「人に寄り添う」って、「最後まで味方で居続ける覚悟を持つ」ってことかも、と性悪卒業をかけて思った件

 
きっかけがあって昨年12月、
 
誰かを応援するとか、伴走者になるとか、仲間になるといった、「人に寄り添う」ことについて、
 
自分はよくわかっていないという現実について、丁寧に省みる時間を取った。
 
 
 
親しく付き合う友人を、過去に何人も怒らせたことを思い出した。
 
 
心を開いて付き合った、親しい人たちだった。
みんなわたしの好きな人たち。
男性も女性もいた。
 
その後も付き合いのある人も、それ以来疎遠になった人もいる。
 
 
考えると、わたしは、友人の味方でい続けることに徹底していなかった。


 
丁寧に記憶をたどると、だいたい共通するシチュエーションで、わたしの言動をきっかけに怒っていた。
 
 
その人たちが弱い立場になったときにそのことを指摘したり、真面目に取り組んでいることを茶化したりしたとき。
 
 
味方の少ないことを指摘したり、悪口を言いながらからかうことは、自分にとってはパターン化した反応で、
 
   
わたしはそれが愛情表現だと思い込んでいました。 (ホントだよ)
 
 
   
愛情表現のつもりでしていた。
自分だけそう思ってる愛情表現。
失敗し続けていた愛情表現。
 
 
 
多分ホントの愛情じゃないね。
 
ホントの愛情を理解していない自分なりの、
ちょっと認知の歪んだ「愛情表現」。 


 
この自分のふるまいが、とても性格の悪い、悪質なものと気がつくのに、20年以上かかった。
 
いや、じっくり振り返れば40年以上かも知れない…
 
 

なが!
 
 
ほんとに性悪です。
 
 
 
これまで、なぜ友人が怒ったのか、
ときどき考えることがあった。
 
でも、答えはいまいちよくわからなかった。
 
 
どう振る舞えば友人は怒らなかったのだろう? と考えることはあったけど、
 
どうすればよかったのか答えが出ることはなかった。
 
 

多分寄り添っていなかったからだ、
と5、6日考えて気がついた。
 
 
その数日前、寄り添っているつもりでいた家族に、寄り添えていなかったできごとがあった。
 
あれ? と思って初めて丁寧に省みて、たどり着いた答え。
 
 
 
わたしはパターン化した反応で、消費する視聴者みたいに振る舞ってたんだね。
 

そして、過去に怒らせた友だちはみんな、わたしが悩んだり落ち込んだり、どうしていいかわからなくなっていたとき、そばで味方でい続けようとしてくれていたことを思い出した。

 
 
 
寄り添うってなんだろう? と思ったとき、味方でい続ける覚悟を持つことかも、と思った。
 
 
切り捨てず、困りごとを聞いて、答えがもらえなくても、わからなくても、とにかく応援してる、あなたの味方だよ、と敬意をもって接することだね。多分。
 
 
 
もう少し熟成させて、自分の振る舞いを変えていきます。
 
 

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