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神経科学から考える、多様性社会における精神的な「健常」と「異常」の境界線の哲学

僕は神経科学を研究している、つたない学部4年生ですが、神経科学を勉強していると、「精神疾患」と「健常」とみなされる境目は、人間社会により、実に恣意的に決定されているのだなと実感します。

僕は大学以降、理論物理や神経科学に興味があり、人間の知能とか情動を、脳内の化学反応 —— 究極的には物理法則に還元して考えることが増えました。

今世紀になり、例えばうつ病といった心の症状には、医療的なアプローチが必要であるという認識が一般社会でも常識になりつつあり、個人の意志を前提とした「根性論」は淘汰されてきているように思います。

しかし、「自分の意志で変えられる」とみなされる責任の範囲・自由の範囲、そして「疾患とみなされる」保護の範囲は、どのように定められており、今後どのように考えられるべきでしょうか?この問題を、精神疾患を例にとりながら、最終的には多様性社会における境界線とは何か、まで考えていきたいと思います。

1. 脳ってどうなっている

脳は宇宙のように広大な組織ですから、脳を語るにしても色んなスケールがありますが、今回は細胞単位で考えます。

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様々なスケールで観察できる脳機能。下の学問スケールはあくまで一例です。
iconはflaticon, freepikより引用。

脳を構成する1単位である細胞はニューロン(神経細胞, neuron)と呼ばれ、ニューロンは軸索(axon)と呼ばれる突起を伸ばし、シナプス(synapse)を介して他のニューロンと結合し、全体で神経ネットワークを構成しています。

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ニューロンの構造。画像はWikipediaより引用

2. 記憶や学習の仕組み

ニューロン同士はシナプスを介して結合していますが、このシナプスは結合強度を刺激に応じて臨機応変に変化させることができます。これをシナプス可塑性(正確には長期増強, LTP)といい、学習や記憶のメカニズムであると言われています。シナプス可塑性について重要なキーワードがHebb則です。

Hebb則
「ニューロンAの発火がニューロンBを発火させると2つのニューロンの結合が強まる」 - 脳科学辞典より

"ニューロン同士がシナプスを通じて結合し、そのシナプスが刺激により臨機応変に強度を変えることができる" - この仕組みを極めて単純化し、模したものがニューラルネットワークと呼ばれるAI(機械学習)のモデルです。最近では、深層学習(Deep Learning)が主に画像認識分野において注目を浴び続けていますが、これはニューラルネットワークにおいて、ニューロンを4層以上に重ねたモデルのことを指しています。

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ニューラルネットワークの一例である多層パーセプトロンの模式図
(画像はWikipediaより引用)

今回、これをなぜ持ち出しているかというと、人間にとって「自分の力で変えられる」とみなされていることのほとんどは、このシナプス可塑性から来ていると言っても過言ではないからです。人間にとって「できなかったことができるようになる」とは、すなわち脳内で、ある神経回路における電気的な効率が上がった、と言い換えることができ、これは究極的には化学反応、もっと言えば物理法則の範疇です。

3. 中枢神経系の疾患はどのように起こるか?

これを語るにしても色んなスケールの要因が複雑に絡み合っているのが精神疾患ですが、僕にとって親しみのある「神経ネットワーク」のスケールで書きます。

まず、人間にとって高次機能に重要なのは、脳の中でも大脳皮質(cerebral cortex)や海馬(hippocampus)と呼ばれる器官です。これらの器官の細胞は、興奮性細胞(excitatory neuron)と抑制性細胞(inhibitory neuron)の2種類に大別されます。

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この2種類の細胞の働きのバランスを興奮-抑制バランス(Excitatory-Inhibitory Balance, EI balance)と呼びますが、この働きのバランスが高次機能の発現に不可欠であるとされています。近年では、このEIバランスが崩れると、てんかん・自閉スペクトラム症・統合失調症などの様々な疾患に繋がることが示唆されています。

関連論文
1. Neocortical excitation/inhibition balance in information processing and social dysfunction
2. Inhibitory control of the excitatory/inhibitory balance in psychiatric disorders

なぜこのバランスが崩れてしまうかというと、一部の自閉症例では、遺伝子的変異により抑制性あるいは興奮性の結合が阻害されてしまうことが示唆されています。より詳しい説明としては、こちらなどが分かりやすいです。とはいえ、原因は非常に多様で、まだ分かっていないことの方が多いです。

4. 「変わりたくても変われない」

先ほど極めて平たい言い方で、「できなかったことができるようになる」とは究極的にはシナプス可塑性から来ていると表現しました。自閉スペクトラム症の一例では、正常なシナプス可塑性を阻害する遺伝的変異があるために、人と同じようには「変わりたくても変われない」要素がある、つまり「意志では補えない」部分があるということです。ところで、たった今、「意志」という言葉を使いましたが、大丈夫なんでしょうか?疾患を持った人に限らず、人間の「意志」って、制御できるものなんでしょうか?

