散して良くないのでは、という気がしています。例えば、昨今のIT時代に、「プログラミングができなきゃいけない」という欲望に抗うことの重要性とか。

「勉強は選択肢を広げる」なんて言いますが、とんでもないことだと思います。全ては成長も劣化もない、ニュートラルで不可逆的な自己破壊です。勉強をする前の自分には決して戻れません。知識も同じ。肥大化した知識が意思決定の足枷になるくらいなら、ない方がいい。冷静で理性的な人間でいるよりは、向こう見ずな人間でいた方がよかった、なんてこともあるのです。

何でもかんでも知ろうとせず、引き受けようとせず、世界にアウェイな領域がたくさん残っていても平気である、という態度が一周回って必要かもと思います。好奇心の暴走を抑えて、「賢く」「物知りに」「器用に」なろうとしないことの重要性です。「愚かさ」=有限性からしか、道は開けない。

「何でもできる」とは「何もできない」ということだし、「何にでもなれる」とは「何者でもない」ということなのでしょう。あちこちに散らかってしまいがちな可能性を外側から押さえ込んで、自分の「キャラ」を立てる要素が必要です。ただ、それは自分の意識とかでどうにもなるものでもなくて、むしろ偶然性や制約といった、人間の意志の外部によるものが大きい。

例えば、みんなが英語を喋れて、プログラミングができて … という環境に、そういう価値基準を内面化したことのないひとが混じっていくとします。普通の人が「劣等」として解釈してしまうところを、そのアウェイさをうまく反転して自分独自の空間を作っていく生き方があると思います。もちろん、そのためには「開き直り」という別の器用さが必要だと思うのですが。

シンプルにいえば自分のなかの「不得意」を許容するってことで、コンプレックスに負けちゃって安易になんでも得意になる方向を目指さないって感じなのですよね。「知らないことを知る努力」だけじゃなくて、「集中すること」の重要性が、両輪で意識されるべきなのかもしれない。

例えば、音楽がすごく好きなんだけれども、プログラミングができてしまえば何だか潰しがきいてしまって、「このままでは生きてはいけない」という切実さが消えてしまう、とか。プログラミングができないままでいた方が、死に物狂いで「自分はこれしかできないから、これで食べていく覚悟をしないと」といった形で決心ができたんじゃないか、とか。
(もちろん、その覚悟の先に待っている悲惨さもあると思います)

「できてしまう」という賢さが、「やりたいことはこれじゃない」といった違和感を止血して表層的には隠してしまって、でも人生のずっとあとになって、そこをうやむやにした後悔が募ってくるかもしれないとか。収入もそうかもしれないですね。

どこで見切りをつけるか、的な意思決定は正解がなさすぎて、ここで一般的な問いを前に考えても仕方がないのでしょう。やりたいこと、なんて内省したところで見つかりようがないし、色んな環境や行動に自分をさらしてみて、自分がそこで感じたことのデータを実験のように集めていくしか方法はないのだと思います。キャリアプランやビジョンといった抽象的な道具は一旦手放して、自分が2-3ヶ月の単位で熱中できるプロジェクトを何個か持っておく、ぐらいのスタンスでいたいと思っています。

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