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強さに偏らず、弱さにも偏り過ぎないこと

私が今回これを書くに至ったのは、自分の中に「強さを志向する動き」と「弱さを志向する動き」の2種類が認められ、それらが互いに矛盾しているように感じられ、違和感を整理したいと思ったからです。

違和感を端的に表すなら、「強さを志向すると弱さに対する共感性を失い、弱さについて考え続けていると強さを志向することの重要性を忘れる」というトレードオフの関係です。あるいは、「優しさと強さの両立問題」として捉えられるかもしれません。そこで立ち上がってくるのは、果たして自分を強さと弱さのどちらに位置付けたいのか、という問題です。

「志向する」というのは、思考や意識が「そこへ向かう」ということを意味します。ここでは「それを目指す」というより「それについて考える」という広い意味で用いることにします。単純化を承知で整理すると、「強さ」は資本主義社会や労働市場に要請されて志向することが多い属性であり、一方で「弱さ」は倫理的な規範において、近年は多様性社会の文脈でも強く意識される属性です。具体例*1を挙げると次のような感じです。

「強さ」と結びつきの強い概念:
生産性、(市場)価値、意味、正常、健康、マジョリティ、有能、特殊、競争、希望、夢、目標、意志、成長、頑健、ノリ*2

「弱さ」と結びつきの強い概念:
非生産性、価値喪失、無意味、異常、病い、マイノリティ、無能、平凡、ケア、絶望、無気力、課題、無意識、老い、脆さ、シラケ*2

強さ志向から弱さ志向へ

個人的な話で恐縮ですが、かつて私の思考の大部分は「強さ」に関する事柄で構成されていました。「どうすれば自分は強くなれるのか」という問題に強く関心があったのです。このような関心を象徴する具体例として、例えば「天才はどのように生まれるか」という次の本を読んだりしました。

特に私が大学1~2年生だったとき(注: 時代の変化ではなく周囲の人間の年齢を指す情報として)、優秀なプログラマを指す「つよつよエンジニア」、授業で高い成績をあげる「ガチプロ」、課外活動に熱心に打ち込む「意識高い系」、自分の能力を全てにおいて上回る存在とされる「上位互換」など、「強さ」にまつわる用語がたくさん周囲で散見されました。「〇〇コンペで優勝しよう」とか「起業して成功を目指そう」という態度は、「強さ」志向のメンタルといえます。

しかし、オフラインの出会いやインターネットを通じて様々な思想に触れるにつれて、本棚には哲学や社会・心理といった人文系の図書が増えていき、だんだんと人間の「弱さ」に関心の焦点が移っていきました。大学院では神経科学を研究しているので、題材として発達障害や精神疾患も身近な問題です(当事者としてこれらを経験することと、研究として扱うことは全く別次元であることは併記しておきます)。

さらに、能力主義社会の青天井(一番を目指すことのキリのなさ)を思い知らされたことも追い討ちをかけて、これまで強さの拠り所にしてきた概念や神話 —— その最たる例は「意志」ですが*3 —— は、木っ端微塵こっぱみじんに解体されることになります。簡単にいえば、「自分(=人間)は強くて、なんでもできる」というストーリーが崩壊してしまったわけです。

脱自己責任論*4に代表されるように、世の中(正確にはインターネットを中心とした言論空間、もっと限定的には私が所属するエコーチャンバー)が今そういう動きの中にあるから、私はそのマクロな動きに取り込まれているだけなのかもしれません。とはいえ、「個人的なことは政治的なこと」と表現されるように、私一個人の精神性を分析することは、もしかすると集団や社会の精神性の変化を捉えるヒントになるかもしれません。

弱さについて考えるとはどういうことか

「強さ」が社会に要請される属性なら、それは「ノリ」という言葉で表現できるでしょう。千葉雅也氏『勉強の哲学』に従えば、「ノリ」とは集団や社会における「こうするもんだ」「こうあるべきだ」という暗黙的な要請のことです。つまり強さ志向とは、「こうするべきだ」「こうあるべきだ」を志向することです。

しかし、私自身はそれよりも、段々とそこからあぶれてしまうものについて考えるようになりました。役に立つことよりも無駄なこと、生産的なことよりも非生産的なこと、最適化よりも冗長化、最短距離よりも寄り道、といった具合です。

そしてそれは明らかに、自己同一性アイデンティティ(自分をどう位置付けるかという問題)の変化と密接に関連しています。例えば、「自分が勝っている」という自覚のあるときは成功者の言説に共感し、「自分が負けている」という自覚のあるときは「競争から<降りた>ひと」の言説に共感するといった具合です。自分と境遇が近くて、自分の境遇を肯定してくれるひとの意見を好んで聞くようになる。それによって「強さ」が別の角度から与えられた場合、共通するアイデンティティ(特にマイノリティ属性)によって他者にエンパワメントされているというわけです。