これ以降は、信念を前提にしているという点で宗教的な議論になり、人によっては賛同できない前提があるかと思いますが、一旦は現在の科学的見解を認めることにして、議論を進めてみましょう。

5. 何をもって「自由」なのか、何をもって「責任」なのか

究極的には化学反応に過ぎない脳活動の中から、何をもって「自由意志・責任」とみなすかは、人間社会が恣意的に定めるものに見えてきます。それは、人間という極めて主観的な視点・スケールから見た、「何が自由(=自分で変えられるもの)に見えそうか」というものでしかないのです。人間にとって、分子は目に見えないものです。人間は物理法則に抗えないから人間に自由意志はない、と言われたところで、マクロスケールに生きている人間にとっては関係ないこと、なのです。人間が選び取る思想にとって大事なのは、真実性・厳密性よりも、その思想を信じることにより自分にもたらすポジティブな効果です。

「自由、健常=責任の範囲内」と「不自由、障害=責任の対象外」の境界線の問題は、何をもって「努力」と「運・境遇」の境界線を引くか、という議論と同じです。氏か育ちか。こういった話題は「生物学的決定論」の分野でも議論されています

人生は究極的に決定論か?生まれた時の遺伝的形質+環境要因で、そこに自分の意志が介在する隙は全く無く、全てが因果律で生まれた瞬間に決定している?

何をもって「無気力は自己責任であり、保護の対象でない」と定めるのか?健常者って、なんなのか?

上のTweetに対する返信。 "発達障害は連続した個性の先にある" - 本質をついた発言だと思います。

6. 正常性と異常性は多数決である

では、先ほどの自閉症の原因が「遺伝子変異」と名付けられているのはなぜでしょうか?それは、構造的な面で、異常な属性とは「大多数(majority)とは異なる少数(minority)のサンプルに見られる特徴」だからです。ここで「正常」と決められている根拠は「多数決」です。人間にとって、多数決により「差異」を構造化できた時に、異常性は初めて定義されます。これが、自閉症の原因が「遺伝子異常」だと名付けられる("科学的"ではない)人間社会的な理由です。

「怠け者」と「健常者」の2つの性質の差異は、大多数の人間にとって、構造化」されていない、すなわち異常性を認められないのです。このように、異常性を認められないと、疎外の対象にはならないが、責任の範疇とみなされます。

「あの人は変な宗教に入っている、だから私とは違う」
「あの人は、神社に行く、だから私たちとは同じ」

「あの人は同性愛者だ、だから自分とは違う」
「あの人は異性愛者だ、だから自分と同じ」

「あの人は障害者だ、だから自分とは違う」
「あの人は健常者だ、だから自分と同じ」

これらは、多数決で人間が「差異を構造化」した例です。みんな「変な宗教」に入っているなら、誰も「変な宗教」に入ることを咎めないんですよ。神道が「変な宗教」扱いされる世界では、神道の信者は異端扱いです。例えば、アメリカの保守的な地域に行けば、それが良くわかります。キリスト教信者がmajorityの世界では、当然日本における”majority”に属する日本人は異端扱いされるでしょう。日本は世界でも稀に見る均質的環境であるため、「異常性」を相対視できる機会が少ない。学校における茶髪にせよ、大坂なおみさんにせよ、宗教に対する過度な偏見にせよ、自身の固定観念をもっと相対視すべきです。

7. 「多数決」で異常性を決めない多様性社会

ここで考えたい問題が、「多様性社会」とは何を目指しているのか?ということです。majorityを優遇せず、minorityとしての性質を持った人を包摂する社会を作るのが多様性社会です。社会の総意(コンセンサス)として一本の境界線を引くのではなく、個々人が多数決に思考停止することなく自ら考え、議論し合う、そんな社会を多様性社会と言うのでしょうか。こうした社会のあり方は、今後も議論されていくべきことです。

8. 要約

1) 人間にとって出来なかったことが出来るようになるのは、究極的にはシナプス可塑性によるもので、これは化学反応である。精神疾患は、およそこのシナプス結合における化学的障害に還元できる。だが、「健常者」も、シナプス可塑性に対して物理法則、化学反応からの束縛を逃れることはできないため、障がい/健常に本来明確な境界はなく、自閉症に限らずあらゆる疾患はスペクトラムである。そのため、どこまでを「自己責任」の範疇とし、どこからを「援助・支援」の対象とするのかは慎重に議論する必要がある。

2) 異常性と正常性に境界を引くのは、人間という主観的なスケールにおける多数決という極めて恣意的な帰結。多数決による異常性の決定による疎外を緩和する一手段として、minorityが”majority”として属することが可能であるクローズドなコミュニティとしてのSafe Spaceの確保、がある。

3) 多様性社会は、多数決による「異常性」決定という方針のアンチテーゼである。自分の固定観念の中にある「正常性」「異常性」を相対視し、「誰もがつらい」という前提を忘れずに議論することが肝要ではないか。

9. 最後に

神経科学という権威的な言葉を借りて、人間社会に関するフワフワしたことを議論してしまいましたが、少しでも新しい見方のヒントになれば幸いです。僕自身これからも、もっと神経科学を勉強していけるよう精進いたします。

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