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主体性に関するメモ

高校生ぐらいのときからずっと感じていたが、いつの間にか忘れてしまっていた大事なことを書き直す。受験勉強とか就職活動に直面すると、「主体的」「積極的」という言葉を耳にする機会が増える。「主体性」とは何か、色々と引っかかる部分があるので、ここにメモを書き残しておく。

最初は「欲望に忠実であるさま」が主体性なのかと考えていたが、それだとしっくりこない例がある。

例えば、「学校の宿題に真面目に取り組むさま」と「学校の宿題が嫌なので退学を選ぶ」のどちらが「主体的」か、という問題を考えるとき、私には前者の方が「主体的」と呼ばれるにふさわしく思える。後者が主体的と呼ぶにふさわしくないのは、宿題からの「逃避」として退学を選んだような響きがするためかもしれない。「逃避」としての退学ではなくて、何か夢や目標を「追求」するための退学ならどうだろう。「音楽に集中するために退学した」に変えたら、これは主体性と呼ぶにふさわしいだろうか。

主体的・積極的という言葉に、どこか「嫌なもの」に立ち向かっていく響きを感じるのは私だけだろうか。「トイレ掃除を積極的に行う」「町の人に積極的に声をかける」 —— 自然には発生しないこと、当たり前にはできないことに対して「主体的」「積極的」という言葉を使うのでは?

主体的・積極的という言葉にはポジティブな響きがある。社会的に称賛される行為を自発的に行うさま、が積極的ないし主体的と呼ばれる。だとすると、主体的という言葉は「欲望に忠実である」というより「社会の要請と自身の欲望が調和しているさま」を指して使われる言葉ではないか。

これに関して、「やりたいこと」と「社会に求められていること」の集合をベン図に書いて重なった部分が「理想の仕事・やりがい」だ、という話がある。だが、この話は「欲望」を静的なものとして捉えているために、動的な視点が欠けていると思う。それは多くの場合、欲望ははじめから「社会と調和する形でそこにある」のではなくて、社会に合わせて形成し、調整していかなくてはいけないということだ。社会の要請が、欲望を「育む」。

私にとって、人間が「デフォルト設定で狂っている」というのは幼い頃から当たり前のことで、自然状態では「やってはいけないこと、やっても褒められないこと」をとにかくやってしまいたくなるのを、必死に抑圧して、自分の欲望を<暗示>によって調整することによって —— 例えば「私は勉強がしたかったのだ」という形で —— なんとか生きてきた気がする。だが、その世界観をあまり共有していない人が多い気がするのは気のせいか。いつからか、みな自分が<ふつう>の人間だと錯覚しだす。みんな、もともと「狂っている」のではなかったか?

とにかく、私は「主体的であれ」というメッセージを受け取るたびに、「主体的」でいることの難しさを感じる。「主体性」という言葉にはどこか「強制的」な響きがする。予定調和の中の小さな自由。とはいえ、積み重ねなしには何もできないのも事実。人生を楽しむには、強制的なもの・退屈なものへ、ある程度晒されることによって色んな能力や耐性を身につけることも必要だと思う。あくまでバランスの問題だ。

人生に対して積極的であること —— を、個人的にとても大事にしたいという気持ちがある。ここに「積極的」という言葉がしっくり来るのは、そもそも「生まれた」ことが自分の意志とは関係なく、気がついたら「生きていた」というのが人生であるからかもしれない。つまり人生は半ば、「強制的」なものでもある(言葉の響きにアレルギーを持つ人がいるので補足すると、これは全くもって生まれることを否定しているわけではない)。強制的なものに対して、意味(=欲望)を見出すことによって、ひとは初めて「積極的」になる。人生が楽しいものだけではなく、苦しいものにも満ち溢れていることを否定するひとはいないだろう。

積極性は、ときに他の誰かをインスパイアする。欲望は伝播する。多様な意味のバリエーション(ストーリー)を持って生きているそれぞれのひとが、似たような文脈を共有するひとの欲望形成を助けることがある(俗にいうロールモデルだが、必ずしもそんな大層な存在である必要はない)。だから、社会の要請とできるだけ調和する形で欲望を見出し、その欲望に忠実に生きるという形で「積極的である」ことは、ほかの誰かにとっての「意味」を発明することにも繋がる、少しだけ善いことだと思う(そう信じたい)。「社会の要請」というと少し窮屈だが、これは単に常識的に生きることを意味しない。ひとが持つ認知特性や文脈が多様であり、ひとによってしっくり来る意味やピンと来ない意味がバラバラである以上、意味の発明に多様性が必要なのは間違いない。

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