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アイデンティティ

(タイトル写真 https://shiga-shokuniku.or.jp/traceability

いつも困るのが自己紹介。所属先がない。じゃあ、何しているの?となれば、どんな仕事をしているのかを言わなければならない。この騒ぎの前に仕事を辞めているし、私を言い表すものとして使いたくない。しょうがないから、住んでいる市を言ってみたりする。そういうひっかかりがなければ、記憶から消し去られてしまう。それでもかまわないのだけれど、特に今はこういう時代だから、つながりはあったほうがいい。私のためではなく、利他の対象の人にとって。

昔から、何をしたいというのが全くなかった。小学校のときは小学校の先生だったが、中学のとき、別の学年の先生に、さぼるな!と一番まじめに掃除をしていた私の頭を竹箒でバンバン叩かれたり、班員の誰かが宿題忘れたら連帯責任だ!と言って担任にビンタされたり、・・・。絶対に先生にだけはなるもんか!と思った。ちなみにその担任は当時アラサーの女性。男女平等だから体罰するのに性差は関係ないという発想かもしれない。

それ以来、これがやりたいというのは全くなくて、ただ、親が希望しているものにはなりたくなかっただけ。いつまで経っても「アイデンティティの確立」という、青年期で達成すべき課題が終了しなかった。

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http://faceblog.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-b25f.htmlより

アイデンティティとは、「自己同一性などと訳される。自分は何者であるか,私がほかならぬこの私であるその核心とは何か,という自己定義がアイデンティティである。何かが変わるとき,変わらないものとして常に前提にされるもの (斉一性,連続性) がその機軸となる。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

提唱したエリクソンも30歳くらいでアイデンティティを確立したと、どこかに書いてあった。30歳のとき、私は母親にはなっていたが、相変わらずアイデンティティとやらが確立したという実感は無かった。中年になって、始めて国家資格を取って、その資格で稼いだ。ああ、これでやっと確立できたのかなと思った。でもそれは2,3年であっけなく崩壊した。

結局、今も自分が何者か分からないし、昔の自分と今の自分は同じではない。記憶の中の昔の私は、とてもよく知っている今はもういない人という感覚だ。

何年か前に、私と同じような年齢の人が「私らしく!」と言ったとき、違和感があった。周囲が彼女を見る目と、彼女自身がもっている自分像が一致していて、かつそれが望ましいものであるんだなと思った。そして、そういう目で私を見て!という要求をつきつけられたように感じて、正直、嫌だなと思った。なかなか仕事に就けなかった私からすれば、長く仕事を続けていて、そう言えるのは羨ましいとも思ったけれど、「私らしく!」などと口が裂けても言わないような私でよかったとも思った。

何のタイトルもない、つかみ所のない人というのは、案外と面白くて、個人的には気に入っている。寅さんのドラマは一度もちゃんと見たことがないのだけれど、寅さんっぽいのかもしれない。今時、寅さんと言えば、アメリカの前大統領を指すようだけれど。

そうは言いながら、人とお付き合いするなら、何かしらの”タイトル”があったほうがいい。それで、他人さまの記憶に残りやすい”タイトル”を考えるのだけれど、結局、「お金とどんなかかわり方をしているのか」ということを表わすことが、一番無難でわかりやすいと気づいた。つまり、職業や肩書き。それほど突っ込まれなくて、当たり障りのない話で終わる。「専業主婦」はダメだ。直接、お金と結びついていないから、職業や肩書きと認められない。色々と詮索が入るし、場合によっては蔑みを受けることもある。

私の場合は、そろそろ引退を考えるような年齢だから、逃げ切った感はあるけれど、子育ても一段落しても「専業主婦」だと、どこか具合が悪いの?と心配されることもあるようだ。"お金”と仕事で繋がっていなければ、福祉で繋がっているのかと思うようだ。年金というお金で繋がれば、高齢者ということだろう。

お金とどういう関わり方をしているのかという話は、とても個人的な話なのに、自分がどんな人であるのかを説明するときに、欠かせない話だということだ。

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「私は間違いなく私である」ということを、あなたは他人にどうやって証明しますか。・・・ポイントは二つです。まず、私たちは自分が誰であるのかを自分では証明できないということ。そして、それを証明しようとすると、最後には権力に行き着くということです。
「アイデンティティ=私が私であること」の後ろ盾は権力である。このことを反対からいうと、私たち一人ひとりのアイデンティティは権力が自らを維持・運営していくために必要なものである、ということです。近代以降の国民国家では、子どもが生まれるとすぐにその名前や性別が役所に届けられ、それによって国民の一人としてのアイデンティティが付与されます。そうすることで国家は、その子が大人になると税金をとり、兵隊にとることができるようになるのです。アイデンティティとはいうなれば牛や豚の耳につけられたバーコードと同じです。畜産農家が自分の牛や豚をバーコードによって管理するように、国家は国民をアイデンティティによって管理するのです。2016年にはじまったマイナンバー制度では、このような国家とアイデンティティの関係の本質が露骨に示されているだけで、たとえこの制度がなくても、この本質に変わりはありません。
 国家が国民を管理するうえでは、国民の一人ひとりが生まれてから死ぬまで「同じ人間」であることが望ましいのは想像に難くありません。出生時に届けられた姓名を名乗ることを義務とし、みだりに改名することを禁じた「戸籍制度」が成立したのは18世紀の末、革命期のフランスです。これによって国家は、国民の誕生から死までをその名前によって管理できるようになったのです。しかし・・・、名前は簡単に偽ることができます。職務質問を受けた逃亡中の犯罪者が素直に本名を名乗ることは、ふつう考えられません。それでは権力はどのようにして、身元を特定するのでしょうか。フランスの警察官僚 アルフォンス・ベルティヨン(1853-1914)が目をつけたのは「身体」です。
 19世紀のフランス警察は、捕まえても本名を明かさない犯罪者に頭を悩ませていました。・・・アルフォンス・ベルティヨンが逮捕した犯罪者の身体を子細に測定し、そのデータによって累犯者の身元を特定する「人体測定法」を生み出した・・・。
(やがて)より簡便に記録することができる「指紋法」に取って代わられることになります。生まれてから死ぬまでほとんど変化することのない指紋は、いわば生まれながらに刻まれた「バーコード」として、権力に利用されることとなったのです。

ふと「トイビト」のこの記事を思い出した。この騒ぎが始まる前の2018年の記事だ。改めて読んで見ると、ぞっとした。

指紋というバーコードは、体内チップを埋め込むという話に進みつつある。

しかも、私たちにバーコードをつけて管理をしようとする権力は国家ではない。国家の上に君臨するものがある。

自分がどんな人であるのかを説明するときに、「お金とどんなかかわりをしているのか」を言うことになっているのは、はじめに言ったとおり。つまり、アイデンティティはお金との関係だ。

お金は国家が握っているのではない。そう、あの人たちだ。アメリカは建国以来、お金の権利を国家に取り戻そうとする人たちがいた。寅さんもそうらしい。


学校で、「アイデンティティ」の話は、複数の教科で学習する。社会科(公民)、保健、家庭科。

いやあ~、濃いわ!!気づいたところで、どうするのって話だけれど。


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