見出し画像

多様性

「多様性」とひとことで言っても、人によってその想定範囲が違う。この言葉をめぐって、地雷を2回踏んだことがある。

1回目は、「何でも言って!私は多様性を大事にしているから」と言ったから、私の意見を言った。そうしたら、「あなたは私を侮辱しているのか!」と激怒されて、あなたのここがダメ、あそこがダメと泣かされた(弱すぎる・・・)。プライベートで上下関係が無かったから言ったのだけれど。もう二度と言いません。

2回目は、家庭科の教員免許を取るとき。多様性が大事、多様な家族形態を尊重しましょうと、LGBTの権利を守らなければいけない!と言うが、子育てしていても専業主婦”だけは”絶対にダメだと言う。反論すると、その理由を蕩々と言う。私を論破したと思ったのだろう。言い終わって、「よっし!」と小さくガッツポーズをしたのを私は見逃していない。論点がずれまくっていたけれど、単位をいただかないといけないから黙っていただけ。

その後、講義では何かと意地悪をされたし、成績は単位取得の最低点、60点だった。課題の出来はともかく、言われた課題を全部提出し、テストも受けたし、無遅刻無欠席。授業料以外にも交通費と宿泊代を出して受講した講義だったから、落としたら問題になると思ったのだろう。長くあちこちで学生をしてきたけれど、60点なんてこれ以外にない。「本当は不合格にしたいのだけどね!」という教員のメッセージがビンビンに伝わってくる点数だ。

彼女たちにすれば、自分が想定した範囲内での多様性であれば、受け入れられるというだけで、私のようにぶっ飛んだ(?)人間が思い浮かべる多様性は、常識を逸した圏外らしい。

私はずっとぺーぺーだから、「多様性が大事」など、口にする機会もなかったが、言えば言うほど、「私には多様性がない」と自ら宣言しているように聞こえる。

この二つの話は、どちらも教師をしている人の口から出た「多様性」だ。1回目は分からずに地雷を踏んだが、2回目は、わざと地雷を踏んだ。私からすれば”偏った多様性”を子どもたちに一方的に吹き込むのは問題だと思ったから。受講生はほとんどが現場の教師だから、考えてほしいとも思ったが、味方は誰もいなかった。

今、「多様性が大事」と言っておきながら実は真逆だったことが、世界規模で起こっている。

 今年,最も残念だったとことは,これまで「多様性(ダイバーシティ)」が大事だと言ってきた世界のリーダーたちが,実は,多様性を最も嫌う差別主義者だったことが分かったことです。・・・
 彼らは、党の名前を色々変えるマクロンは別にして、民主党や自由党とかいう名の政党に属し、リベラルな政策をモットーとしてきました。リベラルといえば、多様性を重視し、弱者に厚い政策を展開するはずですが、新型コロナワクチンを巡っては、プーチン大統領や習近平国家主席もびっくりの強権を発動しています。(「『多様性』というマウンティング」 より)


面白いのが、多文化主義政策を推し進めていた国が、今、恐ろしいほど全体主義に陥っているということだ。

イギリスの植民地であったカナダ、オーストラリアでは、白人優位のもとでの同化主義が有力であった(オーストラリアでは白豪主義とよばれる)。しかし、カナダではケベック州でのフランス系住民の民族主義運動(ケベック問題)を契機として、1971年に国家の方針として多文化主義が宣言され、それはさらに1980年代には、アジア系を中心とする新しい移民を包み込む形での多文化主義政策へと発展した。また、オーストラリアでもカナダにならって1970年代に多文化主義政策が始まった。
(「日本大百科全書(ニッポニカ)『多文化主義』の解説」より)


イギリスの流刑地だったオーストラリアは、今や国全体が牢獄のようになっている。カナダもひどいらしい。


”彼ら”が「多様性」の範囲を設定し、”彼ら”が「多様性」のルールを決める。


「多様性」という言葉は、私たち庶民や享受者が想像するものと、彼ら為政者や教師の意図するものとズレているということだ。



「青い目、茶色い目」という有名な実験がある。

「青い目の子はみんな良い子です。青い目の人は5分余計に遊んで良いですよ」
「茶色い目の子は水飲み場を使わないこと。なぜなら茶色い目の子はダメな子だからです」
白人の子供たちだけが集まるクラスで、青い目を持つ子供は優れ、茶色の目の子供は劣っていると決めて学校生活を過ごさせた。・・・主観的な差異は、仲の良かった生徒たちの間に奇妙な空気を流れさせる。これは、支配的な集団が、下位と認定された人たちの上位に立ち、支配する構図を作る社会の仕組みが形作られるのを示唆している。・・・

もちろん、青い目を持つ子供が優れ、茶色の目の子供は劣っていると宣言したのは教師である。「5分余計に遊んで良い」というのが、教師が設定した範囲の中で多様性を認める、または多文化主義ということだろう。”彼ら”がその範囲を自由に設定する主導権を持っているということが重要だ。


「人民の、人民による、人民のための政治」は結局、「彼らの、彼らによる、彼らのための政治」になっていく。奢った彼らに従うより、「神の、神による、神と人間のための政治」を考えたほうがいいのかもしれない。知らなかったけれど、聖書はそういう話のようだ。「神」という言葉に抵抗があるなら、お天道様でも、自然でもいいと思う。人智を越えたもの。

聖書によれば、悪が極まって、終末のときが近づいているとのこと。


昨日、本人が来院したとき、息子さんが付き添いで来られていたことに驚いた。カナダ在住のはずでは?
「3日前に帰ってきました。でも、もうすぐカナダに戻ります。11月からはワクチン未接種者は海外旅行ができなくなります。しかし僕は、あのワクチンを打つつもりはありませんので」
この言葉だけで、息子さんが今日本に帰ってきた意味が分かった。
息子さんは、父親に最後の挨拶を交わすつもりで帰国した。ワクチンを打たない意志は固い。だから、11月以降、二度と日本の土を踏むことはない。たとえお父さんが亡くなったとしても、葬儀のために帰国することもない。大げさではなく、今生の別れを言うために、最後に日本に帰ってきたのだった。(「今生の別れ」より)

ここは日本で、まだまだオーストラリアやカナダよりは緩いし、”彼ら”の計画が、この国では成就できないかもしれないとちょっと期待している。でも、私もここのところ、会う人、行くところは、今生では最後だと思うようになった。

まず、飛行機には乗れなくなるだろう。その次は新幹線。行けない施設やお店も出てくるだろう。

これらの物理的な話もあるが、住んでいる次元が違うということを、しっかりと受け止めなくてはいけない段階にあるということだ。意見の違いではなく、次元の違い。これからも何度か会うよりも、住んでいる次元を優先させるほうが、お互いに平和であるということだ。親しい人も愛する人も、”彼ら”の見せる幻想を信じているか、”彼ら”のつきつける無理難題を受け入れてでも職を失いたくないし、飛行機にも乗りたいと思っている。

私は”彼ら”の設定する”多様性”を享受したいとは思わないし、なくてもなんとかなると思っている。それに、私が打たないと宣言していることが支えになっている人がいるし、薬害を知っている者としては、やはり打てない。私の手首に今も感触が残っていることも大きな理由だ。○ロナ直前に仕事を辞めたのも、偶然ではなかったのかもしれない。こちらの次元で生きよと。

もう、行くところまで行くだろうね。


(タイトル画像:https://www.smallworlds.jp/news/20191128_pr-2/ より)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?