見出し画像

「閃光」に導かれることはできるのか?

『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の予告を劇場で観て、“あぁ、これはおもしろそうだな”と思ったので、先日テレビで放送された『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を観ることにした。

先に結論を言うと、観た後の私は「???」だった。もう少し強めに言っていいならば「富野由悠季さんは、頭のおかしい女性を出してくるけど、何かトラウマがあるのですかね…?」と疑いたくなってしまった。それとも、女性とはいかなるときも理解不能の生き物とか?

仕事の関係上、私は、アニメの解説や特集製作がこの2年ほどメインになっているため、長く愛されている作品、人気作品はできるだけ見るように心がけている。一度、『機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)』を紹介するにあたり、ガンダムの年表を作って欲しいとクライアントから指示があり、いわゆる宇宙世紀編をイチから勉強した。いろんな文献を読んでも、やはり理解に苦しむ部分があった(見ていないから想像ができない。さすがに、アムロとシャアはわかる。が、私は宇宙世紀シリーズではない方のガンダムしか見ていなかった。「〜00(ダブルオー)」とか「〜鉄血のオルフェンズ」とか)。

「ガンダムが好きだ!」というおじさまたちの話は、いつも大事なところが見えなくて(どうして好きなのか、どういうところに惹かれているのかが酷く曖昧な印象)、仕方ないので「機動戦士ガンダム」(いわゆるファースト)を、まだコロナ禍でなかったため通勤時間の行き帰りに毎回2話ずつ見るようにした。

見終わった後の感想は、「???」であり、「え、悪いのって地球連邦軍のほうだよね」だった。

簡単に説明すると(ちょっと時間経っているのでやや間違ってたら申し訳ないです)、地球の人口増えすぎた→スペースコロニーに移住→資源なくなるし帰ってくんなby地球→え、じゃあ独立しますbyスペースコロニー(というかジオン公国)→それは認めませーんby地球→はぁ?やったろかい!(攻撃バーン)byジオンみたいな。

どう考えたって地球側が悪い。締め出して、帰りたいって言ったらダメって言って、独立したいって言ったらダメって言って、攻撃されたら被害者面ってどういうことよっていう。もちろん、戦争とか攻撃はしてはいけない。穏便にそこは済ませたい。だけど、地球側のやり方も一方的すぎて、【何のために戦っているのか】がぼやけているというか。そりゃ、みんな死にたくないとか、国土を守りたいとかあると思うけど、絶対的な意思というか、そういうものがあまりにも弱いと言うか。。それって、【闘い】を描くアニメにとっては、なくてはならないものなのではないの?と個人的には思うのだけれど…。

あとは、個人的にアムロにもガンダムにも感情移入できなかった。もちろん、当時こういったロボットアニメがなかったということを思えば、フォルムもかっこいいし、よく考えられているなあと思う部分はいくつもある。だけど、例えば「エヴァンゲリオン」であれば、シンジくんが乗らないと初号機は動かないとか。シンジくんはエヴァに乗ることで苦しんでるとか、そういう気持ちが伝わってくるけれど、ガンダムはアムロでなくても操縦はできる。起動するし。途中、アムロ、ホワイトベースから離れるし。

よっぽど父の仇を討つ(厳密に言うとそういうことではなく、ザビ家への恨みなのかな?)キャスバル兄さんとして活躍するシャア・アズナブルの方がかっこいいし、感情移入できる。

だから、『〜シャアの逆襲』には期待していた。シャア・アズナブルならば、きっと意味のある【闘い】を見せてくれるだろうと。そんな期待があったこともあり、正直がっかりだった。

一番は、クェスだろう。「進撃の巨人」のガビのようなクソガキ感が個人的にはした。が、ガビよりも結果は厄介だった。ニュータイプは、念じることで機械をコントロールさせることができるが、もっと自分の気持ちのコントロールがうまくできないようでなければ、ニュータイプの未来なんてありはしないさ!と吐き捨てたくなるほどだった。

どうしてこの作品を作ったのか。私は、それだけが知りたい。エンターテイメントに特化させることもなく、独自の世界観の中に引き込み、そうしてまでも創りたかったものって? 他者に見せたかったものって? それは、何だったんだろう。

争いは何も生まないということ? ガンダムがνガンダムになってボディに黒が入ったところ? 軍力を笠にやってくる敵には気をつけろ? 終わったあと、爽快感も納得することも、号泣する熱い思いもなく、ただひたすらに、「???」だけが残った。私は、一生、富野由悠季チルドレンにはなれそうにない…。

それは、それでとても残念だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?