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今日のこと、カタツムリのこと

7時前のアラームで目覚めて、寝転がりながら財布の中を漁るところから1日は始まった。

寝ぼけたままの頭で病院の診察券を取り出し、「7:00」を見るやいなや電話の発信を押す。自動音声にしたがってボタンを押す。
せっかく待ち構えたのに取れた番号は14番。争いである。

行きの道は散々だった。突然の大雨に当たられた。
病院まであと半分もないというところで雨粒が落ち始め、傘を取り出さなくても行けるか、と早歩きになったが、間も無く大粒の雨が次々と降ってくる。
観念して折り畳み傘を取り出す。

アスファルトが白く光り、遠くに見える橋は霞んで見える。先ほどまで感じなかったはずの風も吹き付けてくる。私のテンションに反比例してノリノリで当たってくる。

あっという間にスニーカーも服の裾もぐっしょりと濡れた。帰ったらスニーカーを洗うと決めた。

そんなこんなで傘をさしたのにずぶ濡れになって病院にたどり着く。懸命の努力でとった「14」が画面に表れるのを隅の席でじっと待っていた。風邪引きたくないなと思いながら。



診察が終わって外に出れば雨も風も止んでいた。行きは随分運が悪かったみたいだ。
歩道の水たまりを避けながら次の用事を済ませ、少し早く流れる濁った川沿いを歩いて帰ることにした。

湿度が高いので一度濡れた服や靴は一向に乾く気配がない。


いつもは見える川の飛び石も、少し不自然な波を作っているだけで、目では確認できなかった。
それを見てじっとり重たい空気を吸いながら、坂を上る。

上った先の車道と歩道の合流地点にあるポール(ボラードというらしい、まあそれは今はどうでもいい)に何気なく目をやると、そこには小さなカタツムリが。

さすが雨上がりと言わんばかりの出会いである。

実は動物や虫はあまり得意な方ではないが、カタツムリは見ている分には何も襲ってこないので見ていられる。

(ここで、「セミの抜け殻は襲ってこないどころか生きていないのに触れない」という私の中での大矛盾が勃発するのはお決まりのルート)

それで、カタツムリの写真をパシャパシャと撮った。

のろのろ動くのは、言ってしまえば、愛らしい。命取りなのだろうけれど、必死なのだろうけれど。
柔らかそうな部分ばかり見ているとちょっと嫌になるので、渦巻きに焦点を合わせていた。

それならやめればいいのにと自分でも思ってはいるが、朝雨に降られたのも許せるくらいに、今日のカタツムリとの出会いは嬉しいものだった。

どうしてそんなにカタツムリに愛着や思い入れがあるのかといえば、昔の私が自身をカタツムリに形容して物を書いていたからなのだけれど。

それで、さらに言えば、昨晩その物語に思いを馳せていたからなのだけれど。

決してそれは美談の余韻などではない。

まあその話はまたいつかするかもしれないし、しないかもしれない。



1年に1シーズン、カタツムリに出会う季節はやってきているはずなのに、ここ数年お目にかかれていなかったような気がする。今日目に留められたときには一種の感動を覚えた。

昨晩思っていたことがその次の日に目の前に現れるというのは不思議だ。



これからもカタツムリに会うたびに、いや会うたびでなくても各年ごとに、こんなふうに感動し、やがて自分の内省につながっていくのだろうか。
それとも忘れてしまって嫌悪で終わってしまうのだろうか。
あるいは、そんな自然に目を向ける余裕もないほどの生活に飲み込まれてしまうのだろうか。

将来のことは誰にも分からないけれど、とりあえず今日という日のことはこうして残しておくとして。

過去の延長で生きているし、過去は覚えているだけで戻れやしないし、ただ確証のない未来にこうして思いを馳せながら、数秒先へ一歩ずつ歩んでいく、ただそれだけなんだな、と小さな生命は思いながら、びしょ濡れて汚れたスニーカーはちゃんと乾いてきれいになったか、と階段を駆け上がる。