自分の興味・関心(志向性)とアイデンティティが密接に関わっているとすれば、「弱さ」について考えるためには、自分の中に「弱さ」を発見している必要があります。それが切実であればあるほど、興味は強くなる。何かについて強い関心を持つためには、その問題の「当事者」でなくてはならないということです。当事者であるためには、知識を得るだけでは足りず、身体性に根ざした主観的体験バイアス、いわばトラウマが必要です。私の場合、「勝つことの当事者」から「負けることの当事者」に変わったことにより、「強さ」よりも「弱さ」の方に関心が移ったといえます。

少し話は逸れますが、私が興味を持っている哲学の一つに「現象学」というものがあります。これは、一人称的な体験を精緻に記述することにより、さまざまなひとの経験に通じる「本質」を見出そうとする営みとして私は理解しています。そうすることで、色んな人の「当事者性」を駆動することに現象学の意義があるのでしょう。

この際、他者は絶対的に異質な存在(cf. レヴィナス)であり、個々人によって異なるストーリーを尊重する(つまり究極的には他者を理解することはできない)という前提に注意しながらも、共通性によって他者の痛みを<ある程度>理解しようと試みる。それが「弱さ」について考えることではないでしょうか。

弱さについて考え続けることのリスク

さて、「弱さ」に関心がうつったのは良いのですが、いくつか望ましくない帰結がありました。弱さについて考え続けた結果、自分から「強さを志向する成分」が減ってしまい、歯切れが悪くなったことが一つ目です。

先ほど弱さについて考えるとは、自分の中に弱さを発見していくことだと言及しましたが、それを続けるうちに私の自己認識はどんどん「弱い人間」へと変化していきました。そして、私が物事に取り組む際の信念に無視できない影響を与えるようになりました。自由意志や実行力に対する信頼は失われ、代わりに自分が「生物学的・心理学的・社会学的な条件付け過程の奴隷」*5 であると感じるようになりました。「〇〇して結果を出そう」といった目標ドリブンの努力は積極的に否定され、代わりに無力感の中でゆらゆらと遊ぶだけの人間になった。まさに「シラケ」のモードです。

しかし、そのうちシラけることにすら飽きてきます。反骨精神に裏打ちされた抵抗は空虚だからです。もはや他者が肯定してくれないので、自分一人で自己肯定できなくてはいけませんが、結局そんな孤独に耐えるのにも才能が必要です。そして、周囲のノリからズレすぎても大変だ、ある程度ノリに合わせる(=資本主義・能力主義ゲームに興じること)方がやっぱり楽だと気づきます。私の失敗は、「弱さ」にフォーカスし過ぎて、「強さ」を志向することをしばらく完全に忘れていたことです。自由意志を信じるという信念が人間のパフォーマンスに与えるポジティブな影響を見くびってはなりません。

二つ目に直面した課題は「弱さを引き受けることのとてつもない荷の重さ」です。「弱さ」について真剣に考えると、自分がそこまで倫理的な人間ではないことがわかってきます。極限の状況で「正しく」い続けようとすることの報われなさや、「弱さを標榜していたくせに、結局お前は自分のことがかわいいのだな」ということが露呈することの恐怖。本当のレッドオーシャンは「強さ」ではなく「弱さ」です。他者のこの上ない重みを引き受けようとした瞬間に、すぐに圧倒され、自分はそこから逃げ出したくなってしまうということがよく分かりました。

「強さ」を放棄し、競争から<降りた>先でも、結局のところ完全に競争から逃げることはできない上に、「弱さ」を引き受けるにもこの上ない覚悟が必要だ、ということになる。「お前そんなに弱くないだろ」と言われるより、「もっと強くなれよ」と言われる方が、まだ後ろめたくない。「弱さ」を演じるより、「強さ」を演じている方が、自分にとってはペルソナとしてよっぽど楽なのかもしれないと思い始めました。それは中途半端に「共感できるフリ・痛みの理解者であるフリ」をしないということです。そして競争に参加する加害者、格差構造の加担者としての立場を引き受けるということです。実力を追求されるより、果てしない倫理を追求されることの方が、私にとっては自信がなく、恐ろしいことでした。

強いのか、弱いのか、どっちなんだ

これまでに述べたことは、一般化したていで記述していますが、あくまで私の場合は自分の「弱さ」がそこまで切実ではなかったということであり(こうした告白ですら、分断が前提となった今は慎まれるべきものになりました)、他の人にとっても私と同じような結論に至ることが望ましいという主張の意図は一切ありません。私の場合は、強さと弱さのペルソナを揺れ動いた結果、今はそのバランス感覚に気をつけようという自覚に至ったということです。もはやバランスすら全てではなく、強さか弱さ、どちらかを徹底的に極める、というのでも良いのかもしれません。

強さに偏って志向することの弊害は明確であり、これまでに何度も主張されています。それは「強くなりたい」という信念が「今のように弱いままじゃダメだ」という現状否定と不可分であり、自分に対する現状否定(=自虐)は、注意しないと、同じような境遇にある他者のあり方を否定することに容易に接続されるという点です。あるいは自由意志を過大評価し、環境や運の影響を過小評価することの危険性です。

