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病と悪霊

『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「病気」の解説に面白いことが書かれていた。少し長いが抜粋してみる。

医学では病気を「体の機能、構造、器官などの断絶、停止、障害」すなわち正常状態からの逸脱と定義することが多いが、「正常」という概念そのものが不確かである。突きつめていくと「異常でないこと」という語義反復の矛盾に陥ってしまう。自然科学的に病気を定義することはむずかしい。
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病気の本性について、アメリカの医学者エンゲルハートらは「病気という概念は病人が属す文化や社会のもっている価値や信条によって構成される」という考え方を提唱した。つまり、病気とは実体というより文化や社会による決め事という側面が大きくからんだ概念である。

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ただ、このような概念の背後には、日常的な活動を妨げるものとして、それを取り除くことが望まれているものの存在が措定されている。
 その一つは自然的な実体である。それが存在することによって、日常的な責任が全面的あるいは部分的に免除されたり、道徳的な責任も追及されず、さらには治療をも含めた援助を受けることの正当性が社会的に承認される。つまり、自然的であるということは、病む本人の意志とは無関係であると考えられるため、責任のとりようがなく、また、そのために能力が低下したということであるから、周囲からの援助に加えて、専門的援助が必要とされるのである。
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 もう一つは個人的な事情である。それが個人を苦しめ、運命にも大きな脅威となる災厄である以上、なぜそのような状態がもたらされたのかという個人的な事情を納得できなければ、それからの解放の手だてはつかめない
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 一般に古いタイプの医学は、後者すなわち個人的な事情の理解と結び付き、新しいタイプの医学は、前者すなわち自然的な実体の把握と結び付いている

日本大百科全書(ニッポニカ)

「病気とは実体というより文化や社会による決め事」というのは、精神疾患について言われることだけれど、なぁ~んだ、医学の根本もそれなのかと思った。圧力をかけるなりして、法律やガイドラインを決めちゃえばいい話だから、悪意をもって好きにしようと思えば好きにできるということ。

例えば、血圧の正常値はこの数値の間で、外れていたら異常だということだ。数値を変えれば、病人はいくらでも”創出”できる。病人には薬が処方される。製薬会社と医者が儲かるということだ。別に、不調がなくても、健康診断でひっかかったという話になれば、今の「無症状○染」という意味不明な言葉とも通じる。今の茶番のベースはあちこちにあったという話の一つだ。

話が逸れたが、「日常的な責任が全面的あるいは部分的に免除されたり、道徳的な責任も追及されず」「病む本人の意志とは無関係である」ということについて。

言い換えれば、毎日、本人の意志で好きなものを好きなように食べ続けてきて”病気”になっても、「責任を追及されず」「日常的な責任が免除され」「病む本人の意志とは無関係である」とされる。この仕組みによって、”寛解”はしても”治癒”しない現行医療が行われ、税金が湯水のように使われている。

こういう仕組みが分かると、私は絶対に”病気”になりたくないし、まして、この「悪しき仕組み」に加担したくない

「病気になりたくない」については、私なりに工夫して努力していく。

問題は「悪しき仕組みに加担したくない」だ。できるだけ、罪は重ねたくない。知っていて加担するほど、重い罪はないと思うから。悪事に加担したくないのに、周囲は”病気の人”だらけだ。そこにかかわっていくのが、定められた私の残りの人生の課題らしい。


私からすれば、かなり難易度の高い課題だ。お手本は誰に求めればいいのかということになる。身近に該当者がいないとなれば、有名人。イエスだとかお釈迦様という、ぶっ飛んだ人たちになる。

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私は特に既存の宗教組織には属していない。ただ、不思議体験がイエスだったことから、イエスが病気の人にどのように接したのかということに、興味をもった。

宗教が広がる一つの要因として、「病人を癒やす」というものがある。イエスが多くの病人を癒やしたことが、『新約聖書』に書かれている。そのことについて説明されたもので興味深かったのが、以下のものだ。

渡辺信夫という説教者が、悪霊に憑かれた人のいやしと、病人のいやしとは違うと、説明しております。
 悪霊に憑かれた人の場合は、その人がイエスの前に来ると、悪霊どもははげしく抵抗し、結局逃げて行くというのです。・・・キリストの接近によって悪霊の支配は失せ去るのだ、・・・しかし病気は逃げ去らない、と言っているのであります。
 イエスは病にかかっている人をいやす時には、シモンのしゅうとめの場合のように、手をとって起こされたり、言葉をかけたりしていやしているというのです。それは何故かというと、病気は悪霊のわざではなく、その原因は人の罪にあるとされているからだというのであります。
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「イエスは悪霊を追い出す時には、『権威あるもの』として人を驚嘆させる存在として立つのに対して、病人をいやす時には、苦難のしもべとして、自分の身を低くして、罪の赦しを与える和解者として立つ。主イエスは病めるものの外に立つことなく、病めるものの内側にかかわっておいでになる」といっているのです。

http://www.t3.rim.or.jp/~kyamada1/byonin.html


「メディア」や「社会の空気」のようなものが、現代の悪霊だと思う。私には特別な力があるわけではないから、悪霊退散は無理だということだ。実際に無理だったし。これについては、私の能力を越えているということだ。


となると、私にできることがあるとすれば「病の人」に対してだ。

引用した文によれば、「病気の原因は”人の罪”」である。

イエスは「”悔い改めよ”。天の国は近づいた」といって、宣教を開始したとされている。ということは、”悔い改めていない”ことが”人の罪”だと考えられる。

悔い改めるとは、もともとは方向転換する、向きを変えるという意味をもった言葉であります。自分に向かっている視線を、自分から神のほうに目を向ける、そういう方向転換が悔い改めであります。

http://www.t3.rim.or.jp/~kyamada1/byonin.html


”病気の人”が”自分”にばかり目が向いている
といういうのは、私も気づいたことだ。


「神」という言葉に抵抗があるのならば、「お天道様」でもいいと思う。


病人をいやす時には、苦難のしもべとして、自分の身を低くして、罪の赦しを”与える”和解者として立つ。

http://www.t3.rim.or.jp/~kyamada1/byonin.html

私には罪の赦しを”与える”ことなどできないけれど、その道筋に向うよう援助をする”努力”ならできるのではないかと思った。

ただ・・・、現代の”病気の人”には悪霊も憑いている場合がほとんどだから、悪霊が構築した「悪しき仕組み」に関わらざるを得ない。悪霊は私の力ではどうにもならないことなのに。

この矛盾に飛び込むことが苦しいと思っていた。

でも、それこそ、不思議体験で言われたことばがここで生きてくるってことだ。書いているうちに、そう思い至った。一言、二言の短い言葉だったのにね。この騒動で、色々と私が思い悩むことをご存知だったのかと・・・


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