一方で、今回私が指摘したかったのは、弱さを偏って志向することの弊害や、弱さを安易に憑依させることのリスクです。それを踏まえた上で、自分をどのくらいのバランスで位置付けるべきなのか、慎重に吟味しなくてはいけません。結局のところ、強さと弱さ、どっちを志向するのが正しいという二元論に落ち着くことなく、バランス感覚をもっていることが肝要ではないかという当然のような結論しか、残念ながら今の私には思いつきません。

才能・価値・特殊性としての自分の強さを大事にしつつ、共感性・当事者性の素地として自分の弱さにも対等に目を向ける必要があるのだと思います。また究極的には、日本を元気にするのは夢探し(強さ)なのか、課題解決(弱さ)なのか、どっちなのかという問題でもあります。しばらくはバランス感覚を忘れないようにしながら、今後もこの問題について考えたいと思います。

関連文献

*1. 具体例はここから一部を拝借しました。鷲田清一氏は、『ひとの現象学』文庫版あとがきの中で次のように述べています。

わたしのこれまでの仕事はもっぱら、<ひと>の存在を逸らし、ずらせてゆく契機に着目したものが中心であった。「実体」とされるものよりはむしろ「表面」(衣服や顔)、「究極」よりは「普通」、「完成」よりは「未完」、「強さ」よりは「弱さ」、「成長」よりは「老い」、「めがける」よりは「待つ」、「リーダー」よりは「しんがり」、さらに言葉なら「意味」よりも声の「肌理きめ」、すかっとした論理よりは噛み切れなさや割り切れなさ、目の詰まった組織よりは想像や自由のすきまといったふうに、である。

*2. 「ノリ」「シラケ」という言葉は次の文献に由来します。

要は、自ら「濁れる世」の只中をうろつき、危険に身をさらしつつ、しかも、批判的な姿勢を崩さぬことである。対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位エレメントであることは、いまさら言うまでもない。簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。

*3. 「意志」概念は哲学・社会心理・神経科学など様々な角度から解体されますが、主な本を二つあげておきます。

*4. 脱自己責任論と関連して、サンデル氏の新著の議論も欠かせません。

*5. 『夜と霧』で広く知られるV.E.フランクル氏は『虚無感について』p.164で次のように述べています。

(引用者注: サン・クエンティン刑務所の囚人に向かって話をしたとき)私は、一貫して彼らが自分自身を解釈するのと同じように、彼らのことを解釈していただけだ。それは即ち、彼らは自由で責任ある存在だ、ということである。自分自身を生物学的・心理学的・社会学的な条件付け過程の犠牲者だと考えることによって罪の意識から安易に逃れるようなやり方を、私は示さなかった。また、私は彼らを自我と超自我との戦いの場にいる無力な歩兵だとも見なさなかった。私は彼らに、それによって罪悪感が取り去られるようなアリバイを提供することもしなかった。私は彼らを仲間として見なしていた。彼らは、罪悪感を抱くことは人間の特権であり、責任が罪を克服するのだということを学んだ。

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就職活動において「強いペルソナ」を演じる葛藤が表現されています。それがフィクションだと割り切っておくことの重要性に賛成です。

しかし、就職活動という名の思想統制には、どうかあまり感化され過ぎないで。”勝てる”人格はあくまで単純化された武装モードだということを忘れず、悩ましい一面や全く生産的じゃない一面も、ぜひ大切に日々を過ごしていただけると嬉しいです。

朝井リョウさんが、競争から降りたはずの世界で待っている別の痛みを言語化されていて、個人的に好きな文章です。

「他者や社会から『お前は男だからこうだ、女だからこうだ』と言われるつらさは、焼き印を押されるような、外から火傷を負わされるような痛みだと思います。誰が見ても傷の在り処がわかる痛みです。 ただ、多様性礼賛の世界の中にいながら自分を誰かと比べ続ける矛盾、自分で自分の意義や価値をジャッジし続ける行為は、内側から腐っていくというか、外から見ても傷の在り処がよくわからないんですよね。だから、甘えのようにも感じられる」

若年層を中心に「価値や意味の喪失」として批判的に捉えられてきた現象を、成人発達理論に照らして「相対主義的視点の獲得=意識構造の成熟」として好意的に捉え直してくれている記事で面白いと思いました。

会社の売上目標や自己成長というストーリーに人生を賭けてくれうる内面を持つのは、意識構造でいうと5.オレンジ(合目的的視点)までだということです。6以降だと、自己成長というストーリーさえも、絶対的な価値ではなくなってきます。(中略)そのため、若手の一部は(場合によっては学生の時点から)実存的苦悩を抱えてコーチングを受けたり、学んだりし始めています。

自分の弱さを熟知することについて、好きな文章です。


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